第6話 ブライダルショー

 ブライダルショーの期日までは、飛ぶように時間が過ぎて行った。

 雑誌や折り込みチラシでの宣伝に加え、結婚式場やホテルにもチラシを置いてもらい、店頭に相談に来た客はもちろん、カップルが集まる場所でもチラシを配ったりと、この地区すべての支店が一丸となって、イベントを成功させるために協力しあった。


 イベントプランの発案者である望は、カップルが協力して解くクイズの内容や、宝探しをする為のヒント、宝を仕掛ける場所などを、ゲームの担当となった各支店の責任者と話し合い、結実島にもでかけて最終チェックをした。

 そして、ラストのブライダルショーの進行は、素人がやるよりも、プロの司会者を雇った方がいいということになり、猛のつてでステージを企画する会社に安価で依頼することができた。


 望の休日はイベントの用意に費やされ、志貴と過ごす時間も取れなくなった。

 美麗のドレスを依頼したときに猛が出した交換条件でもあり、自分の体形維持のためとはいえ、あの時、志貴を拒まずに抱かれればよかったと後悔する日が続いて、一人の夜が寂しくて辛くなる。


 望がようやく時間が取れたと思うと、志貴も仕事とは別に取り掛かっていることがあるようで、有給休暇を取って海外に出たりするので、このところすれ違いばかりだ。

 何をしているのか聞いても、形になったら話すと言うだけで、一向に内容を教えてくれはしない。


 その日も寝る前に志貴の声を聞きたいと思って電話をかけたのに、留守番電話になっていた。


「志貴さん。寂しいよ~」


 お風呂上りのパジャマ姿で、ベッドに仰向けに寝ていた望は、枕を抱いてころんと横向きになる。ぎゅっと枕を思いっきり抱きしめても、心の中までは満たされない。

 腕に回した手を、志貴がしたようにやさしく動かして撫でてみる。腕から這い上って胸の頂きまでの道を、志貴を思い出しながら触れるか触れないかでなぞってみる。


 志貴の指は時々意地悪で、来ると思うとふっと逃げ、油断すると思わず当たってしまったというように先端を掠めて望の身体をびくつかせる。

 周囲と違って一番敏感な個所が、一瞬触れられたことでより過敏になり、志貴の指を意識が追ってしまうのだ。待ち望んでも与えられず、志貴の指に触れるように身体を捩る望を、志貴が熱く見つめていたのを思い出し、パジャマと枕に当たった先が甘く痺れる。


 ぞくっと駆け抜けた感覚を、もっとクリアにしようと指が大胆に探り始めた。

 この感覚も志貴が教えたものだ。知らなかったら、くすぶり続ける要求を追い求めたり、解き放とうとすることもなかったのに・・・。


 どこかに羞恥心を残しながら、志貴を思って大胆になり、鋭敏になる箇所に残らず手を伸ばしていく。背中が反って、意識がそこから逸らせなくなり、上り詰めた瞬間……涙が溢れた。


「一人じゃ虚しいよ。寂しくて堪らない。構ってよ~」


 嗚咽を枕に吸い取らせ、後から後から溢れてくる涙を手の甲でこする。

 片思いの時は、志貴を思ってこんなに切なくなることもなかったのに……。

 頬に涙の跡を残しながら、望は泣きつかれて、いつの間にか眠りに引き込まれていった。



 朝になって目が覚めた時、望は枕元に置いたままのスマホの画面をすぐに確認した。夜中に志貴からメールがあったのを知って、思わずスマホを抱きしめてしまう。

 電話が繋がらないだけで、寂しくて不安になるなんて、恋愛患者として重症なのかもしれない。


 志貴のメールでは、昨夜、実家が経営するホテルの所在地区で、旅館・ホテル連合組合の人たちの会議があり、志貴もテレビ電話で参加して意見を述べたらしい。

 会議後、志貴の提案に興味を持ったものたち、特に親の跡を継いだ若い世代の旅館やホテルの経営者たちが、志貴の提案を具現化するためにはどうしたらいいのかを聞いてきたので、遅くまで話しこんでしまい、望の電話に出られなかったと書いてあった。


「そうか。志貴さんは、いずれホテルを継ぐって言ってたものね。会社のことだけじゃなくて、ホテルの代表者として経営のことまで、話し合ったりするんだ。すごいなぁ」

 

 改めて志貴の有能さに感心しながら続きを読むと、明後日の金曜日にドレスの試着をした後、実家のホテルまで行くので、一緒に現地を見て、自分の案についての望の見解を述べて欲しいとある。

 志貴がこのところ忙しく動き回っている理由を聞けるだけでなく、意見を求められたことで、望は志貴から寄せられる信頼を感じて嬉しくなり、すぐに、楽しみにしていますと返信した。


「実家のホテルと書いてあるけれど、ご両親は旅館の方にいらっしゃるはずだから、紹介してもらうことはないのよね? ねだるように聞こえると嫌だから聞けないけれど、手土産は一応持っていったほうがいいのかしら?」


 一人でぶつぶつ呟いていると、志貴からのメールの到着でブンとスマホが震え、望は驚いて飛び上がりそうになった。


『両親に望をゆっくりと紹介したいけれど、旅館もホテルも、土日は満室になっていて準備に追われているから、時間が取れないらしいんだ。海辺のホテルから旅館までは、車で山道を登って20分ほどの距離だから、少しでも望の顔が見たいから連れて来て欲しいと両親に頼まれている。慌ただしくさせてすまないけれど付き合ってくれ』


「うわっ! ひょっとして聞こえちゃった?」

 望はキョロキョロと思わず辺りを見回してしまい、そんなことあるわけがないのにと思いなおし、自分の行動を笑ってしまった。

 そして、スマホをもう一度胸に抱きしめると、やった~!と叫んでいた。


 

 金曜日の朝8時に志貴が迎えに来ると、いつもは出かける望にいってらっしゃいと声だけをかける母が、玄関の外まで送り出そうとするので、望は焦ってしまった。

 志貴が礼儀正しく挨拶をして、望をドレスの試着後、家業のために志貴が新しく手掛けるプランの視察を兼ねて、志貴の実家に望を連れて行くこと、遅くなるようなら泊りになるが、部屋をきちんと分けることを話すと、望の母は安心したように頷いて、よろしくお願いしますと頭を下げた。


 助手席に乗ってから、望はもの言いたげに志貴を横目で見るが、志貴は気付かぬふりで、窓越しに望の母に挨拶をしてから車をスタートさせた。


「いまさら、お部屋を分けるって言っても、手遅れだもの」


「そうでも言わないと、もし泊りになったら、男と二人で行かせるのを承知したお母さんを、お父さんが責めると思わないか?」


「あっ、母のためなんだ。そっか、ありがとう志貴さん」


「どういたしまして。望のご両親を敵に回したくはないからね。今度、改めてご挨拶に伺うって伝えておいて」


「ほんと?うれしい!伝えておきます」

 

 望は志貴の心配りに感謝しながら、今回だけでなく、志貴はいつも人の機微に敏感で、頭の回転が速く、対応もスムースなので、本当にサービス業に向いていると思う。

 そして、その気配りと、サービス精神旺盛なところを遺憾なく発揮して、きっとホテル経営も上手くやっていくに違いないと想像した。

 楽しい会話と、志貴の未来を思い描き、望がにやけているうちに、車はいつの間にか【Take.I】についた。

 

