第3話 過去との対峙
くねくねと曲がる山道も、カーブでのスローイン、ファーストアウトをスムースにこなす佐久間の上手な運転で、酔うことも、足を踏ん張ることもなく走り抜けて高速に乗った。
ツーシーターの車はゆとりがあるとは言えず、すぐ横で運転する佐久間の仕草が気になって、見つめてしまいそうになる。望は意識しないように、窓から流れていく景色に目をやった。
でも、二人乗りの車に乗るくらいなら、彼女がいるんじゃないだろうかと考えていたら、佐久間に突然話しかけられ、望は我に返った。
「もう1時になるな。あと10分くらいで、インターを出るけれど、和倉は何か食べたいものはあるか?」
「いえ、足がこんなんなので、畳に座るのでなければ、佐久間リーダーのお好きなものにしてください。あの、ところで、ここはどこですか?」
「隣の県だよ。俺の兄の診療所があるから、和倉の足を診てもらおうと思って電話をしておいた。あの神社の近くの病院はあいにく休診日で誰もいなかったし、それなら車で30分でいける兄のところの方が安心かと思ったんだ」
安心といいながら、佐久間の顔がにこりともしないのが気にかかり、望は恐る恐る佐久間の兄のことを尋ねた。
「私のためにご迷惑をおかけしてすみません。佐久間リーダーから、お兄さんのことを聞くのは初めてですよね?おいくつぐらい違われるんですか?」
「5歳年上で、結婚もしている。この7年間会っていなかったんだが、さっき遊歩道を上っている時にふと思い出して、和倉には悪いけれど訪ねる口実にさせてもらった」
「7年間も会っていなかったんですか?あの、土曜の午後って大抵は休診ですよね?久しぶりに顔を合わせるのに、私の診察をしてもらって大丈夫なのでしょうか?」
狼狽える望をミラー越しに見た佐久間が、フッと笑いながら、大丈夫だと答えた。
「ちょっと訳ありで、避けていたんだ。もうそろそろ時効にしないと、俺が実家の稼業を継いだ時に、兄夫婦と顔を合わせずらいからね。和倉がいてくれて助かる」
「いえ、それならいいのですが……。訳アリというと、タブーな話とかありますか?知らずに地雷を踏みたくないので」
「ああ、そうだ!タブーといえば、電話で兄から言われたんだが、奥さんが先月流産したばかりだから、子供の話はしないで欲しいということだ。和倉も気に留めておいて欲しい」
「分かりました。でも、実家の稼業を継がれるっていうことは、佐久間リーダーは今の会社をやめるつもりなんですか?」
望の不安そうな声を聞いて、佐久間がまたミラーで望の顔をちらりと見た。
「そんな捨てられた仔犬みたいな顔をするなよ。まだまだ先の話だよ。俺の実家はリゾートホテルと旅館を営んでいて、長男が旅館を継いだんだ。次男は客に媚びることができないと言って医者になったから、必然的に三男の俺がホテルを継ぐことになるんだ」
「だったら、どうして普通の旅行会社に就職しなかったんですか?その方がコネクションができてホテルを継いだ時にお客さまを回してもらえそうじゃないですか?」
望にとっては何の気も無しに尋ねたことだったが、佐久間はすっと表情を消して考え込んでしまった。
インターの出口に差し掛かかり、佐久間が車のスピードを落としながら、ETCの表示がある車線へと入っていく。レバーが上がった時、佐久間がようやく重い口を開いた。
「揺るがない気持ちが本当にあるのか、見てみたかったのかもしれないな…」
それは、どういうこと?と尋ねかけて、望は言葉を飲み込んだ。
普段の自信に満ち溢れた快活な佐久間とは違い、少し寄せられた眉と自嘲気味に上がった口元が、過去に受けただろう傷を物語っているように感じたからだ。
もし、そうだとしたら、一体誰がこの人を傷つけたのだろうと、望は佐久間の横顔を盗み見た。
人を率いる能力にも優れ、容姿も備えている佐久間は、女性社員の中でも一二位を争う程人気者だ。
