第5話 デザイナーズドレス

 志貴の車に乗せられて着いたのは、志貴の住む賃貸マンションだった。 

割と新しい物件らしく、隣の部屋の音も聞こえないしっかりした造りなので、志貴は気に入っているらしい。

 部屋数もリビングとは別に二部屋あり、一部屋を物置、もう一部屋を寝室として使っていて、荷物も少ないことからすっきりと片付いてみえる。

 駐車場から抱き上げて連れてこうようとした志貴を何とか思いとどまらせ、3階のフロアでエレベーターを降り、松葉づえをつきながらこの部屋に入るまで、望はどきどきが止まらなかった。


 8畳ほどのリビングに置いてあるのは、小さなテーブルを挟んだテレビと、3人掛けのソファーで、アイボリーの合皮のソファーを勧められた望は、端っこにちょこんと腰掛ける。

 道を挟んだ前は、戸建てや3階建てのマンションが並ぶ低層住宅地らしく、3階のこの部屋からでも息詰まるような景色ではないことに安心して、望はソフォーの上で伸びあがるようにして窓の外を眺め、気を落ち着かせようとした。

 ところが、身体を捻った状態だからか、それともリビングに向かい合ったキッチンにいる志貴を意識してしまうからか、緊張感が抜けきらない。

 

「飲み物は何がいい?」


 突然志貴に声をかけられたのにびっくりして、無理な姿勢を取っていた望はバランスを崩してソファーから落ちそうになり、みっともないところをみられたのではないかと、慌てて志貴の様子を窺った。

 幸いにも、志貴は冷蔵庫の中身を確かめながら飲み物のリクエストを訊いたようで、望のあたふたぶりには気づいていない様子だ。

 一瞬ほっとしたものの、望は手伝おうにもできないために、自分の不甲斐なさに歯噛みして、せめて手間のかからないものをと申し訳なさそうに言った。


「志貴さんと同じものをお願いします」


「今、4時半か……夕食には早いけど、少しお腹が減らないか?」


「そう言われると、急にお腹が減ってきたような・・・」


「実家からブルーベリーを送ってきたから、減らすのを手伝ってくれるとありがたい」


「ブルーベリー結構好きなんです。ヨーグルトにも入れるし、紅茶にも入れたりします。紅茶が真っ黒になって、まずそうになりますけど」

 

 志貴が笑いながら、クラッカーに軽いクリームチーズを載ると、これも実家から送られてきたと見せながら、ホテル用の小さなジャムの瓶を3種類開けて、チーズクリームの上に垂らす。トッピングはブルーベリーで、その間に蒸らしてあった紅茶を志貴がティーカップに注いで、トレーの上に載せた


「志貴さん、すごい。私より手際がいいかも・・」


「実家が旅館とホテルを経営しているからね。お客さんがいない時を見計らって厨房に行くと、新人が新人研修で手順を教えられていたから、側で見ていて自然に覚えたんだ」


「ああ、だから教えるのも上手いんですね」


 志貴はリビングテーブルの上に皿やカップを並べていた手を止めて、望の顔を見てにんまりと笑う。

 胸の中で何かが弾けて一気に膨張し、望は空腹を感じるどころではなくなった。 


 かっこいい~~~。帰るまでに平静でいられるか自信がない。変なこと言ったり、やったりしたらどうしよ~~~。

 もし、今歩いたら、確実に右手と右足が一緒に出そうだ。脚が捻挫していて恥をさらさなくてよかったと、関係のないことにまでに考えが飛んでしまう。

 望の内心が強風の中の葉っぱのように、錐もみ状態なのも露知らず、志貴は紅茶とクラッカーをリビングテーブルにセッティングし終えると、テーブルの下の置台にトレーを置いて、望の横に腰を下ろした。


 3人掛けのソファーなんだから、こんなに近くに座らなくてもいいのにと、志貴の体温を左側に感じた望は途端に困惑顔になる。

 志貴は望の顔をちらりと見たが、口元の笑みを深くしただけで、座る位置もそのままに、クリームチーズに乗っているジャムの種類を説明し始めた。


「これがアプリコットで、こっちがアップル、それはみかんだよ。どうぞ食べてみて」


 望は勧められるまま、アプリコットを取って一口かじる。

 サクッとした生地のクラッカーと少し酸味のあるクリームチーズに載せられた濃厚な甘みに、アクセントの瑞々しいブルーベリーが混ざり合って、手軽なのに舌が喜んで味わおうとする。

 望は目を輝かせながら志貴を見上げ、もぐもぐする口を開けられない代わりに、頷いて美味しさを伝えた。


 残っていたクラッカーの欠片を口の中に押し込んで、望はジャムとクリームチーズでべとついた指を拭おうとして、テーブルに置いてあるティッシュに手を伸ばしたが、横からすっと大きな手が伸びてきて、望の細い手首を掴み、あっと思った時には、望の指は志貴の唇に押し当てられていた。

 望の全ての感覚が指先に集まり、視野も狭くなって、志貴の唇に集中する。

 唇が上下に開いたかと思うと、指を柔らかくまれた。


「あっ…」


 望は自分の声にはっとして、温かな唇で挟まれた指を抜こうとしたが、手首を掴

んだ手は緩まない。それどころか、火傷をしそうなほど熱い感覚が指先を掠めた。

 

 舐められた!? 目の前で起きていることがようやく感覚と結びつく。

 望は口を半開きにして、目を見張ったまま、志貴の口元から視線をはがして上へと移動させる。

 悪戯っ子のような表情を想像していた望は、予想に反して、舌よりも熱く欲望をたぎらせた志貴の瞳に焼かれた。


 唇がわななくのを抑えるため、きゅっと奥歯をかみしめるが、志貴は望から視線を外さず、指を歯で軽く咥え、指先を舌でぞろりと舐める。

 熱を持ったぬめりのある舌で、指先に執拗な愛撫を施されると、咥えられた第一関節はどんどん感覚を鋭くし、生まれた甘い疼きが腕を伝わって身体じゅうに伝播していった。


 もう、指先は・・・と首を振ると、今度は生き物の様なその舌が指を這い伝い、指の股へと降りてくる。

 指の途中は思うほど感覚を得られず、ほっとしたのも束の間、指と指の間は望が知らないほど敏感で、志貴の舌が蠢く度に喉から甘い声が漏れた。


「志貴さん、もう…もう指は…きれいになりましたから……」


 舐めないでと切羽詰まった声で望が懇願すると、泣き出しそうな望の顔を見て、志貴が苦し気に眉を寄せる。


「あいつが触れた所を、全部舐めとりたい」

 ぞくんとした震えが望を包んだ瞬間に、志貴に抱き込まれて身体が左に傾いた。


「ただ、サイズを…測定しただけです」


「それでもだ。あんな姿を見せるだけでも腹立たしいのに、望を変えるなんて豪語するから、殴ってやりたくなったよ」


「志貴さん……」


 志貴は嫉妬した顔を見られまいとするように、望の頭に顔を寄せてキスをする。

 額にも、頬にも瞼にもバードキスを降らせた。

 志貴は猛が触れたところを見ていたはずなのに、触れられていない頬も瞼に、そして耳にまでも口付けてくる。かかる吐息とチュッという音がリアルすぎて、そこは触れられていないと言おうとしたのに、耳タブをかじられて開いた口から出たのは喘ぎだった。


 恥ずかしさに身を縮めるが、歯をこすり合わせるようにして耳たぶをこね回されると、じんじんとした甘いしびれが頭のてっぺんから、首筋に走り、背中をも駆け抜けて身体の奥の密やかな部分に到達する。