 1階の店の横にある外付けの階段を上り、アトリエの中に入っていくと、猛が足音を聞きつけたのか、入口のドアを開いて待っていた。


「よぉ! 久しぶり!」


 屈託のない猛の言葉に、望はぎこちなく会釈した後、傍らに立つ志貴の顔を横目で窺うと、挨拶をするどころか猛を睨みつけている。

 うわ~っ、やばいかも……。何事もなく試着を終えられますようにと願わずにはいられない。


 志貴の怒気を感じているはずなのに、猛は中へどうぞと声をかけると、自分は中にさっさと先に行ってしまった。

 その後を追うようにアトリに入ると、猛が奥の部屋で着替えてくるようにと、望に指示をだす。

 視線を猛に向けたまま微動だにしない志貴が気になったが、望は着替えを早く済ますために、奥の部屋へと入って行った。


 望の姿が見えなくなると、猛がようやく志貴を見たが、あまりの視線の鋭さを受けきれずに逸らし、頭をぼりぼりと掻いた。


「あの後、すぐに押しかけてくるんじゃないかと思ってたよ」


「覚悟はしていたってことだな? あの時に行ってたら、雑誌の写真撮影も不可能なぐらい殴っていただろうし、その大事な商売道具の手も、めちゃくちゃにしていただろうな」


「怖いこと言うなよ! 俺だって、最高のものを仕上げるために必死だったんだからな。納得のいくものを作っても、佐久間さんが手を出すせいで、モデルが幸せ太りをしたら、元も子もなくなるだろ?」 


 志貴が商売道具の猛の手を狙ったかもしれないと聞いて、猛は髪に突っ込んでいた手をさりげなく身体の後ろに隠しながら軽口をたたき、志貴の怒りをはぐらかそうとしたが、志貴はその手に乗らなかった。


「リゾートウエディングのイベントのために、今井さんがウェディングドレスを作ると雑誌で宣伝した後、鈴木のところにも、俺たちの会社にも問い合わせが殺到したことは聞いてるな? ブライダルショーが終わって、制作過程とショーの写真が掲載されたら、今井さんはもっと知名度が上がるだろう。だが、無理やりモデルを縛ってドレスを作ったと知られたら、どうなると思う?」


 その言葉に、さすがの猛も色を失い、愕然とした表情を浮かべた。


「俺を威す気か?佐久間さん、いくら何だってそんなことをしたら、イベントのイメージまで落とすことになるぞ。ああ、そうか、そういう酷いことをしたと俺に自覚させて、責めたいんだろう? 悪かったよ。じゃあ、1週間後のショーが終わったら、手を除いて殴られてやってもいい。それでどうだ?」


「強気だな。 さすが、何にも縛られずに自分の才能だけで生きている奴は違うな。俺が今井さんを伸さなかったのは、あのイベントを最初に考えたのが望だったからだ。ショーの部分は俺が付け足したが、二人で計画したものを成功させたいから我慢した。もちろん会社に迷惑をかけられないこともあったが、会社のために、守りたい者も守れずに指を咥えて見ていなければならないのは、もう沢山だ! これからは俺が今井さんを利用させてもらう」


 猛が、何?と言うのと、望が志貴の名前を呼んだのは同時だった。

 望は、二人が一色即発であることを察して、間に入ってイベント前のもめごとをなくそうとしたが、口で説得しなくても、望を目に留めるだけで十分だったようで、二人は黙って望のウェディングドレス姿を眺めた。


 イベントを決めるための会議で、猛が作ると言ったガーデンウェディング向けのライトドレスは、トップとスカートがセパレートになっていて、中世ヨーロッパの貴婦人のイメージか、それともコーカサス地方の民族衣装に似ていると志貴は思った。


 スレンダーな望の上半身をぴったりと包むシルクには、袖が割れた小さなパフスリーブがあり、手首に向かって透けたレースがぴったりと長い腕を覆っていて、折り返して3段に絞った袖口には一列に並んだパールボタンが輝いている。袖口からは同レースのアシンメトリーの長い襞飾りがついていて、指先で優雅に揺れていた。


 胸元は大きくVの字に切れ込んでいて、沿う様に刺繍が施してあり優雅で気品溢れるトップになっていた。

 トップの腰回りは、胸元の刺繍をアレンジした大柄のレースがサッシュとして使われていて、上半身だけを見れば、まるでお伽の国の王子や王女が着そうな装いだ。そして、それは、中性的な望の美しさをより魅力的に見せていた。


 二人があまりにも見つめるので、照れくさくなった望がもぞもぞと動くと、志貴もようやく我に返り、感想を漏らした。


「きれいだ。望……」


 うっとりとする志貴の肩に猛が手を回し、払いのけられないように反対の手でがっしりと志貴の腕を掴むと、どうだと言わんばかりに胸を張って、志貴の顔を覗き込む。 


「佐久間さんは、感動しすぎて言葉がでないみたいだな。モデルがいいのもあるが、俺の腕前も認めろよ」

 

 身体を捩って、何とか猛の腕から逃れた志貴は、望のすぐ前に立って、ふとあることに気が付いた。まさか、猛に担がれていたのではないかという疑問が湧いて、眉間にしわをよせる。


「ああ、さすがだな。これは一見スカートに見えるけれど、サイドレースのガウチョタイプのドレスだな。こんなにゆったりしたものなのに、なんで腰回りや太腿のサイズが変わっちゃいけないんだ?」


「私も聞きたい。まさか私たちをからかっていたんじゃないでしょうね?」


 猛に手荒い扱いを受け、志貴に疑われそうになったばかりか、二人の関係にまで制限を与えられた望は、腰に手を当てながら、返事次第では…というニュアンスを含ませて猛を問い詰める。


「騙したわけじゃないって!二人ともそんな喧嘩腰にならないでくれよ。そこのトルソーを見てくれ、同じ仕掛けがしてあるから・・・」

 猛は、トルソーに着せたガウチョを使って二人に、特に志貴に、当日の計画を含めてその仕掛けをどう使うのかを説明する。


 志貴は望から、美麗のドレスも猛に頼んで作ってもらったことを聞いていたので、憎い相手ではあるが、この短期間に2着のドレスを仕上げ、望の着るドレスには、思いもよらないアイディアを施して、形にしてしまった猛の才能に舌を巻いた。


「今井さんの性格と素行は破綻しているけれど、才能は本物だと思う」


「佐久間さん、それ、褒めているように聞こえないんだけど・・・」


 志貴の言葉にがっくりと肩を落とした猛を見て、望が思わず噴き出した。

 ウェディングドレス姿で屈託なく笑う美しい望を、誇らし気に見ていた志貴は、同じように目を細めている猛を視界に捉え、口元を引き締めると猛に向き直った。


「俺は今の時点では今井さんには敵わない。だが、2、3年後には俺もそれなりに形を残す物を作り上げるつもりだ」


「へぇ~。何をやるつもりなんだ?」


 猛が好奇心も露わに身を乗り出すと、志貴がにやりと笑う。


「さぁな。そのうちきっと今井さんの耳にも入るだろう。その為に、今井さんを利用させてもらう。今井さんが俺と望の企画にのって、望をモデルに使うことでその名を広めたのと同様にな」