カウンター業務に就いていた時には、女性客が佐久間に見とれたことがある。そに気が付いた男性婚約者が、気分を害して、腹いせに佐久間が婚約者に色目を使ったと嘘のクレームをつけたことがあり、佐久間はカウンター業務から外されて外商に移動させられた経歴を持つほど女性の目を引く。
外商の仕事は、旅行会社への売り込みや、ホテル、結婚式場、海外チャペルとの送客枠の確保や値段の交渉など、カウンター業務とは比べものにならないほど幅が広い。
だが、元々来客を待つカウンターより、攻めて開拓する外商の方が佐久間には合っていたのだろう。集客数も今まで通りしかりキープしながら、国内と海外合わせて、新規の挙式場との特別契約をいくつも獲得して、社長表彰を受けるまでになった。
例え、集客数で争ったとしても、佐久間の手掛けている仕事の分量と比較すると、望は全く歯が立たない。
望にとって佐久間の存在は、それほど大きく優れていて、手の届かないと思うほど、尊敬と恋慕がないまぜになって募っていった。
美麗は私のことを、魅力があるから自信を持って佐久間に当たってと
もし、私が美麗みたいにかわいい女の子だったら、迷わず佐久間リーダーに自分を見て欲しいとアプローチできるのに……。
佐久間の思わせぶりな言葉と表情から想像を広げて、余計に自分のコンプレックスを意識してしまった望は、車が洋風のレストランに着き、佐久間が少し待っているようにと言ったのに対して、落ち込む間もなく笑顔で頷いて、車から出て行く佐久間を見送った。
しばらくすると、大きな紙袋を二つ持った佐久間が戻ってきて、望に持っていろと渡すと、車を大きな公園の駐車場に移動させた。
「いい匂い!テイクアウトしてくれたんですね。佐久間リーダーありがとうございます」
「その足だと、他人の注目を浴びるから気を使うだろうと思ったんだ」
「さすが佐久間リーダー!外見に似合わない細かい気配りを、いつも尊敬してます」
外見に似合わないは余分だと、軽く頭を小突かれて望がへへっと舌を出すと、佐久間がくしゃりと望の髪を撫でる。
「お前は素直でかわいいな。女性らしい媚がなくて新鮮だ」
「それって誉め言葉じゃないですよ?聞いても全然嬉しくないです」
「そうか?じゃ何て言えばいい?和倉は外見を褒められると、変に意固地になって否定するからな」
「えっ?…そ、そんな……」
美麗と比べられ続けて、ぺしゃんこになった女としての自信と、コンプレックスを見透かされ、望はどぎまぎして言い返すこともできず、真っ赤になった。
「ほら、そこのベンチまで歩くぞ」
佐久間にほとんど抱き上げられるようにして助手席を降り、二つある紙袋を二人で一つずつ持つと、望は佐久間の肩を借りながら片足跳びでベンチまで移動する。
佐久間がベンチにハンカチを敷いて望を座らせようとしたので、佐久間のハンカチをお尻の下に敷くなんてとんでもないと望はブンブン首をふって抵抗をした。
「女らしく見て欲しい願望があるくせに、いざそういう風に扱おうとすると固辞するんだから、やっぱり素直なんじゃなくて、お前はややこしい性格なのかもな」
からかうようにデコピンをされ、力で押されたわけではないのに、バランスを崩した望は佐久間のハンカチの上にすとんと腰を下ろしてしまった。
「あ~~~っ!!汚れちゃう!」
立ち上がる前に、佐久間が持っていた紙袋を膝に乗せられて動けなくなり、口をパクパクさせている望の隣に佐久間が腰掛ける。
望が佐久間との間に置いた紙袋から、サンドイッチを取り出した佐久間の頬が、ぴくぴくと震えているのに気が付き、望が首を傾げて見た途端、佐久間が噴き出した。
「いつまで笑ってるんですか?リーダーの分まで全部食べちゃいますよ」
口を少し尖らせて、拗ねたように佐久間の顔を見上げる望を見て、佐久間がごめんと謝って笑いを何とか収めた。