 くたっと力が抜けた望の首筋に志貴が舌を這わせた瞬間、望の身体が震えた。


「ああっ!…やっ……」


 今や髪の毛が触れても、敏感に感じる箇所になってしまった首を片手で覆い、望はそれでも防ぎ足りないと、首を竦めて守ろうとする。


「足が治るまで我慢しようと思ったのに……」


 望をぎゅっと抱きしめて、志貴が頭の上で耐えきれないように呟く。

 背中から回って望を支える手が、脇から這い出して、迷いながら、許しを請う様に胸の高みを上ろうとしては立ち止まる。

 望はもはや逆らう気力もなく、ただ任せるままに指の辿る感覚を追った。

 

 いつ到達するのだろうと構えていたにも関わらず、志貴の指が胸のすぐ横にある掌を支点にして、下の方を探ったと思うと、今度は少し上の方を何かを確かめるように押してくる。

 どうしたんだろうと志貴の顔を見上げると、志貴が思い当たったように、ああ、と頷いた。


「ビスチェを下に着ているんだったな。どうりで硬く締まっているはずだ。望…見せて」


 いきなり言われたことに頭がついていかず、望は目を白黒させる。

「えっ!?でも、……ここは明るいです」


「アトリエの方が明るかったろ?俺は望の後ろで支えていたから、正面からは殆ど見ていないんだ。望は計測ならあいつに見せても、触れさせても平気だって言ったのに、俺には見せてくれないの?」


「そんな言い方、ずるいです」


 いつもの志貴なら、困った顔を見れば、気を回して手を差し伸べてくれるはずなのに、今の志貴はとても意地悪だ。

 ファッションデザイナーとしてしか思っていない相手に、仕事だから仕方なく測らせたのと、男として意識している志貴の前で肌を晒すのでは、全然意味が違うのに……

 

「望は俺に抱かれるのが嫌か?」


 望のためらいを感じ取って、志貴が真剣な顔で問う。違う!と望は大きくかぶりを振った。


「志貴さんに抱かれるのが嫌なんじゃない。ただ、今まで憧れすぎて、好きすぎて、気持ちがついていかないの」


 突然唇を塞がれて、望は混乱した。柔らかに望の唇を揉みこんでいたキスは、角度を変えて深く密着し、互いの熱を分け合う。口内に遠慮なく侵入してきた舌が、望の上あごから喉に向かって摩ると、そこから疼きが生まれ望の息が上がっていく。絡めた舌は甘かった。

 

「俺を見て。理想化しないで、ただの男として俺を見て、望にこんなにも夢中になっているのを知ってくれ」


 望の手を取って、志貴は自分の心臓に押し当てる。

 早く脈打つ心臓は志貴の興奮を物語っていて、口先だけでなく、本当に自分を欲しがってくれているのが分かり、志貴を生身の男として実感する。


 志貴の本気を感じた望は、気がかりだったことを口にした。

「あの…ビスチェでボディーラインがきれいに見えるけど、私の胸はそんなに大きくないからがっかりしませんか?」


「しない。スレンダーな方が好きだ。他に、気になることは?」


「だって、早紀さんは小柄で胸も大きかったから、ああいう人がタイプなんだと……」


 望の自信の無さは本当に奈落よりも深いんだと、志貴は今更ながらに悟った。


「二十歳のやりたい盛りから、7年経って中身も見られるようになった俺を尊重して欲しいな」


「じゃあ、あと一つ…」


「何だ?」


「うまくできなくても嫌いませんか?私は志貴さんを満足させられな……きゃっ」


 言っている最中に抱きしめられ、望はその強さに抱きつぶされてしまうかもしれないと思った。息苦しさを覚えて志貴を見ると、少し怖いくらい真剣な顔は、何かに耐えているようで、望は自分が変なことを訊ねたのかと不安になる。

 そのまま志貴に抱き上げられて、リビングに続く隣のドアから寝室に入ると、望はベッドの上にそっと横たえられた。志貴が隣に上がってきてマットレスが片方だけぎしりと沈む。

 

 緊張をはらんだ空気に、望の呼吸が浅くなるのを見て、志貴は望を怯えさせないように気を使いながら、自分の腕と脚でゆっくりと望の身体を囲い込んだ。

 その間、ずっと視線を外さずに見つめ合う表情は、お互いに何一つ見逃すまいとして、一戦を交える前に間合いを取っている者同士のように張り詰めていた。

 狩る側と、狩られる側との違いはあるけれど、お互いにその瞬間を待ち望んでいることが、見つめ合う瞳に映った欲望で感じられる。


 志貴が大きな手で望の頬を包み込み、優しく撫でながら唇を覆った。

 何度も交わされた口付けは、望を慣れさせ、従順に従うのを見計らって翻弄し、自分から求めるように仕向けるための導火線になる。期待と怯えが入り混じった望に火が付いた時、志貴は自分を抑えられるだろうかと不安を抱いた。

 その気持ちから目を逸らし、ただ、今は望を開花させたくて、激しくなる口付けの合間に、背中に手を回し、ビスチェのホックを外していく。

 圧迫から解放された望が、志貴の仕業に気が付いた時には、ビスチェはもうカットソーの下から引っ張り出されていた。

 

 保護するものがなくなり、柔らかなカットソーに浮かび上がる胸を隠そうとして、望が腕を交差させるのを、志貴が途中で腕を掴んで邪魔をする。

 普段はなだらかな曲線が、志貴のキスで起こされて硬くなり、左右の盛り上がった部分に、丸い突起を浮かび上がらせている。

 望は何とかして隠そうと身をよじるが、志貴が生地の上から口付けた。


「…っ」


 生温かな息を吹き込まれ、湿って温かな生地がその部分にまとわりつき、嫌というほど形を変えた部分を意識させられた時、カリッとかじられ、望の身体がマットレスの上でバウンドした。


「あぁっ…」


 思わず顔の両端に挙げられた腕で口を塞いだが、自分が上げた声にショックを受けて顔が真っ赤に染まる。

 志貴は片手で望の手首を一つにまとめると、邪魔な上着をたくし上げ、滑らかな肌に直接手を這わせて感覚を楽しんだ。

 

 声を必死で抑えようとする望に対し、もっと声を上げさせようとする志貴が、舌と手を使って望を煽る。だんだんと片方の手が脇から下へと移動して、腿を撫でまわすので、望は痛めた脚に力が入り思わず顔をしかめた。


「ごめん、痛かったか?」


 望の手を自由にすると、志貴が心配して脚を覗き込み、優しく摩る。望がほっと力を抜いた瞬間、志貴は望の片脚を自分の肘に引っ掛けて、脚の間に身体入れた。

 慌てた望が志貴を押し返そうとしたが、スカートの裾がまくれ上がったあられもない状態を目の当たりにして、耐え切れずに横を向き、枕に顔を押しつける。


「こうすると脚を痛めなくて済む」


 志貴の視線がどこに向けられているのか考えるだけで、体温が上がる。

 晒した部分がヒンヤリしたのは、すでにそこが潤っているからかもしれない。

 そう考えた途端、望は羞恥に焼かれ、志貴の腕から外そうとして脚を揺すった。


 暴れて脚を痛めさせないように、志貴が望の上半身に覆いかぶさり、なだめるように口付ける。望は片脚を抱えられたまま、二つに身体を折りたたまれたせいで、脚の間に入った志貴の身体がその部分に密着する。


「恥ずかしくないよ。感じて、望。ほら俺もこんなだ」


 志貴が腰をくねらせて望に押しつけたのは、紛れもない欲望で、布地を通してさえも熱く感じられ、望は小さく喘いだ。


 ずりずりとこすりつけられるうちに、生まれた小さな疼きがもどかしくて、望の腰が合わせるように揺れる。 

 密着した部分に志貴の手が滑り込み、望の背が大きくしなった。

 もどかしかった感覚が、直に触れられて鋭敏になり、一点に集約したかと思うと、耐え切れないほどの快感に変わって暴走した。


「ああ…あっ…ん…」

 