 もともと短気で、欲しいものは欲しいと言って行動に移してしまう猛は、志貴にじらされて、すぐに我慢の限界に達した。


「どういう風に利用されるかぐらい教えてくれよ。望ちゃんにしたことは悪いと思っているから、この通り何度でも謝る。犯罪に名前を使うんじゃなければ、同意するから教えろよ」

 

 待ってましたとばかりに、志貴が親指を立てる。

「言質はとったぞ。俺はある企画で成功例として今井さんの名前を使う。今井さんがあのドレスのことについてインタビューされる機会があったら、望に興味を持ったからドレスを作ったのではなくて、俺たちの企画に興味を持ったから、イベントに参加したと言うようにしてくれ」


 猛は胡散臭そうなものを見るように、志貴を見たが、その企画が何であるか分からない以上、警戒することも思い当たらず、分かったと頷いた。


「それだけでいいのか?」


「ああ、それだけだ」


「望ちゃんを追っかけまわしたと触れ回られるよりも、俺としてもその方が格好がつくからな」


 二人のやり取りを、邪魔しないように聞いていた望は、最初に思った通り、やっぱりこの二人は気が合うんじゃなかいと思ったが、言ったところで、どちらも絶対に認めようとしないだろうと想像して可笑しくなった。


 望が笑いをかみ殺しているのに気が付いた志貴が、何を笑っていると聞いても、望が何でもないと首を振る。望と志貴のじゃれ合いを間近に見せつけられて、へそを曲げた猛が二人に水を差すために、もう取引も終わって、清算したと思った過ちをぽろっとこぼした。


「しっかし、佐久間さんは懐が深いよな。俺なら望ちゃんの脚についたマークを見たら、その場で相手の首を締めに行くけどな」


 じゃれていた志貴と望がぴたりと動きを止めて、その場が凍りついたように静かになった。


「望、脚のマークって何のことだ?」

「わ…私着替えてくる」


 望が奥の部屋に逃げて行きながら、猛に恨めしそうな顔を向けたので、ひょっとしたら、とんでもない地雷を踏んだのではないかということに猛は気が付いた。

 だが、既に遅く、猛の目に飛び込んできたのは、突進してきた志貴で、避ける間もなく、拳がみぞおちめがけて打ち込まれ、猛は堪らず床に崩れ落ちた。


「くっそ。本気で殴りやがったな。取引したんじゃなかったのかよ」


「あれは、手首を縛った件についてだ。脚のマークが何かは後でゆっくり望に聞くが、今のはそのマーク代だ」


「暴力男!殴るなら1週間待てって言ったろ!リゾートウエディングに言いつけるぞ」


「何とでも…。俺は近々、会社を辞めるからお好きなように。望、着替えたら行くぞ」


 床に起き上がって胡坐をかいた猛が、みぞおちをさすりながら、志貴に問いかける。


「やめてどうする気だ? 俺が望ちゃんに手を出さなかったら、仕事を続けていたのか? 佐久間さんがやろうとしていることは、本気でやりたいことか?」


「今井さんがきっかけになったことは確かだ。だが、全力で取り組みたいことを見つけられたから、一応感謝はしておくよ。2,3年後を楽しみにしていてくれ」


 ちょうど着替え終わってやってきた望に行くぞと声をかけ、志貴が扉へと歩き始める。望は猛に手を振ると、志貴の後を追っていった。


 一人取り残された猛は、腕を組み、一体何をやるんだろうなと考えようとしたが、あてずっぽうに考えたって本人が言わなければ、答えは出るはずもないので、時間の無駄だと立ち上がった。

 そして、自分はもっと大きくなって、何年か後に会うだろう志貴を悔しがらせてやろうとほくそ笑んだ。



 猛のアトリエを出てから、2時間ほど高速道路を走ってから食事を摂り、一般道路を30分ほど走ると、目の前に陽を受けてきらめく海が広がった。

 遠浅の海岸に反って走る道沿いには、リゾートホテルが立ち並んでいる。海岸を走る子供たちに目をやった瞳は、志貴もこの海岸をあんな風に走ったのだろうかと思うと、自然に口元に微笑みが広がる。


「何か面白いものでも見つけたのか?」


 望が海岸を熱心に見ているので、志貴はちらりと横眼で見たが、夏には賑わうリゾート地も、今は6月も残すところあと1週間の平日ということもあり、海岸にいるのは地元の子供や、主婦たちばかりで、志貴にとっては興味を持てるものはない。

 

「志貴さんも、子供の頃、あんな風に友だちと追いかけっこをしたのかなと思って……」


「ああ。ここらのリゾートホテルの子供たちとは歳が割と近かったから、海賊ごっことか、色々アイディアを出してやんちゃをしたよ。ほら、あれが父の経営しているホテルだ」


 山の緑を背景にして建つ白いコンクリートでできたホテルの敷地内に入り、志貴が車をパーキングに止めると、望の方を向いて尋ねる。


「正直に言って欲しい。このリゾートホテルが立ち並んだ界隈をどう思う?」


 望はいきなり感想を求められて、困ってしまった。

 山と海との間の限られた土地を使って建てられたホテルは、色が違うだけでまるで校舎のようにも感じられる。夏の繁忙期の集客を見込んで、いかに部屋数を無駄なく確保できるかという設計を選んだら、おうとつの無い四角の建物が一番効率が良かったのだろうと見て取れるものばかりだ。

 それを志貴に正直に告げて良いものかどうか、迷って視線を泳がせる。


「望が思っていることは、多分俺と同じだと思う。父の世代はこれで良かったんだ。利用客は日本人で、会社の社内旅行やら、団体旅行が主流で、沢山部屋があること、宴会ができること、広い風呂があることが求められた。今は近隣諸国を含む、海外からの客が主流になっていて、こういった何の変哲もないリゾートホテル界隈はスルーされるんだ」


「そういえば、去年北海道に行った時に、団体客が沢山いたけれど、聞こえたのは日本語じゃなくて、外国語ばかりで、自分の方が他所の国に来たのかと思ったわ」


 志貴は、そうだと強く頷くと、目の前の海を見渡しながら大きく息を吸い込んだ。


「外国人が見たいのは日本らしいものだけれど、ここは洋風の建物が主流で、しかも古ぼけてしまっている。これからこの辺りは建て替えや修復工事が始まるだろうけれど、これを機会に俺はあることを提案したんだ」


 望がドレスから洋服に着替えて出て行った時に、聞こえた話はこれなのだろうと察しがついた。志貴が会社を辞めてまで、全力で取り組みたい夢を一言も聞き逃すまいとして、望は志貴の顔を真剣に見つめる。


「ここを幻のジパングストリートとして日本の文化を紹介する所にしたいんだ」


「幻のジパングストリート?面白そうですね。どんな風に文化を紹介するんですか?」


「例えば北海道から沖縄の中で、外国人に人気のある個所を一軒ずつが受け持って、その土地の食べ物や祭りなどを演出するんだ」


「それだと、人気があるお祭りを開催するホテルが満室になるから、お客さまにしても、ホテル側にしても、有名な地域を取り合うことになりませんか?」


「そうならないように、リオのカーニバルのように、次のホテルまで祭りを演出しながら歩んでバトンタッチする。そのホテルで行われる祭りの席はそこに泊まった客に解放されるが、他のホテルの宿泊客たちには、神輿や踊りのパレードを道で見られるようにするんだ」