「そういえば、和倉はあの和紙に誰の名前を書いたんだ?」
話題を変えようとした佐久間の質問に、望は飲んでいたジュースを吹きそうになった。ごほごほむせる望の背中を、佐久間の大きな手がポンポンと叩く。
「い…いきなり変なことを、聞かないでください」
「どうしてだ?変なことじゃないだろ?」
「い…いませんから……。そんな人。は…白紙のまま階段を上りました」
そういえば、和紙をまだ取り出していないことに気が付き、望は自分のブラの下に挟んだ和紙を、服の上からさぐって、がさごそ音がするのを確かめて安心する。
「そうか……。じゃあ、頼みがある」
少し思案気に瞳をゆらした佐久間が、決心したように望に向き合うと、とんでもないことを言い出した。
「兄夫婦の前でだけでいい。俺の恋人のフリをしてくれないか?」
「ええっ!?」
驚きすぎて、思わず足に力が入った望が、痛っ!と前のめりになって足首をさすると、佐久間が心配して望の足を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
大丈夫と返事をしようと横を向くと、すぐ間近に佐久間の顔があり、望は反射的に反対側へ身体を傾けたためにバランスを崩し、ベンチから滑り落ちそうになった。
その肩と腕を掴んだ佐久間が、望をベンチに引き上げる。
「和倉は思ったよりどんくさいんだな。それとも、俺のことを……」
望はもう、終わりだと思った。多分いつも好きになった相手から言われるように、こう続くのだろう。
『お前が俺のことを好きだなんて知らなかった。ごめん、お前のことは何というか、女としてより、男同士の友達みたいに感じている』
目を瞑って身体を縮めた望を見て、溜息をついた佐久間が続けた。
「本当は俺のことを、触られるのも避けたいほど、嫌な存在だと思ってないか?」
ぱちっと目を見開いて、望がぶんぶんと首を振った。
どうして、そういう考えにいきつくのだろう?これだけ何もかも揃っていてモテる人なら、自意識過剰になってもおかしくないのにと、訳が分からずにパチパチと瞬きを繰り返しながら、佐久間の顔を見上げた。
「そうか!なら良かった。じゃあ、恋人として兄たちに紹介してもいいか?」
「ちょ…ちょっと待ってください。どうして彼女のフリをしなくちゃいけないんですか?」
そう質問しながら、望は佐久間が7年も兄と会っていない理由に思い当たった。
「あの…ひょっとして、お兄さんの奥さんは、佐久間リーダーのことが好きなんですか?」
「う~ん、微妙だな。フラれたのは俺の方だからな。早紀は今は兄貴の奥さんだが、7年前は俺の彼女だった。俺が1年留学している間に、兄貴とくっついて結婚したんだ」
何でもないように佐久間は軽く話したが、望は佐久間が漏らした本音を、頭の中でパズルのように組み立てた。
そういえば、
『思いあった二人が結ばれるだけで、当て馬にされた者が、自分の馬鹿さ加減を嘆くだけに終わるんじゃないですか?』
車の中で、どうして7年も兄を訪ねなかったのかと、望が理由を聞いたときに、佐久間は気まずそうな顔をしながら、
『ちょっと訳ありで、避けていたんだ。もうそろそろ時効にしないと、俺が実家の稼業を継いだ時に、兄夫婦と顔を合わせずらいからな』と言った。
そして、どうして実家が旅館やホテルを営んでいるのに、コネクションを作れる普通の旅行会社ではなく、リゾートウェディングを選んだのかと踏み込んだ質問をした時に、佐久間はこう答えたのだ。
『揺るがない気持ちが本当にあるのか、見てみたかったのかもしれないな……』
望の瞳にみるみる涙が溢れて、頬を伝った。きっと本当にサキという人が好きだったんだ。
私が美麗の光の陰になって自信を無くしたように、この人も傷つきすぎて自分に自信を持てないのかもしれない。
「おい、何を泣いてるんだ!?やめてくれ。昔の話なんだから…」