 突っ張ってビクビク跳ねた望の身体が力を失い、とろりとした目が志貴に向けられる。

 志貴は優しく微笑むと、労わるように望の頭を撫で、慈しみを込めて額にキスをした。

 そうしている間に、望の衣類は取り除かれて、自らも服を脱いだ志貴に脚を抱えなおされると、志貴がゆっくりゆっくり望に圧し掛かった。


 時間をかけて一つになると、望は感極まって泣き出した。

 志貴が、頬を伝う涙を舐めとろうとするが、後から後からポロポロとこぼれ落ちてくる。


「望?そんなに痛かった?」


「違う・・・。幸せで・・涙がとまらないの」


 真っ赤になった望の鼻先にチュッとキスをすると、志貴が再び動き出す。

 幸せを感じてしゃくりあげていた声に、やがて喜悦の声が混じり、望は何度も大きな波に飲まれて、志貴の肩にしがみついた。





 恋人ができると女性は綺麗になると聞いたことがある。

 よく漫画などでも、恋人に愛されると、お肌がつやつやにてかっている絵があるが、果たして自分は変わったのだろうかと、朝洗顔を終えた望は、鏡に映った顔を、じ~っと観察してみた。


 見る限りでは何も変わっていないと自分では思うけれど、気を付けていないと、顔が赤らんだり、にやけたりして不気味かもしれない。

 朝食の席についても、秘密を抱えてしまった疚しさからか、家族との会話もそこそこに席を立ち、そそくさと出勤の支度を済ませて家を出た。

 

 彼ができたよって、せめて母にでも話せればいいのに、できない理由がある。

 美麗と望は幼馴染で、本人たちが仲が良いだけでなく、家族ぐるみのつきあいをしているため、今、望が受かれて話せば、家族を通して必ず美麗の耳に入る。

 志貴と抱き合っていた時は幸せだったが、一人になると、望は美麗の辛そうな顔を思い出して切なくなった。片思いの苦しさは望自身が一番よくわかっているから…。

 

 例え、過去に両想いになれたかもしれない恋を、美麗に邪魔さたのだとしても、望は美麗を責める気にはなれなかった。本当に自分を好きになってくれた男性なら、親友が誘惑したからと言って簡単に乗り換えることはしないと思う。

 美麗は自分をリトマス試験紙にして、相手が誠実な男かどうかを試したのかもしれない。

 だから美麗は、望を好きになったという男性たちのことを、浮気症で、根性無しのどうしようもない奴ばかりだったと詰ったのだろう。


 アトリエを去る時、美麗は側にいられるだけで良かったのにと泣いた。

 望の中に小さな頃からの思い出が沸き起こって一気に頭を駆け巡った時、一体美麗は、どのくらいの長い期間を耐え忍んでいたのだろうと考えてしまい、涙がこみあげてきた。

 それでも、自分の気持ちが向かうのは志貴であって、美麗の気持ちに応えてあげることはできない。きっと永久に・・・。

 

 一番の友達だと思っていただけに、望が受けたショックは大きく、これからどう付き合っていけばいいのかと考えるだけで、松葉づえをつく脚が余計に重く感じられる。

 考えたって答えなんか出るはずもなく、まずは会社での美麗の出方を見てみようと決心すると、望は会社のあるビルの中へと入っていった。

 

 望は脚を痛めてから、着替えや開店準備に時間がかかることを考慮して、かなり早い時間に出勤しているが、店内に入ると既に事務所に明かりがともっていて、誰かが先に来ていることを知った。美麗だろうか?と、どきどきしながら事務所を覗くと、こちらを振り返った長身と目が合った。


「望、おはよう。身体は大丈夫か?」


「し…志貴さん。お、おはようございます」


 ぶわっと熱を持った頬を持て余しながら、何とか挨拶を返したものの、望は自分が瞬間湯沸かしケトルにでもなったように感じて恥ずかしくなる。

 大きなスライドで、数歩で距離を縮めてきた志貴に抱き寄せられ、望は身体の中が発火するように感じた。望の背後を確かめた志貴が、慌てふためく望の頤を指で上げて口付けると、望の頭から理性が転げ落ち、この瞬間を得るためならどうなってもいいとさえ思った。


 志貴さんが好き!今はこの人のことしか考えられない! 

 志貴の背中に手を回し、力一杯抱きしめると、志貴も堪えている気持ちを吐き出すような長い溜息をついた。

 カタンという音がして、志貴と望が驚いて振り返ると、事務所の入口を覗く廊下に、青い顔をした美麗が立っていた。


「美麗……」


 望が志貴から離れ一歩踏み出すと、美麗は口を手で押さえ、首を振りながら後ずさる。


「待って、美麗」


 コツン、コツンと響く松葉づえの音が、事務所の明るい電気に照らされてできた望の影が、暗い廊下へと伸びてきて、美麗を圧迫する。

 目の前で起きたことに激しいショックを受けた美麗は、胸が潰れるかと思うほどの痛みを感じ、望の前で被り続けた友情のヴェールをかなぐり捨てて叫んでいた。


「来ないで!あなたなんて知らない!さっきのは望じゃない」

 

 幸せだった気分が瞬時にしぼんだ。美麗の目には、志貴にキスをされて、我を忘れてしがみついた自分が、まるで恥を知らない浅はかな女のように映っていることだろう。望はショックのあまり立ち止まった。


 志貴に煽られて引き出された純粋な欲望を、肯定されるがまま志貴と一つになって、望はようやく隠すものが何もない、自分の全てを受け止めてもらえたと幸せを感じた矢先だった。

 自信が無かった望が初めて自己を肯定した瞬間でもあったのに、それが美麗の言葉でガラガラと音を立てて崩れていく。自分が毒婦にでもなったように感じた。


 表情を失くした望に気が付き、美麗も顔いろを失った。二人の様子を見守っていた志貴が、このままではまずいと間に割って入る。


「山岸、少し落ち着いてくれ。望を責めないで欲しい」


「違う…あんなことを言いたかったんじゃ…」


 美麗は言葉を探すが、出てしまった本音は引っ込められず、今更親友として祝うふりもできなくて、自分は何てことを口走ったのかと半ばパニックになった。

 それでも何とか気持ちを抑えようとしていた美麗は、志貴が近づいて大丈夫か?と肩に手を置こうとした瞬間、反射的にその手を払い落としてしまった。


「触らないで!望を変えた手で、私に触らないで!」


 美麗はそのままビルの廊下へと続くドアを開け、逃げて行こうとしたとき、ガタンという音が聞こえ、思わず振り向いた。

 その目に松葉づえが転がり、美麗を追おうとした望の身体が傾斜して、床に倒れるのが映った。


「美麗、ずっと気が付かなくて、ごめんね。今まで傷つけてばっかりでごめんなさ……」


 望の語尾が震えて、肩を震わせしゃくりあげるのを聞いているうちに、美麗の胸が後悔で一杯になった。


「望が悪いんじゃない。私が勝手に思ってただけだから…。おめでとうって言えなくてごめんなさい」


 美麗の目にも涙が盛り上がり、ぽたぽたと胸やスカートに落ちて沁みを作っていく。望が首を振って、美麗に手を伸ばすと、美麗はぎゅっと目を瞑り、苦しそうに肩で息をした。 


 お願いだから振り払わないで、手を取って欲しいと望が心の中で必死で願っていると、美麗の瞼がゆっくりと開き、美麗は望の知っているいつもの美麗になって、望に近づき助け起こそうとした。


「待ってるから。美麗がおめでとうって言ってくれるまで、私は志貴さんと二人で会うのを止める」

 