「ああ、想像できます。この界隈のお客様全てに開放できるお祭りなら、どのホテルに泊まってもいいですね。でも、他のホテルでもパレードをするのでしょう?人気が分かれませんか?」


「時間差を設ければ大丈夫だ。最初に出発したパレードが次のホテルに到着したら、そのバトンを受けて、そのホテルで行われていた出し物のパレ―ドが、次のホテルへと出発する。ジパングストリートに来れば、日本をまるごと味わえるように、ここら一体のホテルと組んで演出したいんだ。そのために改装するときは出し物が見られる箱または、ステージを設けるように働きかけている」


 夢を語りながら、志貴の目が熱を帯びて輝くのを、望は何て雄々しくてきれいなんだろうと感嘆しながら見つめた。

 一軒ずつでは催しものも限られて、意気込みの割には残念な結果になりがちだが、一体となって趣向を凝らせば、海外からの客を多く呼び寄せることが可能だろう。日本人だって、シーズンに関係なく、集まるに違いない。


「志貴さん、それは催しものの一つよね? それなら時代絵巻っていうのも面白いかもしれないわ。平安時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代というように、ある期間だけ、一つのホテルがその時代を演出するの。他のホテルへの出し物への移動は、牛車やカゴを有料で用意しても面白いと思うわ」


 志貴が望の意見に目を見張り、満面の笑みを浮かべたかと思うと、いきなり望を抱き寄せて叫んだ。


「すごいぞ!さすが望だ!結実島のイベントもそうだけれど、望はプランナーとしての才能があると思う。俺のそばでずっと支えてくれないか?」


 志貴の父が経営するホテルの敷地内ということもあり、視線を気にした望は腕を突っ張って志貴の腕から逃れると、はにかみながら答えた。


「私に才能があるんなんて大げさです。でも、志貴さんが望むなら、一生懸命考えたアイディアを一緒に形にできたら、すごく楽しいと思う。ここの未来を思い描くとわくわくしちゃう」


 志貴が物言いたげに望を見るので、望は何か間違ったことを言ってしまったのかと首を傾げて、志貴の言葉と自分の言葉を頭の中で反芻した。


 あれっ?確か志貴さんは、俺のそばでずっと支えてくれないかって言ったよね? 

 それって、ひょっとして……意味が分かった途端に、信じられないという顔で望が志貴を見上げたので、志貴が片方の眉毛を上げて、茶目っ気一杯の顔で問いかける。


「俺と一緒の未来にわくわくしてくれるのが、プロポーズの返事でいいのかな?」

 

 望は何も言えなかった。感動しすぎて、全部どこかに吹き飛んでしまったかのように、言うべき言葉が見つからない。

 目と鼻が熱くなって、すんと自分の声ではないような音が鳴ったと思ったら、目の前がぼやけて涙が溢れてくる。

 嬉しくて、嬉しくて、志貴の腕の中に飛び込んで、胸に顔をうずめてすんすんと鼻を鳴らしながら泣いた。志貴が微笑みを浮かべ、慈しむように望の背中を撫でるので、望の嗚咽は余計に止まらなくなってしまった。


望が落ち着くと、志貴は従業員専用の入口から望をホテル内に入れ、化粧室に連れて行ってくれた。元々薄化粧ではあるけれど、涙で半分取れてしまったメイクを何とか直し、志貴がここで待っていると言って入っていった従業員ようの休憩室へ向かった。ノックをして入っていくと、ダークスーツをきっちり着こなした50代の男性が志貴と話している。

 面差しがどことなく志貴に似ているということは、志貴の父かもしれないと思った途端、望の鼓動が高くなった。


「望、こっちへ来て。父に紹介するよ。彼女は俺の恋人の和倉望さん。俺と同じリゾートウエディングで働いている」


 ああ、やっぱりと思いながら、望は頭を下げた。

「初めまして。和倉望と申します。いつも志貴さんにはお世話になっております。今日はお忙しい中お時間を割いて頂き、ありがとうございます」


 望の一挙手一投足を見ていた佐久間の父は、望ににっこりと笑って会釈をすると、大きくよく通る声で自己紹介をした。


「初めまして、志貴の父、佐久間俊之です。Hotel Paradisoパラディーゾの支配人をしています。志貴がこちらで働くようになったら、私の下につかせて、立派な支配人になれるようこってり絞るつもりです」


 それを聞いて、望がふふっと笑って志貴を見る。会社では誰からも一目置かれるリーダーでも、ここではただの息子なんだと思うと可笑しかった。


「志貴、良い人を見つけたね。姿勢がよくて立ち姿が美しい。発声もきちんとできているし、所作もきれいだ。すぐにでもフロントでお客様をお迎えできそうだ」


「父さんの御墨付きをもらえば、怖いもの無しだね。望はリゾートウエディングで、俺と集客数を争うくらい、お客様の受けがいいんだ。発想も豊かでイベントプランナーとしての素質があるから、例の企画には欠かせない人物になると思う」


「それは、また、素晴らしいな。お前、ちゃんと捕まえとかないと、こんなに綺麗で優秀な人はすぐに他の人に連れて行かれるぞ」


「それは大丈夫。さっきプロポーズしてオッケーをもらったんだ。望は俺の婚約者だよ」


 二人があまりにも望を褒めるので、望は胸の前で一生懸命手をひらひらと振って否定するが、望のあたふたする姿を面白がって、志貴がさらに望の良いところを話し続ける。


「志貴さん、いい加減にハードルをあげるのをやめてください。もし、ここで雇ってもらえることになっても、一人歩きした評価が怖くて勤められなくなるじゃないですか」


 悪戯を咎められたように肩を竦めた後、志貴が堪えきれずに笑い出したので、それにつられるように、志貴とそっくりな俊之の笑い声が重なる。

 笑いが収まると、明るい笑顔を湛えたまま、俊之が望に向かってお礼を言った


「望さん、志貴にここに戻る決心をさせてくれてありがとう。ひょっとしたら、もう戻ることはないのかと諦めていたんだ。志貴から話を聞いて驚いたのと同時に、望さんの為に大きく成長したいから機会を与えて欲しいと頼まれた時は、心からあなたに感謝した。今日は志貴がどんな人を連れてくるんだろうかと心待ちにしていたんだよ」


「いえ、私なんかがいなくても、いづれ志貴さんは自分の道を開拓されたと思います。えっと…、お父様も志貴さんの真似をして、何気にハードルを上げてらっしゃいますよね? 」


「いやいや、本当の気持ちだよ。さぁ、旅館の方に案内しよう。妻の郁美に会ってやってくれ」

 

 望が父に気に入られてと分かって、志貴は嬉しそうだった。そして、山の上にある旅館「木漏れ陽」に向かって運転をしながら、旅館は女将が切り盛りするところだから、現役の母はもちろんのこと、将来跡を継ぐ長男の慶太の嫁になる人は大変だろうと話した。


 「木漏れ陽」は部屋数は少ないが、各部屋にヒノキの露天風呂がついていて、部屋だしの食事は、お品書きに沿って一品ずつ運ばれるので、1泊の値段が張る純和風旅館らしい。こちらはシーズンに関係なく海外からの客が訪れると言う。

 志貴は外国人用に用意する有料オプションに、お茶やお花などの体験プランを考えていて、郁美から旅館の茶室を使う許可をもらったと望に話した。

 