おろおろする佐久間が、ポケットのハンカチを探ろうとして、望の下に敷いたのを思い出し、あっ、とベンチを見下ろしたのを見て、望はおかしくなった。
「佐久間リーダーも、どんくさいですよ。お仲間だから力になってあげます。今日だけ恋人のフリをすればいいんですね?」
「そんな仲間にするなよ。でも、助かる。兄貴たちに変に気を使わせたくないんだ。さてと、食べ終わったし、そろそろ行くか」
ゴミを紙袋に入れて片付けた後、佐久間は望を抱きかかえて車に運んだ。
思わず抵抗しそうになった時、佐久間に練習!と言われて、望は大人しく佐久間の腕の中で丸まった。
「佐久間リーダーには、彼女さんいないんですか?」
「ああ、仕事で国内だけじゃなくて、海外も飛び回っているから、構ってくれないとすぐフラれるよ。面倒だし、遊びに行く仲間はいるから、今は特別な人を作る気はないな」
「なら、安心しました。もし、彼女がいるなら、嘘のフリでもその人に悪いから」
そう言いながら、特別な人を作る気が無いという佐久間の言葉に失望を覚えていた。
今、佐久間の名前を書いた和紙を見せたら、この腕はすぐ解かれてしまうのだろう。
だから少しだけ、今は少しだけ夢を見ることを許してもらおう。
きっと、夢を見た後に訪れる現実は、普段に増して辛いだろうと思いながら、望は佐久間の腕の中で寂し気に微笑んだ。
レストランを出た佐久間の運転する車は、間もなく市街に入り、その中心から車で三十分ほど走ると緑が多い丘陵地帯に入った。
「この両側の木は桜だな。満開の頃に通ればきれいだろうな」
今年は三月の気温が上がり、三月の終わりには桜が満開になってしまったため、四月の下旬になろうかという今は、桜の並木道を通っても当然ながら花は残っておらず、言われなければ何の木だか分からない。
望は新緑が芽吹く木々を、フロントガラス越しに眺めるフリをしながら、佐久間の顔をチラ見した。
この道を佐久間の兄夫婦は歩いたかもしれないと望は想像したが、兄に恋人を盗られた佐久間は、二人の生活を想像して嫌な気分にならないのだろうか?
日日薬と言われる様に、七年も経ったから平気なのだろうか?
望は一人っ子なので、兄弟姉妹との交流は分からないが、もし、佐久間と同じ目にあったら、七年どころか、ずっと会いたくないだろうと思い、まるで敵陣に赴くような気持ちになった。
「ああ、見えてきた。あの看板だ」
右手の先に佐久間医院と書かれた看板を見つけ、佐久間が徐行してウィンカーを出す。
「佐久間リーダーと5つ違いってことは、お兄さんは32歳なんですよね?それなのにもう個人医院を開業しているなんてすごいですね」
「父から聞いたんだが、早紀、いや、義姉の祖父の医院らしい。義姉の母は一人っ子で、祖父の跡を継がなかったから、ちょうどいいと任されたそうだ」
「そうなんですね。お兄さんの名前とサキさんの字はどう書かれるんですか?先に伺っておかないと、佐久間リーダーの彼女のフリはできませんから」
佐久間は頷いて、純也という兄の名前と、早紀という漢字を望に話したが、車を駐車場に止めるとそれよりも大事なことがあると、望に向き直った。
「兄たちの前で、佐久間リーダーと呼ぶのはやめてくれ。名前の
「そ・そんなの恥ずかしくて、呼べません。まだ苗字の方がいいです」
「でも、兄貴も佐久間だぞ?和倉が佐久間さんと呼べば、兄貴も俺も返事をすることになる。だから志貴と呼んでくれ。はい、練習」
「ええええっ!?いきなりですか?えっと・・・し・し・志貴さん」
ぼわっと頬が燃えた望を見て、佐久間が目を見張ってから視線を外し、口の両端を上げて面映ゆそうに微笑んだ。
「よし、じゃあ俺も、和倉だけに恥ずかしい思いをさせないように、名前で呼ぶ。
恥ずかしさのあまり声に出すこともできず、望はこくんと頷いた。