 志貴が何かを言いたげにこちらを見るのが分かったが、望は知らないふりをした。


「美麗が傷つくのを知っていて、志貴さんに会っても幸せになれないから」


 望みの言葉を聞いた途端、望を助け起こそうとして握った手をパッと振りほどき、腕を組んだ美麗が憎まれ口を叩く。


「私に罪悪感を背負わせて、無理やりおめでとうを言わせる気?そんなんじゃいつまで立ってもおめでとうなんて言ってあげられないし、佐久間リーダーだって逃げるわよ」


「美麗?」


「必死で佐久間リーダーを思っていた望はかわいかったけど、女になった途端に、ずるさまで身につけちゃったんだ。あ~あ、幻滅しちゃった」


 わざとらしい大きなゼスチャーをしながら、軽いテンポで話そうとしているが、幼いころから一緒にいる望には、美麗の気持ちが嫌というほど伝わってくる。

 楽しいことを言うときは、人はリラックスして明るい声音になり、声に強弱が出る。

 喉に力が入って声が抜けずに平坦になり、瞬きが少なくなるのは、美麗のように、偽りを真実として相手に信じ込ませようと必死になっているからだ。


 でも、今は決して、それが芝居だと気付いてはいけないのだ。美麗の精一杯の優しさを、しっかりと受け止めなければならない。望は奥歯をしっかりと合わせ、瞼にも力を入れて泣くまいとした。


「望なんて、こっちからふってあげる」


 美麗の声は上ずっている。望の顔はいつの間にか泣き顔になっていたが、涙はこぼさず、ただ、うん、うんと頷いていた。




 アトリエ【Take.I】では、猛がデッサンを元に、トルソーに巻き付けたミカドシルクにピンを刺していた。

 10日前に知った望たち3人の関係や気持ちを、自分なりに何とか作品にしたくて、デザイナー仲間や姉の婚約者たちに頼んで、ウェディングドレスの処分品と、シルクの中では最高級のミカドシルクの生地を手にいれてもらった。


 トルソーに巻き付けたのは、ミカドシルクで作られたウェディングドレスを解体したもので、猛の思い描く形や、変化が望めるものかどうかを試していた。

 中性的で、何にも染まっていないクリアな印象と、ともすると硬さを感じさせる美しさを持つ望に、レースが一杯のフリフリドレスを着せれば、引き立つどころか、本人もドレスも良さを相殺してしまう恐れがある。


 猛はウェディングドレスの専門店を訪ね、特集記事に目を通し、仲間のつてをたどってドレスのデザイナーに会い、作り方を見学させてもらったりもした。そして、どんな素材でどんなシェープが望に合うのかを考えた。


 生地がしっかりとして、光沢があり、上品なミカドシルクは望の美しさをこの上なく輝かせてくれるはずだと、猛はパタンナーに頼らず、仕事が終わった空き時間を利用して、こうして試作品を作っている。


 階下でシャッターが下りる音が響き、猛はドレスから時計に目をやると、もう20時になっていた。すぐに外階段に足音が響き、店を任せている店長の青木央也がアトリエの入口から入ってくる気配がする。猛は作業室からアトリエの広い工房室へと移動して、鍵と売上金、レシートを受け取ろうとすると、青木の背後に思わぬ顔を発見した。


「望ちゃん。驚いたよ。ああ、松葉づえ無しで歩けるようになったんだね」


「急にお邪魔してすみません。お願いごとがあって来ました」


「中に入って、ちょっと待っていて。店長と仕事の話を終わらせるから」


 猛が今日の売り上げを聞き、新作の売れ行きなどを確認した後、青木を労って帰すと、望はカウンターの片隅で、猛がドレスの勉強のために揃えた雑誌や資料に目を通していた。

 開いたページに目をやると、望には絶対に似合わないだろうひらひらのお姫様ドレスを真剣に見ている。

 女はみんなこんなドレスに憧れるのかと猛はおかしくなった。


「残念だが、それは望ちゃんには似合わないと思う」


 いつの間にか猛が側にいることに驚いて、望が慌てて椅子から立ち上がって、猛の方に向きなおり、頭を下げる。


「違うんです。今日お伺いしたのは、内緒で美麗のドレスも頼めないかとお願いしに来ました。今井さんが忙しいのも、これがどんなに図々しいお願いかもわかっています。でも、何とかお願いできないかと思って直接来てしまいました」


 真剣に語る望を見ているうちに、猛はふと違和感を感じて、何気なしに望に手を伸ばすと、望は触れられる前に退いて、気まずそうに眼を泳がせた。


「ああ、なるほど・・・。望ちゃんはついに食われちまったか」


「えっ?何を言って・・・」


 首を傾げた望が、直後に意味を理解して、その頬を真っ赤に染めると、猛は意地の悪い笑みを浮かべながら、どうして分かったか問いたげな望に説明をしてやった。


「俺の経験から言うと、男を知らない、または興味のない一般の女は、触れられることに鈍感だ。触れられそうになっただけで避けるのは、相手が嫌いか、男を知っていて無意識に身体に起きる変化や感情を避けるためだ。俺は望ちゃんに再三アプローチしてるから、男として意識したんだろ?」


 猛が顔を覗き込もうとするので、望は一歩下がろうとしたが、すぐ後ろのカウンターに行く手を阻まれ、それ以上後ろが無いことを知る。

 どきどきと心臓がうるさく鳴り始めたが、望は猛の常識に訴えることでかわそうとした。


「意識なんてしてません。私が意識するのは恋人の志貴さんだけですから」


「ふぅ~ん。別に婚約したわけでもないんだろ?たった一人しか知らないって、もったいなくないか?」


「は・話を逸らさないでください。今日は美麗のドレスのことで・・・」


 望の前に身体が触れるほど迫った猛が、望の脇から後ろのカウンターに手をついて、望を見下ろすと、低く掠れる声で聞いた。


「見返りは?」


「えっ?・・・お・お金を払います。私の貯金から・・・」


「要らない。俺は受け取る気はなかったが、美麗さんが昨日来て、強引に小切手を置いて行った」


「美麗が? なぜ?」 


 思いもよらないことを耳にして、望は逸らしていた顔を猛に戻したが、あまりにも近くに寄せられていたのに驚いて慌てて仰け反った。


「あんたたちは、幼馴染なんだってな。だから考えることが同じなのか、美麗さんもあんたに最高のドレスを作ってやって欲しいと、材料費の足しにするよう小切手を持ってきたんだ」


 聞いているうちに、望の目に涙が溢れ、目の前の猛の顔がぼやけていく。


「美麗はいつも自分を犠牲にして、私のことを思ってくれるのに、私は本当の気持ちに気付くこともできなかった。だから、ショーの間だけでも、綺麗なドレスを着た美麗に陽を当ててあげたいの」


「ランウェイを仲良く手を繋いで歩く気か?だが、あんたが俺の作るウェディングドレスを着るとしたら、相手は誰を想像して着る?美麗さんか?それともあのいけ好かない野郎の為にか?」


 それは…と言いかけて望の視線が揺らぐ。もしプロポーズされたなら、自分は間違いなく志貴を取るだろう。幸せの象徴であるウェディングドレス姿を、美麗に見せつけることになる。


 美麗にとっては、それだけでも辛いだろに、本当は望のために着たいであろうウェディングドレスを、期待しても無理だと知っていながら美麗に着せて、その横に自分は志貴の為にと願うドレス姿で立って、空々しい幸せをごっこを演じようとしたのだ。

 その愚かさに気が付き、望は頭を殴られたかのようにショックを受けた。


 美麗の為にと熱く語った望の表情が崩れ、苦悩に歪むのを間近で観察していた猛が、現実を見せた効果が行き届いたかどうかを確かめようと探りを入れる。


「まぁ、案としては悪くない。俺もデザインしながら決め手に欠けて困っていたんだが、今ので面白いことを思いついた。ただ、望ちゃんが俺の条件を受けいてくれればの話だが……そうしたら必ず実現させる」


 どう?とさらに覆いかぶさるようにして畳みかけたので、すでに反っていた望の身体はバランスを失い、後ろに倒れた。猛がその腰を掴まえて抱き寄せると、望が首を振るのにも関わらず、片手で顎を固定して、望の唇を奪った。


 折りたたまれた腕で何とか押し返そうとするが、男の力には敵わず、さらに強い力で抱き込まれてしまう。望は拳を作って、猛の胸や肩を叩いたが、至近距離ではさほど威力もなく、ダメージを与えることができない。