 玄関に着くなり、着物をきっちりと着こなした、いかにも女将にふさわしい風格のある女に出迎られた。望は志貴の父よりも、同性である母の目の方が厳しいのではないかと不安だったのだが、郁美は旅館で働く人を束ね、日ごろから色々なお客様を相手にしているだけあって、望にも包み込むような柔らかな笑顔を向けてくれた。


「志貴、こんな綺麗な人を掴まえるなんて見直したわ。望ちゃん、主人と志貴のホテルなんて放っておいて、木漏れ陽で働かない?あなたしっかりしてそうだし・・・」


「母さん、頼むよ。慶兄が嫁さんもらったら、嫁さんの立場がなくなるじゃないか」


「そうね、その通りだけど、あの子はなかなか理想が高い上に、この旅館を切り盛りできないといけないって目で見るから、なかなか決まらないのよ。若い人に最初から女将の姿を求めても無理があるものね。望ちゃんならぴったりだけど……」


 郁美が望の腕を取ったので、志貴が反対側からだめだと引っ張る。そこに加担して、俊之が笑いながら志貴の腕を引っ張った。この温かで楽しい家族の中に入れることの幸せを望が感じた時、女将の部屋の襖が空いて、何やってんだ?と志貴によく似た声が問いかけた。


「慶兄久しぶり! 丁度いい、俺の婚約者を紹介するよ。和倉望さんだ」


「初めまして。佐久間慶太と申します。それで?俺は母さんの側で和倉さんを引っ張ればいいのか?」


「ダメに決まってるだろ! 慶兄が早く結婚しないから、母さんが望を女将教育するなんて言うんだぞ」


 ああ、そういうことかと慶太が頭をかいて、決まり悪そうに苦笑いをする。


「結婚相手が見つからないんだよな~。和倉さん、母さんの相手してやってよ」


 志貴が慶太の腕をぺしっと叩いたので、その子供っぽい仕草に、また志貴の知らない顔を見られたと喜びながら、望がくすくす笑う。


「ダメだって言ってるだろ!望帰ろう。ここにいると望は女将にされそうだ」


 志貴が望の腕を取って立ち上がらせる。楽しい家族団らんの中に入れてもらったことの感謝を述べながら、望は引き立てられるように、志貴に旅館から連れ出された。


 駐車場まで見送りに来た両親と兄に手を振った志貴は、思い出したようにウィンドウを下ろして、慶太に言った。


「来週、結実神社でカップルのイベントがあるんだ。少しでも気になる人がいたら連れて来るといいよ。あそこは縁結びの神さまだし、最後はブライダルショーもやるんだ。今井猛という新進ファッションデザイナーが、望の為にドレスを作ったんだけど、よかったら見に来てくれ」


「ああ、スケジュールを見て行けそうだったら行く。後で詳細をメールしてくれ」


 志貴は了解と手を上げると、ウィンドーを閉めて、ゆっくりと車を運転する。

 車がカーブを曲がってお互いの姿が見えなくなるまで、志貴の家族と望は手を振り合った。

   




 待ちに待ったイベントの日がやってきた。その日は風も殆どない晴天で、天候に合わせてヘッドアクセサリーを変える予定だったものは、全て当初の飾りをつけることに決まって、イベントスタッフをはじめ、社員たちは朝からチェックで大忙しだった。

 結実島には驚くほどのカップルが訪れて、他店から助っ人に来た社員たちも、誘導に追われている。渡されたミッションを解くために、仲良く肩を寄せ合うカップルたちを写真に収めるカメラマンが、人混みの中を忙しなく渡り歩いていた。


 美麗を除く社員たちや、モデルたちは早々と最後の確認を済ませ、望と志貴も、猛に呼ばれて更衣室として貸し出された参集殿に入る。

 望が着替えに行こうとするのを止めて、志貴が背広のポケットから包みを取り出して、その中から、シルバーの小枝とパールでの花が連なったラリエットを引っ張り出して見せると、望につけさせてもいいかどうか猛に訊ねた。


 キラキラと輝くシルバーのリーフと小枝はドレスの刺繍に合っていて、パールの花は、首元と手首とサッシュのレースを留めるのにも使われているパールとマッチするので、ブイ字型に深く切れ込んだ胸元を飾るにはぴったりのアイテムだった。


「うわ~っ。綺麗ね。すごく素敵!」


 望が手にとってしげしげと眺めるのを見て、猛がオッケーを出し、望は衣装をもって衝立の向こうにいそいそと消えて行った。


「佐久間さん、結構いいセンスしてるな。俺の弟子にしてやってもいいぞ」


「結構だ! 誰があんたの下なんかで働くもんか。望に手を出させないように始終見張ってなきゃいけなくなる」


「それもそうだな。お互い仕事にならなくなるか。そういえば、新しいマークを付けたりしてないだろうな? 」

 

 衝立の後ろで着替えていた望の耳に、ペシッとどこかを叩く音と、痛っという声をが聞こえてきたので、望は志貴の家に行った帰りを思い出して、居たたまれない思いになった。


 あの日はどこにも泊まらずに帰ったのだが、帰る途中で、一般車が入って来ないような山の中の道に車を止めた志貴に、猛がしたことを問い詰められて、仕方なくキスマークのことを打ち明けたのだ。


「どこにつけられた? 跡が残っていないか見せて」


「そんな…もうだいぶ前のことだし、跡なんて残ってないです。それに、まだ明るいし、外だし……」


 戸惑う望に覆いかぶさってきた志貴が、シートベルトを外すとすぐにシートを倒し、望が仰向けになったところを見計らって、スカートの裾を上げていく。

 望が逃げようとシートを上にずり上がったのは、志貴にとっては都合よかったらしく、ストッキングに包まれた長い脚を手で撫でまわされ、隅々まで観察された。


 四方のガラスからは、まだ3時になったばかりの明るい陽射しが、木々の葉を通して射し込んでくる。誰に見られるかも分からない場所で、際どい場所を撫でられるのは、望の羞恥心を煽り、肌を敏感にしていった。

 耐えられなくなって首を振ると、志貴がそっと腿に口付ける。薄いストッキングを通して感じるもどかしい刺激が、望を追い詰めていった。


「やめて・・・」


 志貴の頭を押して遠ざけようとしたのが気に入らなかったのか、志貴はますます執拗に唇を這わせてくる。最初は抵抗していた身体が弛緩した時、下着の境界線辺りを強く吸われて望の身体が跳ね上がった。



「望、着替えはまだか?」


 志貴の声にはっと我に返った望が、衝立の外に足を踏み出すと、猛が怪訝そうな顔で望を見てから、笑い出した。


「望ちゃん真っ赤!その様子じゃ、キスマークをつけられたんだな?」


「今井さん、これ以上無駄口を叩いたら、この間のパンチを顔にお見舞いするぞ。さっさとガウチョのレースを外す手順を確認してくれ」


 望の脚元にしゃがみ込み、志貴がガウチョのサイドレースを手際よく取り外し、タイムを計っていた猛からオッケーを貰った時、ドアがノックされて美麗の声が聞こえた。


「佐久間リーダーいらっしゃいますか?お兄様に居場所を尋ねられたので、ここにお連れしました」


「ああ、ありがとう。少しだけなら時間あるから、入ってもらって」


 レースを再び取り付けるのを猛にまかせ、志貴が立ち上がると、開いたドアから慶太に続き、予期せぬ二人が入ってきた。


「純兄、早紀…」


 絶句した志貴に、慶太が途端にすまなそうな顔になりながら、長男らしく話を始めた。


「お前たちが帰った後、偶然に純也から電話があったから、今日のイベントのことを話したんだ。純也も早紀さんも、先日お前に気まずい思いをさせたことを謝りたいと言うから、連れてきた。まだ和倉さんとのことは話していないから、これから親戚づきあいをする上で、上手くやってくれ」