佐久間の手が伸びてきて、望の頭をよしよしと撫でてから、行くかと呟くと、車の外に出て助手席に回り、望を抱え上げた。
丁度その時、車の音を聞きつけた純也が、医院の扉を開けて外に出てきた。
志貴と純也の視線が絡み、二人は何も言わないまま数秒見つめ合ったが、純也が望をちらりと見てから、すぐに視線を志貴に戻すと、ぎこちなく微笑んだ。
「久しぶりだな」
純也の緊張が伝わったのか、志貴の望を抱く手にも、心なしか力が入ったように望は感じた。
「ああ、久しぶり。今日は急に悪かった」
「いや、来てくれて・・・嬉しいよ。どうぞ中へ入って。診察しよう」
白く塗られたアルミサッシの枠にガラスがはまったドアを通り、院内へと運ばれた望は、診察室のベッドに下ろされてから、ぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「初めまして和倉望と申します。今日はお休みのところ何も持たずに押しかけてしまってすみません。しかも診察までお願いして申し訳ありません」
望の飾り気の無い素直な様子に純也が微笑んで、自分も挨拶を返す。
「初めまして、志貴の兄の佐久間純也です。気を使わなくて大丈夫ですよ。志貴から状況は聞きましたので、レントゲンをまず撮ってから診断しますね」
純也の説明の途中で診察室と住居を繋ぐドアが開き、小柄な和風美人が入って来た。彼女は一瞬びくりとして立ち止まったが、志貴と望を見比べると、表情もなく頭を下げた。
心配になった望が志貴を見上げたが、志貴はそんな望に大丈夫だよというようににっこり笑いながらぽんぽんと頭を軽く叩いた。
「ひょっとして、二人はつきあってるのか?」
「ああ。会社の後輩なんだ。新入生の時に教育係をしたのがきっかけで仲良くなって、最近付き合いだした」
そっか、と純也が、ほっとしたように頷いたので、望は志貴の深い読みに舌を巻いた。
「じゃあ、和倉さん、このレントゲン用の長衣を上から羽織ってください。志貴はスキニーパンツを脱がせるのを手伝ってやってくれないか?多分一人じゃ痛くて無理だろう」
えっ?と思わず志貴と望が顔を合わせ、望が大慌てで純也に穿いたままではいけないのかと尋ねた。
「このパンツの裾の外側に、一列にスタッズがついてるね。レントゲンは金属があるとうまく撮れないんだ。早紀、手伝ってやってくれないか?」
望の慌てようから、志貴との関係が浅いと判断した純也が、今度は早紀に声をかけた。
長衣を着終えた望が、早紀にすみませんと頭を下げ、ウェストのボタンをはずしファスナーを下げる。腰を浮かせようとしたが両足で踏ん張ることができないので、一旦ベッドから足を垂らして、脱ぎにかかった。
その間、志貴は望に背中を向けていたが、望にしてみれば、ファスナーを下ろす音でさえ恥ずかしくて堪らない。
顔を赤くしながら、足首までパンツを下ろすと、早紀が両足をベッドに抱えて戻し、上手に抜き取った。
「和倉さんは背が高いから、膝から下が長くて、すごくきれいな足をしてるのね」
うわ~~~っ。言わないでと望が目を白黒させて、足を隠そうとしたが、その様子を見た純也が感心したように同意した。
「ほんとだね。最近の若い子たちは足が長くなったって言うけど、和倉さんはまた特別だね。志貴、こっちに来て、和倉さんをレントゲン室に運んでくれるか?」
これは何の羞恥プレーだと望は叫びたくなったが、今更、志貴は恋人じゃなくてただの上司ですとも言えず、歯を食いしばって耐えた。
志貴も困惑したような態度を隠せずにいたが、望を抱き上げるとレントゲン室に運び、台に下ろす時にちらりと足に視線を走らせ、もっと困惑気味に目を泳がせた。
望をからかうのが3人の緩和剤になったのか、純也がレントゲン写真を見て骨に異常は無いと診断を下し、早紀に湿布を貼られて、足首を包帯でグルグル巻きにされるまでの間、診察室は和やかな雰囲気に覆われたので、望は心からほっとした。