 抗議の声はただの呻きになって、猛の舌へと絡めとられていく。

 ぬるりとした舌は、望の官能を呼び起こす志貴のものとは違い、奪って支配しようと荒々しく蹂躙する。志貴を裏切りたくない気持ちで必死で抵抗しようとするが、おとがいを左右から抑えられているために、口を閉じることさえできない。


 望は一人でここに来たことを今更のように悔やんだ。美麗の傷ついた気持ちを少しでも癒したくて、美麗が祝福してくれるまで、志貴と仲を深めないと言ってしまった時の困惑した志貴の顔を思い出す。美麗のことで猛に相談することを志貴に知られたくなかった。

 こっそり頼もうと思ったのが間違いで、男というものを侮り過ぎたと悔し涙が頬を伝う。

 息苦しさに頭がぼ~っとしたころ、猛に腕を取られ、奥の部屋へと引っ張られていった。


「脱いで」


 瞬時に何を望まれたか悟った望が、きっと猛を睨みつけて、手をあげる。

 その手を掴んだ猛が、首をくいっと横に向け、トルソーを見ろと促した。


 そこには、美しく光沢を放つ、作りかけのウェディングドレスが飾られていた。


「これは何?ドレス……じゃない」


「いや、ドレスの一種だ。望ちゃんに合うものを考えた結果だが、さっきの話でいい案を思いついた。以前測ったものではデーター不足だから今から測る。全部脱いでくれ」


「嫌です!あんなことをしておいて、脱げるわけがありません」

 

 望が嫌悪も露わに言い返したのに、猛は聞こえなかったように、机の上のメジャーを首にかけ、クリップボードに測る部分を書きこんでから、冷ややかに望を見た。


「あと1か月半でイベントを迎える。数日後の15日発売のファッション雑誌には、この5月の頭に受けたインタビュー記事と、6月末のファッションショーで俺がデザインしたドレスが出ると宣伝される。7月15日発売の雑誌には、このアトリエでの制作過程や、ショーの様子が載せられる予定だ。今更引けないんだよ」


「明日ではいけませんか?志貴さんに連れてきてもらいます。それに今日はブライダルインナーを着けていません」


 猛は机の上にあったミカドシルクの余り布を手にすると、望の方にじりじりと近づき、壁際に追いつめた。


「望ちゃん、美麗さんのドレスを引き受けるための俺の条件を言おう。ショーが終わるまで佐久間とするな。O脚になってもらっても困るし、急に女性ホルモンが増えると、腰回りや太腿に脂肪がつく。ふっくらとしてもらうと新しく浮かんだものは着られない。ブライダルインナーを必要としないものを作る予定だから、今測らせてくれ」


 O脚になるという言葉に、自分がどうやって志貴を迎え入れたかを想像し、頬が燃え上がる。

 知らなかった時はイメージだけを思い浮かべて顔をしかめるだけで済んだことが、今はその時の感覚が蘇ったように、じんと一部に熱をはらむ。

 猛はそうした女を沢山知っているのだろう。愛されるために作り変えられる身体のことを知っているから、抱かれるなと警告しているのだ。

 

 以前の猛は、ただのファッションデザイナーとして接してきたけれど、今の猛はどうなのだろうと望は、感情を削ぎ落したような猛の顔に目を這わす。一瞬にして夜の濃密な空気に飲まれそうになり、望は頭を振った。メジャーを持っている姿は同じなのに、さっきのキスのこともあるし、女を熟知している目で見られては、ただの計測だと言われても自分が平静でいられない。


 無知だったとは言え、仕事のために望の下着姿を他の男の前で晒すのを我慢した志貴に、望はただの計測だといなしたことを思い出し、自分がなんて残酷で愚かな人間だったかを思い知る。


「私と志貴さんの関係のことは志貴さんと相談します。計測は明日、志貴さんと一緒に……」


 望が言い終わるのを待たず、猛が望の腕を掴んで背中の後ろに回して、シルクの端切れで拘束した。揉み合うことも敵わず、男の力であっけなく自由を奪われて、望は起きたことが信じられず、瞠目するとカタカタと震え出した。


「心配しなくていい。嫌がっているのに犯したりはしないから……。もし、明日佐久間と来て、あんたが俺の前で下着姿になったら、その後のあいつの行動は目に見えている。嫉妬に狂った雄は加減が効かないからな。だから、あんた食われちまったんだろ?ショーまでするなと言ってるそばから女にされては、こっちは睡眠時間を削ってまで作ったドレスが無駄になる」


 猛の手が望のブラウスのボタンを外し、ブラをつけただけの素肌にメジャーを巻き付ける。

 トップ、アンダー、ウェストと下がって来た時に、パンツのホックを外され、ファスナーを下ろされて、望は身体を捻って抵抗した。


「暴れるなって!腰回り、太腿、股下、脹脛、ひざ下のサイズを知りたいだけだ」


 猛は説明をしながらも手を動かし、望のパンツをするりと床に落として、片脚ずつ抜き遠くへ放り投げる。その行方を追った望の目に諦めが浮かんだ。


 大人しくなった望の脚のサイズを、細かく測って記入し終えると、猛は跪いた状態で望を見上げ、ゆっくりと滑らか腿に唇を近づける。望がはっと息を飲んで逃げようとしたが、猛にしっかり脚を掴まれていて動くこともできない。


「何をするんです。やめてください。さっきしないって言ったのに」


 首を振りながら訴える望を見て、にやっと笑ったかのように見えた猛の唇は、望の脚に湿った熱を与え、チリッとした痛みを与えた。


「…っ」


「ごめんね望ちゃん。キスマークつけさせてもらった。これであいつに脚を見せられないよね?」


「ひどい!」


「そう?だって佐久間に迫られたら、望ちゃんは本当に逃げ切れないだろ?抵抗しなくちゃいけない理由をあげたんだから感謝して欲しいな」

 

 ひどいと思いながら、志貴に迫られた場合を想像すると言い返そうにも、図星を突かれて何も言い返すことができず、望はただ猛を睨みつけることしかできない。

 ただ、着衣を乱されたままでは滑稽なだけだと思い当たり、望は手を解くように言った。


「俺、望ちゃんに関しては変態かもな。色々な表情を見る度にぞくぞくして、普通なら性エネルギーに直結するはずなのに、創作意欲に変換されちまうんだ。ごめんな。ショーが終わるまで我慢してくれ」


 背中で結わえた手を解こうとした時、誰かがアトリエ内に入ってくる足音と、猛を探す声が聞こえて、猛は望に回した手を止めた。

 

 「ちょっと待てて」


 猛が望に囁いて、ドアの前に立ったのと、向こうからノックの音が響いたのは同時だった。


「声が聞こえたようだけど、今井さんいますか?編集者の鈴木です。できあがった雑誌を先にお持ちしました。できればついでに、制作現場の撮影とインタビューの前打ち合わせをしたいのですが・・・」


 雑誌編集者の鈴木の名前を聞いた途端、望は冷たい水を浴びせられたように身震いをして、ドアを開けても見えない隅へと移動する。

 その時、視界に動く物を捉え望がはっとして目をやると、それが鏡に映った自分の姿だと分かり、恥ずかしい姿に耐えられず咄嗟に目を逸らす。

 脳裏に焼き付いたのは、後ろ手に拘束されたまま、ブラウスの前ボタンが全て外されて胸の谷間も露わに、下半身は下着だけというとんでもない恰好で、カーッと全身が火照って脚に力が入らなくなり、そのままへなへなと座り込んだ。