 慶太が説明している間に、一番最後に入ってきた美麗が、望のウェディングドレス姿を見て目を輝かせた。


「望、綺麗!佐久間リーダーは、早くみんなに望を見せびらかしたくてうずうずしているでしょ?」

 美麗が感動して望をしげしげと見つめていると、ドアの前に立っていた早紀がつかつかと足早に歩き、美麗を押しのけて望に詰め寄った。


「ちょっと、これ、どういうこと? 今日はイベントじゃなくて、志貴さんとあなたの結婚式なの?私は騙されて連れてこられたの?」


「早紀、落ち着け!これは志貴たちの会社のイベントだ」


 純也が眉間に皺を寄せ、早紀に静かにしろと低い声で注意するが、すぐ目の前に寄り添って立つ志貴と望を見て、頭に血が上った早紀は、周りの視線など、もう目に入らない。


「じゃあ、親戚づきあいってどういう意味よ?二人は結婚するんでしょう?何よ、片思いって騙して私に偉そうに説教したくせに、何食わぬ顔して妻の座に収まろうっていうの?」


 叫び声と共に、いきなり早紀の手が伸びてきて、胸元を掴まれた望は前によろめいたが、咄嗟に伸ばされた志貴の手に支えられ、何とか体勢を保つことができた。

 望は、必死で早紀の手を外そうとしたが、ウェディングドレスに指を食い込ませた早紀が離すまいと意地になり、力任せに引っ張ってくる。


 その途端、猛が止めるまもなく、絹の裂ける音と望の悲鳴が重なり、部屋の中は騒然となった。

 あっと言う間の出来事で、望のトップは、V字型のプラウジングネックに渡してあった半透明の薄い生地の部分が、破れて垂れ下がってしまっている。露わになった胸を隠そうとして、望は震えながら腕を組んだ。

 嫉妬で醜く歪んだ早紀の頬を打ったのは、美麗だった。


「あなたは何てことをするの!どんなに私たちがこの時のために努力をしたか分かってるの?デザイナーの今井さんだって、自分の仕事の傍ら、睡眠時間を削ってこのドレスを仕上げたのよ!」


「騙す方が悪いんじゃない! 志貴への気持ちを知っていながら、私に見せつけようとするなんて最低!みんなぐるになってたんでしょう?質が悪いわ」


「望は人を騙したりしないわ。佐久間リーダーに片思いだったのは本当よ。自分のことだけが大事なあなたと比べたら、佐久間リーダーがどっちを選ぶかなんて決まってるでしょ。望のせいにするんじゃないわよ!」

 

 ぶたれた頬を抑えて動揺しまくっている早紀は、それでも関係のない美麗が口を挟むのが気に入らず、美麗に言い返す。


「な、何にも知らないくせに黙っていてよ!私は祖父の為に志貴をあきらめて、犠牲を払ったのよ。思い続けるくらい、いいじゃない。あなたにこのつらさが分かるもんですか 」


「甘ったれるのもいい加減にして!叶わない恋をしているのはあなただけじゃない!私だって同じよ。でも、報われなくったって、相手の幸せを願うのが本物の愛情だって知りなさい!」


 望が美麗の側に来て、そっと背中に手を回すと、美麗の強張った表情が和らいだ。

 だが、片腕で胸を隠している望を目にすると、美麗は途端にくしゃっと顔を歪め、ドレスが破れちゃったと悲し気に呟いて涙をこぼした。


 望は美麗の愛情の深さに胸が締め付けられる思いがした。望のために早紀に怒り、本当は見たくもなかっただろうに、望のウェディングドレスが傷つけられたと言って、望の為に泣いてくれている。美麗を、心底愛おしいと思った。

 望にぶつけられた嫉妬が、間接的に美麗を傷つけてしまったのを見て、望は湧いた怒りを隠すこともなく、きっと早紀を睨みつけ冷たい声で言い放った。


「早紀さんの言葉が、どんなにあなたの旦那さんと、その弟の志貴さんを傷つけているのか分からないの?悲しみに振り回されて、周囲を巻き込んでばかりいたら、みんなあなたの周りから去っていくわよ。誰もあなたみたいな人を愛したりはしない。叶わない恋だって、思う側の愛情によっては、無限の信頼や人としての愛情を返されるはず。立場は同じでも、あなたと正反対で美麗は思いやりがあって素晴らしい人よ」


 美麗が泣くのを堪えようとして必死になっているのが、腰に回した手から伝わり、望がとんとんと優しく背中を叩いてやると、美麗はありがとうと言って震える唇に笑顔を作った。


 いつも腫れものに障るような周りの態度を鼻で笑うように、我儘を言いたい放題だった早紀は、二人に手厳しい言葉を浴びて、返す言葉も無く立ち尽くしている。ショックで青ざめた早紀を、純也が連れ出そうとした時、志貴がその背中に声をかけた。


「兄さん。早紀に最後までこのショーを見せて、このイベントを潰そうとしたことへの責任を感じさせてくれ。何も変わらないようだったら、もう庇うのはやめよう。俺は前に進みたいし、兄さんも自分を大切にした方がいい」


 びくっと肩を震わせた早紀に、同情の入り混じった表情で一瞥した純也が、分かったと言って志貴に視線を戻す。


「そうだな。もう潮時かもしれない。お前たちに二度と会わないようにするか、一人でお前たちの元に戻るかしっかり考えてみるよ。皆さん、お騒がせしてすみませんでした。また、改めてお詫びに参ります」


 一礼して去っていく純也の細い体と、二人を連れてきた責任から鎮痛な表情で謝った慶太が、美麗に再度目礼してドアの外に消えた時、堪えていた猛が雄たけびを上げた。


「くっそ~、あのヒステリー女!俺だってあいつの服をびりびりに引き裂いてやりたいよ。もうステージまで時間が無い。望ちゃん、ちょっとこっちへ来て。あっ、美麗さんも着替えて」


「えっ?私は裏方なんだけど……」


「佐久間さん、案内してやって。それと、悪い。後で殴られてやるから、望ちゃんの胸を見る許可をもらっとく」


 美麗と一緒に外に行こうとした志貴が立ち止まり、無残に引き裂かれた望のドレス姿を目に入れる。


「俺の義姉が、迷惑をかけてすまない。今井さんの努力を無駄にして本当に申し訳ない。いい仕事をしてくれることを願ってる」

 

 志貴と美麗の姿が着替えの為に退出すると、猛は望に向かって言った。


「望ちゃん俺を信じて。俺にとって望ちゃんは今、トルソーと同じだから。見られても触れられても動揺しないでくれ。絶対にショーに間に合わせてみせる」


 望が力強く頷き、お願いしますと頭を下げると、猛は持ち歩いていた携帯用の裁縫セットからハサミを取り出し、ブイ字型に開く前身ごろに縫い付けられた生地の糸を、ぷつぷつと器用にカットして引き剥がす。