「骨に異常はないけれど、しばらく足を使わないこと。地面につくだけで痛いなら、片方だけ松葉づえを使った方がいい。早紀、用意してくれるか?」
「あの、ありがとうございました。お代をお支払いしたいので…」
望が言いかけた言葉を純也が、遮った。
「いや、いいよ。弟の大切な彼女だから、今回は特別」
志貴もそんなつもりで連れてきたのではないと言いかけたが、兄なりの仲直りのつもりなのだろうと察して、好意を受けることにした。
そのあと二人は、居住スペースに繋がる扉から、廊下を通ってリビングに案内されたが、廊下の壁に両親や長兄、志貴の写真までが貼ってあったので、志貴はもちろんのこと、望も驚いてしまった。
普通、弟を出し抜いて結ばれた罪の意識があるのなら、志貴の顔など純也も早紀も見たくないはずだ。
普通の神経を持っていないからこそできたことだと言われれば、そうだと納得せざるを得ないが、純也と早紀を見る限りでは、何か別の理由があるのではないかと望の心に疑念が持ち上がった。
足を無料で診察してもらったから、二人を良く思いたいだけなのかもしれないが、何かが引っかかると望は訝しんだ。
何か志貴が知らない理由が隠されていないだろうかと、松葉づえで身体を支えながら隣を歩く志貴を見上げた時、後ろからついてくる早紀が、じっと志貴を見つめているのに気が付いた。
ドキンと心臓が嫌な風に跳ねた。
あれは女の目だ。まさか、早紀はまだ志貴を忘れていない?
不快感が望の胸に沸き起こった。もし、そうなら志貴に気付かせるわけにはいかない。
過去にケリをつけたつもりでいても、孝登の突然の質問に動揺したように、ふとしたことで志貴は傷を覗かせる。何も知らない望が気が付くほど深く傷つけられた志貴の心を、また迷わせるわけにはいかない。
望は今までふられ過ぎて、これ以上傷つくのが怖くて、志貴の前で女を感じさせるようなことを一切しなかった。
でも、志貴が傷つくのをみるくらいなら、自分が傷つく方がいい。
早紀のあの目に、志貴が再び囚われることのないように、志貴にどんなに無様に思われても、好きだという気持ちで体当たりして、今は自分の方に注意を引き付けよう。
それで、……それで、フラれたって構わない。どうせ報われない思いなら、志貴を守ってフラれる方がいい。
望が志貴の腕を引っ張って、足が痛むから抱き上げてくれと頼みながら、甘えるように身体を寄せると、戸惑った志貴が一瞬身体の動きを止める。
普段は、手を貸そうとしても甘えない望が、必死な様子ですがるので、志貴は驚きつつも、そんなに足が痛むのかとかわいそうに思い、その場で望を抱き上げた。
すると望が松葉づえを持っていない手を志貴の首に回して、ありがとうと言いながら、志貴の顔に自分の顔を寄せてくる。
一体どうしたんだと志貴は目を見張ったが、自分が言い出した彼女のフリを、望が一生懸命演じてくれるのだろうと思いなおし、真っ赤になった望の頬に自分の頬を押しつけた。
そんな仲睦まじい志貴と望の様子を見ていた早紀が、俯いて唇を噛んだのを、望は見逃さなかった。
早紀の祖父のものだったという医院と家は、古い造りで、小さな日本風の庭に面したリビングがあり、その横に和室と仏壇が置いてあった。
仏壇には早紀の祖父と思わしき人物の位牌と写真が飾ってあり、それとは別に、小さな位牌が2つ置いてあるのに、志貴と望の目が吸い寄せられた。
二人の視線に気が付いた純也が、顔をしかめて、リビングと和室の間のすりガラスの引き戸をガラガラと音を立てて乱暴に閉めた。
リビングのソファーに下ろされた望は、純也は一体何を焦っているんだろうと、志貴と顔を見合わせたが、純也の苛々は収まらなかったらしく、二人が聞いているのにも関わらず、強い口調で早紀を詰った。