「ちょっと待って、今開けるから」


 猛が望の座り込んだ気配を察し、猛がチラリと視線を寄こしたが、その一瞬の視線にさえも居たたまれず、望は膝を折り曲げて、少しでも身体が隠れるようにして背中を向けた。


 今、もしこの姿を鈴木に見られたら、やましいことは何も無くても、誤解を受けるのは明らかだ。そして何より不安なのは、鈴木と志貴は仕事で繋がりがあるだけでなく、鈴木から結婚式を依頼されるなど、志貴とはプライベートな付き合いもあるので、鈴木がこのことを志貴に伝える可能性が非常に高いということだ。

 知られた場合のことを考えると、想像するだけで恐ろしくなる。


 例え志貴がプライベートのことを、鈴木に話していなかったとしても、望は会社で鈴木に会っているし、猛が望のためにウェディングドレスを作ることは、周知の事実だ。

 男性服のファッションデザイナーなのに、望の為なら専門外のドレスを作ると公言する猛と、夜誰もいないアトリエで二人だけで会っていたと話題に上れば、当然みんなが思うことは一つだ。言い訳なんて聞いてもらえるはずがない。

 ガチャリとドアの開く音に、望の肌は粟立った。膝に顔をうずめて、どうか気が付きませんようにと必死で願う。


「鈴木さん、わざわざ届けてくれてありがとう。そっちの部屋で話しましょうか」


 ドアを薄く開けて、そこから身体を滑り込ませるように出ようとした猛は、鈴木がドアの側に落ちている望のパンツに目を留めるのに気が付いた。


「あの、すみません。青木さんと駅で会って、2階に上がるように言われたのですが、ひょっとしてお取込み中だったのでは…。出直してきましょうか?」

 声を潜めて鈴木が囁くのに苦笑して、猛は首を振る。


「ああ、いや、採寸していただけなので、全然大丈夫です。もし、打ち合わせが長引くようなら、先にモデルを帰らせますが……」


「いえ、また明後日以降にでも改めて連絡させて頂きます。すみません。勝手に押しかけてしまって。実は婚約者がこの路線の3つ先に住んでいて、行く途中に寄らせてもらったんです」


「明後日に連絡ということは、ああ、明日はお休みだから、これから彼女とゆっくり過ごされるんですね?羨ましい」

 

 二人の会話がドアから離れていくのを耳にして、望は緊張で硬くなっていた身体から力を抜いた。ほどなくして猛が戻って来て再びドアを開けた時は、手首に巻き付いたシルクを無理に解こうと悪戦苦闘したために、擦れた手首に痛みが走り、腕に力が入らなくなっていた。


「悪かった。今解くからじっとしてて・・・」


 シュルシュルと布が立てる音が止み、手首の圧迫が消えたのを感じた望は、背中で結わえられていたために軋む腕を何とか前に回して、ブラウスの前を掻き合わせる。

 その横に望みのパンツがそっと置かれたので、視線をやると、その先の床に猛の手の影が映り、戸惑う様に望の頭の上に動いていく。次の瞬間、望は実際に猛の手の重みを頭に受けて、優しく撫でられるのを感じた。


「あっちの部屋で待っているから、帰る支度をして。駅まで送っていく」


「いいです。一人で帰れます」


 望が頬を紅潮させながら、きっと猛を睨みつける。その視線を避けた猛は、望の長くて艶やかな脚につけた赤く染まった1箇所を目に留めて、眩しそうに眼を細めた。


「だめだ。危ないから送っていく。用意して」


 そう言って、すくっと立ち上がって部屋から出ていく猛の背中に、危ないのはあなたでしょと、望は心の中で舌を出した。

 



 駅までの10分の道のりを二人は無言で歩いたが、望は言いようのない背徳感を感じずにはいられなかった。つけられたキスマークを思い出すと、パンツの布地が脚に絡んで擦れる感覚までも、やけに意識してしまい、肌が敏感になる。

 今、志貴に触れられたら、猛が言った通り、拒むことはできないばかりか、訳の分からない情動を沈めて欲しいと、身体をすり寄せてしまうかもしれない。

 心に渦巻く未知の感覚に捕らわれまいとして、望は硬く唇を引き結んだ。


 時折周囲を窺うようにしながら夜道を歩く二人を、時間を潰すために入った喫茶店の窓から見ている者がいた。


「あれは、確か……。そうか、さっき今井さんの所にいたモデルは、和倉さんだったのか」


 ファッションデザイナーだけあって、猛は男から見ても、お手本にしたいほど決まっている。

 君だけのためにデザインしてあげると言われて落ちない女はいないだろうと、鈴木は妙に納得した。


「そうだ、佐久間さんに教えてやろう。きっと面白がって読むだろうな」


 鈴木はスマホを取り出すと、さっそく目にしたばかりの特ダネを書いて佐久間に送った。



 その頃、志貴は村上を連れて、西洋居酒屋で軽い食事を摂りながら、酒を酌み交わしていた。


「しっかし、和倉さんって、最近妙に色っぽくなったと思いませんか?結実神社へ下見に行った時は、スタイルがいいなって確かに思いましたけど、女としての魅力なら、断然山岸さんの方が上でしたもんね。それが今は、何て言うか……あっ、それ僕のから揚げ」


「いつまでも残しておくから、いらないと思って片付けたんだ。次の注文は何がいい?」

 

 望のことを褒められるのは嬉しいが、仲のいい部下とはいえ、男の目で望を見られて感想を言われると、プライドをくすぐられる反面、嫉妬や独占欲がない交ぜになって苛ついて、志貴は無理やり会話を逸らしてしまった。


 単純な村上は志貴の心情をおもんばかることもなく、メニューに視線を落としている。

 やれやれ、こんなことぐらいで過敏に反応していては、望に煙たがられる存在になりそうだと苦笑した時、背広のポケットに入れたスマホが振動した。

 村上がまだメニューのチョイスで悩んでいるのを確認し、望かもしれないと期待しながらスマホを見ると、表示された鈴木のメッセージに目が釘付けになり、一瞬息をするのも忘れてしまった。


【ビッグニュース!新進若手デザイナー今井さんとモデルの和倉さんが密会!】


 胃がきりっと絞られるような嫌な感覚に顔をしかめ、メッセージの詳細を知ろうとロックを外す。雑誌の編集者らしく、まるで週刊誌の記事のように面白おかしく書いた鈴木の文面と、送られてきた写真は志貴を打ちのめした。


 駅前の繁華街に浮かび上がった二人のシルエット。横に並んで俯いて歩く女性と、気遣う様に女を見る男の顔は、間違いなく望と猛だった。

 その写真だけならまだしも、鈴木の文面には、訪ねて行った時に二人が別室にこもっていて、脱ぎ散らかしたような衣類が扉の隙間から見えたとある。

 サイズを測っていたと言っていたけど、それだけかな?怪しいよな?と志貴に感想を求めるのを読み終えた時、知らず知らずスマホを握る手に力が入り、志貴の指先は白くなっていた。


「村上、悪い、急用が入った。お詫びに今夜は全部俺が払うから、ゆっくり飲んでいってくれ。あとで追加分を請求してくれな」


「えっ?佐久間リーダー、どうしたんですか?仕事関係の呼び出しですか?」


「ああ、ちょっとトラブるかもしれないから、聞いて来る。じゃあな」


 伝票を手に立ち上がった志貴は、片手を上げて村上に挨拶をすると、テーブルを後にした。

 店が見えなくなる所まで歩くと、志貴は望に電話をかけた。暫くコール音が鳴り響いたが。留守番電話に切り替わったので、急いで切る。

 今の志貴の頭には、何故?どうして?が渦巻いて、落ち着いて録音メッセージを残せる自信が無かった。

 望に真実を聞けば、この動悸や不安な気持ちも落ち着くだろうと、メールの新規作成画面を出す。思い浮かぶ言葉は、信頼を押しつけたり、疑念に満ちたものになりそうで、まとまらないままこぼれていく。

 画面が暗くなり、再度押して白紙の画面を呼び出すと、たった一言だけ書いて送信した。


『今、どこにいる?』

 

 いつの間にか繁華街を離れてしまい、明かりの無くなった道は、暗くひっそりとして、前方からは誰が歩いて来るかも見分けがつかない。

 この状況は今の自分にぴったりだと志貴は思った。

 まるで暗闇を抜け出ようとでもするように、志貴は知らない道をやみくもに進んだ。


 俺は、どんな答えを期待しているんだろうと、恐る恐る胸の内に聞いてみる。

 今、一人で家にいるという気休めの嘘だろうか? あの写真に写っているのは、やはり別人なのではと思いなおし、もう一度確認してみる。真っ暗な道は、希望さえも飲み込んでしまった。


 ブンとスマホが振動して、望からのメッセージを告げる。

 知りたいようで、知りたくない気持ちがせめぎ合って、一瞬でも迷う気持ちを逸らしてくれそうなものを辺りに探すが、あるはずもなく、志貴は何を見ても取り乱すことのないように覚悟を決めてから画面に目を落した。


『知人と会って用事を済ませたので、今、帰る途中です』


 志貴はほっと息をついた。嘘は書いていない。だが、その用事を何と答えるのだろう?