「さてと、こっからどうするかだな。みぞおちまで切れ込んでるから、このままだと歩いているだけでプランジングネックきが両側に広がって、胸が丸見えになる」


 今でも乳房が縦に半分近く見えてしまっていて、胸の色づいている部分がぎりぎり隠れている状態なのに、当てられる布もここには無い。猛が頭を抱えた時、ふと望の首に一重に巻かれて両側に垂れ下がるラリエットが目に入った。

 すぐに首から外して長さを確かめると、猛はにやりと笑って、ラリエットに口付けた。


「佐久間さん、今だけ感謝するぜ」


 言うが早いか、猛はプランジングネックの上の方にラリエットを渡して縫い付け、あまりの部分をドレープのように半円に垂らして、最初の縫い位置に戻して留める。

 これで、両側に布が開かなくなったばかりか、パールで飾られたリーフと小枝の連なりのドレープは、少し覗いた乳房の間で艶めかしく揺れる素晴らしいアクセントになった。

 望は、今更ながらに、猛の芸術性と才能に感心せざるを得なかった。


 


 イベントで出されたミッションを終えたカップルが、頂上の結実神社前の広場に集まった頃、猛のつてで頼んだイベント企画の司会者が、参加した人たちを労いながら、ジョークを言っては雰囲気を盛り上げ、ブライダルショーの始まりを告げた。

 

 モデルには、リゾートウエディングの各支店から、見栄えのいい男性と女性の社員が駆り出され、人数が足りない分は、企画会社を通して頼んだモデルで補う手筈になっている。


 最初は能舞台の雰囲気に合わせて、雅楽が流れる中、羽織袴と打掛を着た社員たちが、しずしずと橋掛けと呼ばれる渡り廊下を通って能舞台に上がり、古来から受け継がれた美のお披露目をする。


 絢爛豪華な打掛に、うっとりと見とれる者、ドレスだけが目当てなのか、スマホで時間潰しをしようとする者に別れたようだ。

 だが、司会者は慣れたもので、打掛の模様やそれにまつわる面白い話をして、着物に興味が無い参加者たちをも引き込んだ。

 

 そうなると、もうこっちのもので、曲調が変わりアメリカンポップスが流れる頃になると、知っている曲に反応した参加者たちの身体が、左右に揺れてウェーブを作る。

 支店にあるお勧めのレンタルタキシードとドレスを着用した社員たちと、販売用の一押しのドレスを着たモデルたちが、打掛を着ていた時とはまるで違う軽快なステップを踏み、橋掛けを渡っていく。

  

 司会者の説明に合わせ、能舞台に次々と現れるモデルたちは正面までくると、パートナーにくるりと回転させられドレスの花を咲かせる。会場からはドレスが翻るたびに、拍手と評価や感想があちこちから聞こえ、綺麗と溜息が漏れた。

 橋掛けから舞台まで、男女ペアが舞台の中央を開け、端と端に別れて整列すると、司会者がこれ以上ないくらいのきらきらの笑顔で、特別出演の今井猛を紹介した。それと同時に会場にどよめきが起こり、割れんばかりの拍手と歓声が上がる。


「みなさ~ん。お待たせしました。本日のメインイベント、ブライダルショーのトリを務められますのは、今や若者に絶大な人気を誇るファッションデザイナー【Take.I】の今井猛さんで~す。どうぞこちらに…」


 男性服をデザインするだけあって、女性からかっこいいと声が聞こえる以上に、男性からおおっという声が上がり、橋掛けから手を振りながら能舞台まで歩いて来た猛は、マタドールの正装をすっきりとアレンジしたようなショート丈の上着に、ぴったりしたパンツとブーツ、そして手には表が白で裏が鈍い銀色のマントを持っている。


「こんにちは、みなさん。今日は沢山のご参加をありがとうございます。え~俺はメンズファッションがメインなんですけれど、レディースファッションへの進出を目論んでいまして、その足掛かりとして、今回リゾートウエディングさんのブライダルショーに参加させて頂きました。ドレスは2着で、今回のイベントのために特別にデザインしたものなので、みなさん期待してくださいね」


「うわ~っ。それは楽しみですね。それでは、さっそく一人目のモデルさんに登場して頂きましょう」


 司会者の声が終わるか終わらないかで、社員たちに押し出された美麗が、キョロキョロしながら、能舞台の方に歩いて来る。まさか、自分のドレスがあるとも思わず、一人だけ打ち合わせに呼ばれなかった美麗は、一体何が起きているんだろうと不安気に猛の顔を見上げた。

 会場からは、かわいい~っと声が上がって、スマホのシャッターの音が鳴り響く。


「綺麗とかわいいが一緒になった、これぞ女の子って感じのモデルさんですね。オフショルダーとドレープやフリルを利かせたフェミニンなドレスがすごく素敵です。またこのヴェールの美しいこと!白いお花が沢山散っているのが幻想的ですが、このお花は何のお花なんですか?」


「これは、春に咲くヒナソウという花で、花言葉は寛大な愛、会える幸せ、おとぎの国の夢だそうです。女性は誰もが一度は、好きな人とのおとぎ話のような結婚を夢見るそうですが、それをイメージしてデザインしました。今日はこのマントを使って魔法をかけるつもりです」


「マタドールかと思ったら、魔法使いだったんですね。どんな魔法を使うのか楽しみですね。ではお待ちかね、ラストのモデルさんに来てもらいましょう。どうぞ」

 言い終わった司会者が、美麗を舞台の上座の一番前に案内した。


 控室になっている鏡の間から様子を窺っていた望は、ようやく自分たちの出番が来たと、待ち遠しかった気持ちと、上手くやれますようにという気持ちがい交ぜになって、志貴の腕に絡めた手にぎゅっと力を入れる。

 望の緊張感を感じた志貴が、望の手をポンポンと軽く叩いて、あやしながら呟いた。


「あいつ、モデルより目立ってないか? 悪目立ちのほうだけどな」


 猛の衣装のことを言ってるんだと分かって、確かにと望が思わず噴き出した。

 普段の猛はシンプルコーデが多いのに、今日は役柄上、魔法使いかマジシャンかというイメージの衣装にしたらしい。ぴったりとしたパンツに包まれた後ろ姿は、贅肉もなくすっきりして、スタイルの良さが際立っている。


 もちろん志貴も白いフロッグコートが決まっていて、望のお宝写真の志貴より、生の正装志貴の方が、心臓を躍らせるくらい、断然かっこよかった。

 橋掛けを渡る望と志貴に注目が集まり、大人で上品な装いをした背の高いカップルを見て、観客たちは大きく湧いた。すご~いと感動する者、映画の俳優と女優みたいとカメラを向ける者、どっちもかっこいいと興奮する者たちに迎えられるのを見て、好感を与えることができた安堵で、望の張り付けたような笑顔が本物になる。


 舞台の正面に辿り着くと、猛が望の横にやってきてドレスの解説を始めた。

「このドレスのタイトルは esprit libre(自由な精神)です。何ものにも縛られず、自分らしくあれと喚起し、自らも行動するために着るドレスです」

 