「どうしてここを閉めておかなかった?わざとか?お前はまだ……」
「違います。お祖父さんとあの子たちにお供えしようと花を切りに庭に降りたら、志貴くんの車が入って来るのが見えたから、慌ててお茶の用意をするうちに、閉めるのを忘れてしまったのよ」
早紀の言葉が真実かどうか、まるで見極めるようとでもするようにじっと黙って聞いていた純也は、振り切るように向きを変え、志貴と望の前のソファーにやってきて腰を下ろした。
位牌を隠すように引き戸を閉めた純也の態度も変に感じたが、望の中で、あの子たちという複数の呼び方が妙に引っかかっていた。
志貴は確かに、早紀が先月流産をしたから子供の話には触れないでくれと言ったけれど、”また”という再度を表す言葉は使わなかった。
志貴の留学中に、その存在を
こっそり志貴の顔を盗み見ると、眉根を寄せて考え深げな志貴の様子から、望と同じような疑問を抱いているように感じられる。
重い沈黙をやぶったのは、志貴だった。
「そういえば、早…お義姉さんは、お祖父さん子でしたね。結構お祖父さんの話を聞いたような気がします。いつ亡くなられたんですか?」
志貴が他人行儀に丁寧語を使ったのと、急に祖父の没した日を聞かれたために、早紀が一瞬動揺して、ぴくっと頬を引きつらせ、運んできたお茶をテーブルに置こうとした手を止めた。
「私は父が誰かを知りません。祖父は、駆け落ちした母の代わりに、私を育ててくれた唯一の肉親ですから、話が祖父のことに偏ったかもしれません。祖父は6年前の3月に亡くなりました。志貴さんが留学した後、祖父から末期がんだということと、延命治療を望まないことを聞かされました」
何だか話が触ってはいけない部分に触れていくようで、望は落ち着かずに身動ぎをした。
ケガをしていなかったら、庭を見たいとか、何とか理由をつけて、この場の流れを断ち切るのに、自由にならない足が恨めしい。
多分ここから先は、聞かない方いいんじゃないかという予感がするが、ふと、望は、志貴が全てを明らかにしようとしているのではないかと思い当たった。。
自分の過去にケリをつけるには色々な方法がある。
一つは、最初に志貴がしようとしたように、二人と新しい関係を築くために、純也と早紀の前で、もう、何ともないという平然とした態度で振舞うこと。
もう一つは、隠されたものがあるのなら、それを暴いて、自分は無価値な人間だったわけじゃないと納得することだ、。
でも、でも、もし、無価値ではなく、今も価値を持っているとしたら、志貴はどうするのだろう?純也との関係はますます悪化して、修復できなくなるのではないか?
一旦は志貴を捨てたくせに、まだ女の目でひっそりと見つめる早紀を見たせいで、望は不安になるのと同時に、早紀を許せないと思った。
嫌な流れを変えたいと考えていたのは、純也も同じだったらしく、コホンと咳をしてみんなに視線を自分に向けさせると、望みににっこりとほほ笑んだ。
「早紀は、本当に祖父思いでね。最初合った時も、祖父の医院の跡継ぎのことが頭にあったようで、話すうちに私が研修医だと知って、気に入ったようだった。まぁ、私たちの馴れ初めはそんな感じだが、和倉さんと志貴はどういうきっかけなんだい?」
ぎりぎり向こうの状況が見えるか見えないかの場所で、ラインを引かれたように感じるのは気のせいだろうか?
早紀が最初から医院の跡取りになってくれる人を望んでいて、純也に近づいたとしたなら、志貴は完全に遊ばれたということなのか?
志貴と自分の違いを純也がはっきりとさせ、志貴にこれ以上立ち入るなとけん制をしているようにも見えた。
狙い通り医者の卵を手に入れて、自分の思惑どおりに祖父の医院を継がせたのなら、早紀が志貴に向けたあの目は何だろう?
目的を達したから、今度は自分がつばをつけて手放した相手が惜しくなったのだろうか?
何だか、ムカムカする!