 望は早紀とは違う。二股をかけて騙すようなことはしないと信じたい。


『知人って俺の知ってる人かな?こんな夜に何かあったの?』


 知っていて、相手を試すなんて最低だと思いながら、志貴はそれでも送らずにはいられなかった。信じたい。望の口から本当のことを聞きたい。

 すぐに返ってくると思った返事は、待っていてもなかなか来ない。

 望も何を告げるべきか悩んでいるのかもしれないと思うと、途端に悲しみが込み上げた。


『志貴さんがこんな風に遠回しに聞いて来る理由を考えました。思い当たるのは鈴木さんです。違いますか?』


  鈴木から送られたメールの文章と写真を見ていたにも関わらず、どこかで他人だと信じたい自分がいた。

 それが今、望のメールによって、鈴木のメールと写真が事実として目の前に突き付けられたように感じ、志貴は激しく動揺した。

 今度は志貴が考える番だった。鈴木は自分と望が付き合っていることを知らないから、不誠実なこととして志貴に告げ口した訳ではない。

 仕事仲間として、目にしたことを知らせてきただけだろう。鈴木を悪者にするわけにはいかないが、望が察した以上、追及せずにはいられなかった。


『理由を聞かせて欲しい。明日仕事が終わってから時間を取ってくれ。明日は車で行くから食事をして、俺の部屋で話し合おう』


『明日はなるべく早く帰りたいので、車の中でお話ししませんか?』


 間を置かずに返ってきた望のメールに了解と返信しながら、もやもやとした感情が志貴の胸に立ち込める。

 あいつとは二人で会ったのに、俺の部屋に来るのを拒むのはどうしてだ?

 志貴は嫉妬と、不安で押しつぶされそうになった。

 脱ぎ散らかされた衣類と望の裸体が頭を横切る。そこに猛が覆いかぶさるのを想像して、叫び出しそうになった。

 本当は何をしていた?今、教えてくれと、感情のままに電話をかけてしまいたくなるのを押しとどめ、志貴は少しでも冷静さを取り戻すために、元来た明るい繁華街へと踵を返した。


 

 眠れない夜を過ごした望は、接客が終わった途端、集中力が無くなって、ぼ~っとしながらカウンターを片付けた。

 相談カルテを事務のかごに入れる時も上の空になりがちで、その度に、カルテをかごから出しに来る美麗に探る様な視線を向けられる。

 美麗に相談できればいいけれど、きっと話を聞いたら、美麗は猛のところへ怒鳴り込みにいくだろう。

 それだけで済めばいいけれど、美麗に言われて猛が志貴に何か弁明しようとすれば、余計にややこしい状況になりそうで、起きてもいない騒動を考えて気分が滅入ってしまう。

 

 幸いにも、志貴は一日中外回りなので、就業まで顔を合わせなくて済む。

 いつもなら、毎日会社で顔を合わせていても、志貴が外回りにでかける背中を見るだけで切なくなるのに、それが嘘のように、今日はほっとしている。

 自分の軽率な行動で招いたことなのに、責められるのが怖くて志貴を避けたいと思うなんて、望は自分を薄情だと詰りたくなった。


 浮気というのはどこからなんだろう?ふと望は考えて、昼食の時間にスマホで検索してみた。


 ・肉体関係があれば17% これはもちろん浮気になると納得すると共に、自分には当てはまらないことにほっとする。

 ・隠し事を始めたら13% ぎくっとするが、志貴には言うつもりなので当てはまらない。と思おうとしたものの、じゃあ、どこまで言うつもり?と疑問が頭を掠めて不安になった。

 ・キスしたら11% スマホを持つ手が汗ばんでくる。無理やりも入るんだろうかと変な動悸に息があがる。

 ・手や腕を組んだり10% これはしていないが、抱き込まれたり、縛られたりするのはここに入るのだろうか?ひも状のシルクを外そうとして無理やり捩じった為に、ひどく擦れて赤くなった手首を、望は知らず知らずに擦っていた。

 ・二人っきりでおでかけ9% 二人っきりの部屋を思い出し、望はごくっと唾を飲む。

 

 ここまで読むと、望は軽いめまいを覚えた。私のしたこと、されたことは、浮気と思われても仕方ないのではないか?

 志貴にどうやって話せば、分かってもらえるだろう?志貴は以前、早紀に二股をかけられて酷く傷つけられている。

 早紀に対して志貴をこれ以上振り回さないでくれと言った張本人の望が、故意にしたことではないといえ、志貴をまた苦しめるのではないかという予感に、胸が潰れそうになった。

 

 終業時刻になり、ラストの客を送り出して施錠すると、外回りから帰って事務所に入っていく志貴が見えた。

 愛おしさと、悲しみにも似たやるせなさが込み上げて、望は思わず涙ぐんでしまった。

 視線を察したのか、志貴が振り返って望を認めて、はっと驚くが、望の潤んだ瞳を見た途端に訝し気な表情に変わる。

 笑わなきゃ。志貴に誤解を与えないように、いつも事務所に返って来た志貴に見せるお帰りなさいの笑顔を見せなくちゃ。そう思う程にぎこちない笑みになり、望は片付けるふりをしてドレスコーナーに入っていった。



 志貴が望を連れて行ったのは、パーテーションや観葉植物で仕切られて半個室になったイタリアンレストランだった。

 実家がホテルや旅館を経営しているせいか、志貴は食べ物にも詳しく食欲も旺盛なので、チョイスを志貴任せ、望はサーブされたサラダやピッツアや新鮮な魚介類を使ったペスカトーレ、肉料理などを食べたが、美味しいとは思うものの、この後のことを考えると食が進まなくなる。

 そんな望を気遣って、志貴が料理にまつわる面白い話をして、望をリラックスさせようとしてくれているのが分かるので、望の方が辛くなった。


 志貴が会計を済ませるのを待って、レストランから駐車場に止めた車へと歩いていた時、志貴が歩調をゆるめて立ち止まった。一歩前に出た望が、首を傾げて振り返る。


「望。俺は望を信じる。何も言わなくていいから、今夜は俺の部屋に来てくれ」


 望は思わず視線を逸らしてしまい、どう返事をすればいいか迷ってしまった。

 猛は美麗のドレスを引き受ける代わりに、ショーまでの一カ月半の間、志貴に抱かれるなと言った。それを承諾したと口に出せば、美麗のために志貴を蔑ろにするように受け取られるかもしれない。では、体型が変わるからと言えばいいのだろうか?