「なるほど、先ほどのおとぎ話を夢見る女の子らしいドレスとは対照的で、まるで現代女性のためのドレスですね。こちらの男性も素晴らしく正装がお似合いで、お二人は雑誌から抜け出してきたように絵になるカップルですね。あれ? そういえば、先ほど、おとぎの国の夢のドレスを着たモデルさんは、お一人で出演されたようですが、みなさんパートナーがいらっしゃるのに、どうしてお一人なんでしょう?」


 聞かれても答えられるわけがなく、困ったそぶりを見せた美麗に、隣にずらりと並んだ男性たちが手を胸に当てて、私がパートナーになりましょうとばかりに反対の手を差し伸べる。

 美麗が首を振ると、まるで圧し掛かるように美麗の方へ上半身を倒して、無理強いするかのように手を伸ばす。もう少しで掴まりそうだった美麗の腕を取り、猛が引っ張って舞台の中央に誘導すると、手にしたマントをバサッと広げた。


「迷えるお姫さまに、今から俺が魔法をかけてあげようか?」 


 いつものくだけた態度の猛はどこへやら、魔法使いになりきった演技に、美麗がうんうんと頷くと、猛が大きな声で叫んだ。


「さあ、esprit libreよ目を覚まして、彼女の元へ! 」

 

 何をすればいいか分からず動揺する美麗の周囲で、モデルたちが動き、望と志貴を取り囲んで回り出す。吸い込まれるように猛が輪の中に入り、マントを大きく広げて望の前に立つと、望の後ろに立った志貴がすっとかがんで、二人ともマントの影に隠れてみえなくなった。


 いつの間にか曲もミステリー調になっていて、場内は何が起こるのか期待して、見逃すまいとシーンと静まり返る。パートナーとダンスを踊るように組んだモデルたちが、無表情でくるくる回りながら、猛の広げたマントの影に隠れた望と志貴の周りを移動するのは、曲と相まって異様な光景を演出し、緊張感を高めていった。


 一方、望の脚元にしゃがんだ志貴は、ガウチョの両サイドのレースを全て外し、レースに隠してあった組みひもを引く。足首まであった丈が絞られてドレープの層になり、望の脚にぴったりと張り付く7分丈のパンツになった。紐を結ぶと、腰に巻いたサッシュを肩に引き上げ、たすき掛けにして胸の谷間を覆い隠す。

 志貴が猛にオッケーと小声で言うと、猛が持っていたマントを望の背中に固定し、それを合図に曲が明るいラブソングに変わった。


 モデルたちの輪が横にざっと開き、中からおとぎ話の国から抜け出たような王子が美麗に向かって歩き出す。会場からわ~っと歓声が上がり、盛大な拍手が起こった。

 両手を口に当て、信じられないと目を見張る美麗の前で、望がプロポーズをするかのように片膝で跪き、片手を美麗に差し伸べる。


 目の前の望は、先ほどまで、美しいウェディングドレスに包まれて、志貴の横にぴったりと寄り添い、美しく輝いていた女性で、誰が見ても二人はお似合いのカップルだった。

 幸せを願う気持ちと、決して踏み込めない領域への羨望で、美麗は胸がかき回されるような辛さを味わったのに、今、望は男のなりで美麗に手を差し伸べている。

 例え一時の夢だとしても、望と志貴、そして猛が用意してくれたこの芝居には、美麗を思う優しい気持ちが込められていて、それが伝わって来て、嬉しくて泣きそうになった。

 

 震えて上手く伸びない手を、何とか望の手に重ねると、望がそっと口付ける。

 

「望、ありがとう。夢を叶えてくれて」


 こぼれそうなほど涙を湛えた美麗の瞳を、まっすぐ見つめる望の目も、心なしか潤んでいるように見え、美麗は余計に涙腺を刺激された。


 美しい大人の女性から見目麗しいプリンスへと、あっという間に様変わりした望が、おとぎの国のプリンセスにプロポーズする姿は、舞台を食い入るように見つめていた女性たち全ての乙女心を刺激したようだ。

 立ち上がった望の横に寄り添って、美麗が観客に手を振ると、女性たちのかわいい~~っ!、すてき~!という声援が会場にこだました。

 

 望と美麗を見守る志貴と猛の口元にも、愛情と達成感の笑みが広がった。

 

「成功おめでとう!素晴らしい変わり身ドレスだった」


 志貴が片手を出すと、猛がああと満足そうに頷いて片手をだしたが、何故だか途中でぴたりと止まり、もう片方の手を添えて、両手で志貴の手を握り返す。

 何だ?と怪訝そうな顔をした志貴に、猛が上目遣いに問いかけた。

 

「なぁ、やっぱり、望ちゃんを時々貸してくれない? 」


 ごきっと音がするほど志貴に思いっきり力を入れられて、猛の口からうっと声が漏れたが、その呻き声は会場の声援にかき消されてしまった。



 ブライダルショーは大成功に終わり、今井猛の名前は、メンズファッションデザイナーとして元からある男性の支持に加え、女性のファンをも獲得して、レディースファッションへの進出が待ち望まれるようになった。


 ショーの写真や動画がSNSで発信されて、猛はますます注目を集め、猛の特集記事を載せた雑誌はあっという間に売り切れた。

 その動画は再生回数が上がっていって、意外な人物の目に留まり、猛の元に海外からのメールが届いた時には、内容は分からなくても差出人の名前の有名さに、猛と店のスタッフたちが、信じられないと驚いた。


「英語かぁ~。俺苦手なんだよな」

 

 弱り切った猛がパソコンを前に項垂れると、店長の青木が志貴か望に訳してもらえばいいとアドバイスをした。その手があったかと思い立った猛が、届いたメールに、訳してくれと添えて送信すると、すぐに志貴から電話がかかって来た。


「おい、このメールは本物か?俺を騙そうと作ったんじゃないよな?」


 志貴が勢い込んで喋る横に望もいるらしく、今井さんすごい!と声が聞こえる。


「あいにくと、英語でからかえるほど俺は英語が得意じゃないんだ。早く内容を教えてくれ。ついでに返事を書く時に、翻訳も頼む」


「それが、お願いする言い方かよ? まぁ、いい、よく聞けよ。びっくりするぞ」


 志貴が猛に語ったのは、有名な映画監督から、作品の衣装を作って欲しいという依頼だった。

 この年は、リオのカーニバルでも、いくつかのダンスチームが、差別を無くし自由を得ようというテーマを掲げるほど、ジェンダーレスに意識が向いた年だったので、時世に乗ってその有名な監督も映画を作ることになったらしい。

 もちろん、全ての衣装ではなく、何点かの衣装の依頼だったが、世界的にはまだ無名の猛にとって、生涯にあるかないかのチャンスと言えた。


「今井さん、もちろん受けるのよね? 」


 電話の向こうで、目を輝かせている望を想像して、猛が口元をほころばせる。

「もちろん受けて立つ! うまくいったら、俺のところにおいでよ。佐久間さんなっかほっぽってさ」


「私はもう志貴さんのプロポーズを受けてるからダメです。今井さんのアートを刺激する別の人を見つけてくださいね」


「残念だな~。まっ、今は夢を追いかけるのに専念することにするよ。佐久間さんに言っといて。追いつけるもんなら追いついてみなって……」


 望から電話を奪った志貴が文句を言おうとするのを聞かず、電話を切った猛は、絶対に追いつかせるもんかと闘志を新たにした。


 そして、猛は映画の衣装を皮切りにして、アメリカで活躍するファッションデザイナーへと成長していくことになった。

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