「どうして迷うんだ?望は俺よりもあいつを・・・」


「違います!昨日は本当にサイズを測っただけなの。ドレスの変更があって、測り足りないところが出てきたの。それだけで、志貴さんを裏切るようなことはしてません」

 

 志貴の強張っていた顔が、安堵で和らいだ。望の左手を取りぎゅっと握り締めると、そのまま口元へ運んで口付ける。指先、手のひら、手首に唇が降りてきたとき、急に志貴の表情が強張り動きを止めた。


 志貴が何を見たかに気が付いた望が、慌てて左腕を引こうとしたが、がっしりと望の腕を掴んだ右手は離れず、左手で長袖の袖を捲り揚げられてしまう。

 望の手首に残った赤く擦れた痕を、志貴は目を眇めて怖い顔で見ていたが、反対の腕も見せるように望に促した。

 望は右手を背中に隠して首を振ったが、志貴はその様子で左手と同じ痕があることを察し、強引に望の手を引いて車まで連れていくと、望を中に押し込んだ。


「志貴さん、待って、違うの。これは・・・」


 そこまで言いかけて、望は説明できなくなってしまった。

 後ろ手に縛られ、ブラウスのボタンを外され、パンツも脱がされた姿が頭に浮かび、どんな説明をすれば言い訳が立つのか分からなくなる。

 無言で運転する志貴の様子があまりにも冷たくて、拒絶されているように感じた望は泣きたくなった。

 

「違うと言うなら確かめさせてくれ」


 志貴の押し殺した声が、あまりにも苦し気で、望は嫌ともいえずに黙って俯いた。

 車が細い道に入り、派手なネオンを灯した建物に入っていく。


「ごめん望。俺の部屋に連れて行くつもりだったけど、もし望の身体に手首と同じ痕が合ったら、俺は自分の部屋に帰るたびに思い出すことになる」


 志貴は先に車から降りると、助手席のドアを開き、半ば放心状態の望を車から出してブティックホテルの中に連れて行った。

 

 志貴が部屋を選ぶ間、望は誰か入ってきはしないか気が気ではなかったが、言葉も少なく部屋へと向かう志貴に、望は不安を感じるよりも、理不尽な扱いを受けることの方にだんだんむしゃくしゃと腹が立ってきた。


「志貴さん、こういうところ慣れてるんですね」


 志貴だって沢山体験があるのに、不可抗力の、しかも猛とは何も無かった私を責めるのはおかしいと、嫌味の一つも言いたくなる。


 望の不機嫌さに気が付き、志貴がおやっと望を振り返ったが、選んだ部屋に到着したので、ドアを開けて望に入るように促した。


「俺が今まで付き合ったのは、恋愛と遊びは別と割り切った女性ばかりだったからね。誰も俺の部屋には呼んでないんだ」


 ドアが閉まる音に、望の息を飲む音がかき消された。志貴は望を特別枠から外し、割り切って遊んだ女性と同列に置くつもりなのだろうか?

 急に不安になって視線があげられず、志貴のネクタイ辺りを見つめると、望の強張った表情に気付いた志貴がそっと頬に触れてくる。


「彼女たちと一緒にするわけじゃないから、誤解しないでくれ。まず、そこのソファーに座って話をしたい。俺から連絡をしない限り、このドアは2時間開かないから、今すぐにでも今井を殴りに行くのを防ぐことはできるよ」


 望がソファーに腰掛けると、志貴が何か飲むか聞いたが、望はただ首を振った。

 望の前に志貴が膝をつき、望の手をとって手首を撫でる。


「これは、縛られた痕だね? 今井に無理矢理されたのか?」


 傷を鋭く見つめながらも、望を責めて怖がらせまいと気遣って、志貴がどれだけ自分を律しているかが、慎重に傷を撫でる指先や、落ち着いて優しく問う姿勢から伝わってくる。


 望はあれこれ言い訳を考えたことが間違っていたと悟り、志貴を信じて、ポツポツとあったことを話し始めた。


「ドレスの変更で必要になった部分の計測を、今井さんが望んだのだけれど、私が素直に測らせなかったの。他の日に志貴さんと来るからと言ったのだけれど、志貴さんが嫉妬で私を抱くからダメだって……それでも、二人っきりで測るのは嫌だって言ったら、あっと言う間に手を掴まれて……」

 

 志貴の片側の頬がピクリと引きつった。眉も不機嫌そうに狭められている。


「でも、本当に測っただけなの。もし私が抵抗しなかったら、こんなことされなかったかもしれない」


「一体どうして、俺が望を抱くのを、あいつに止められなきゃいけない?」


「女性ホルモンが一気に増えると、腰回りと、太腿がふっくらして、今井さんのドレスが着られなくなるらしいの。ショーが終わるまで、志貴さんとしないようにって……」


「バカな! 腰と腿が多少豊かになったって、ドレスが着られないわけないだろう? それで望はその条件を飲んだのか?」


「少し変わったデザインだったの。測っているときに、また思いついたらしくて、もう少し手を加えるから、サイズをキープするようにって言われたの。その…O脚にもなると着られないそうなの」


 志貴の視線が望の脚に落ちる。O脚という言葉にイメージをしたのか、ああ、確かにと頷いた。


「それで、測ったのは脚だけ? 他には変なことをされなかった?」


「ブライダルインナーは要らないからって、補正なしの状態を知るためにほとんど測り直したの。変な風に触れられてはいません」


 頷いた志貴を見て、望は残った問題をどう回避したらいいのかを考えた。脚にはキスマークの痕がある。必死に冷静さを保とうとしている志貴がそれを見たら、猛はどうなるか分からない。猛のインタビュー記事に添える写真撮影が済み、ドレスを作り終えてからなら、望も加担して猛をボコボコにしたいところだが、今は志貴に余計な心配を与えたり、物事を大ごとにしたくない。


「志貴さん。抱かないと約束してください。志貴さんが私の無実を確認して安心できるなら、上だけを脱ぎます」


 望は志貴に考える隙を与えないよう、自らトップスを脱いでいく。だが、裾を捲り上げようとした望の手を、志貴が上から抑えて止めた。


「俺は犬じゃない。美味しそうな餌を目の前にちらつかせて、待てと言われても我慢なんかしないから、今は脱ぐな。そんなことをしなくても望の言葉は信じるよ」


「ほんとですか?本当に私を信じてくれるんですか?」

 

 望が嬉しそうに訊くと、志貴は疑うようなことをして悪かったと微笑んだ。


「でも、1か月半も望を抱けないなら、飢え死にしないように、ベッドの上で抱きしめさせてくれ」


「抱きしめるだけで何もしませんか?」


「何もしない」


「じゃあ、明かりを消して下さい。視覚に訴えるとその気になってしまうでしょ?」


 明かりを消して、横を向いたまま、望の背中はすっぽりと志貴の身体で覆われた。

 心の中で、キスマークのことを詫びながら、志貴との仲がこじれなかったことに安心し、志貴のぬくもりに身体を委ねる。

 だが、ベッドの上での何もしないという言葉は、破られるためにあると望が知った時には遅かった。

 

 腕を優しく撫でていたはずの手は、胸の膨らみに移動しようとして望に叩かれると、元に戻っていくフリをする。下からも、もぞもぞと動く気配がして、そちらに気を取られると今度は上が無防備なる。攻防を繰り返す根気比べに根を上げそうになり、望が堪らず志貴をたしなめる。


「抱きしめるだけって言ったのに・・・」


「ごめん。ちょっと触るだけ」


「だめです」


 ふっと望の身体から離れた手に、望はやれやれと息をついたけれど、志貴が静かになったのに不安を覚え、斜め上にある志貴の顔を振り仰いだ。そこには意地悪く口元を片方上げた志貴がいた。


「望が拒んだら、今井はどうしたんだっけ?」


 やばいと思った望は、わざと拗ねて見せる。

「今井さんはしたんじゃなくて言ったんです。志貴さんが嫉妬で狂って我慢できなくなるから、逃げろって……」


 志貴は一瞬天井を睨み、口をへの字にまげて不満そうな顔をしたが、猛の予想通りの状況に言い返すこともできず、あまりにも陳腐な状態がおかしくて、くっくっと笑い出した。望もつられて笑顔になる。ぎゅっと志貴に抱きしめられて、望は心から幸せに浸った。

 

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