望は口の中でもごもごと呟いていた。
何か言ったか?と望の顔を覗き込んだ志貴を、望は口をへの字に曲げて、不満を訴えかけるような目で見つめたが、志貴には望がどうして不機嫌なのか分からないらしい。
見えない部分で痛んでいるであろう自分の心よりも、足が痛むのか?と志貴は望の心配をしてくれる。
早紀みたいな利己的な女の為に、どうして志貴が傷つかないといけないんだろうと腹が立って、望はむしゃくしゃを吐き出したくなった。
「佐…志貴さんは、会社でも一、二位を争うほど成績が優秀で、お客さんからも、社員からも信頼される素晴らしい人なんです」
ねぇ志貴さんと、戸惑っている志貴に小首を傾げて笑いかけた望が、今度は逃した魚は大きいわよと言わんばかりに、早紀をまっすぐに見つめた。
私は、今、ものすごく性格悪い女になっていると自覚しながら、望は先を続けた。
「志貴さんは、何も分からなかった新入社員の私を、手取り足取り教えてくれた指導社員でした。できるのにおごらない性格や、お客さまに対してきめ細やかな気配りができるから、心から尊敬できる先輩でした。でも、去年、接客中に、婚約者のいる女性が志貴さんに見とれたらしくって、それを見た婚約者が怒って、アンケート用紙に志貴さんが誘惑したと嘘のクレームを書いたんです」
おい!と言いかけた志貴の腕を、望はポンポンと叩いて黙らせると、表面上は同情を買うようにみせながら、心では目の前の二人に挑戦していった。
「酷いと思いませんか?愛する人がいながら、よそ見をするって……。そのせいで関係の無い志貴さんが巻き込まれて、一時は白い目で見られたんです。志貴さんは自分勝手な二人の為に、とても傷つきました。でも、余計な言い訳はせず、任された外商の仕事でみるみる頭角を現して成果を上げ、社長表彰を受けて名誉を挽回しました」
そこで望は一旦息を切り、志貴に視線を向けて尊敬を込めて伝えた。
「あなたは誰にも真似ができないくらい、優しくて、責任感があって、強い人だと思います」
志貴が望の意図を知り、感激したように望を見返す。それに勇気をもらった望は、思いのたけを振り絞って言葉にのせた。
「そばでずっと見ていて、あなたに対する憧れや尊敬が、知らないうちに恋になりました」
言い切った望は真剣で、その頬はうっすらと赤く染まっている。
志貴は口元を綻ばせ、膝においた望の手に自分の手を重ねると、そっと上から握り締めた。ぴくっと望の手が震えたが、その手は離さず、優しい視線を望に向ける。
「望はいつも自分のことより他人を気遣って、守ろうとするんだ。望を気にかける人間は多いのに、自分はもてないと思っている。その自信の無さが、またかわいくてね……」
「な…な…何を言うんですか。佐…志貴さん」
二人の初々しいやり取りに、水を差したのは、それまで黙っていた早紀だった。
「そうなんだ。つまりは、かわいすぎて手が出せないということね。直情型だった昔とは全く違うってわけね」
「早紀!やめないか!」
純也が慌てて止めに入ったが、望の挑戦を感じ取っていた早紀は、首を大きく振りながら叫んだ。
「私ばかり責めるのはやめてよ!私だって志貴くんを振り回したのは悪いと思ってる。でも、志貴くんはまだ結婚する気が無いって私のメールに返信したじゃない!私だって流産しなければ・・・」
はっと口元を押さえて言葉を切った早紀は、純也と志貴の顔を交互に見比べ、ソファーから立ち上がって、その場から逃げようとした。
いち早く早紀の腕を掴んだ志貴が、前に回り込み、真剣な顔で問い詰めた。
「どういうことだ?流産って、いつの、誰の子の話だ?」
純也が片手で額を覆うのを見て、望はとんでもない事実を引っ張り出してしまったのではないかと、打ち震えた。
「私の中には、志貴くんの赤ちゃんがいたの」
7年も前のことなのに、志貴の脳裏にひしゃげた避妊具がありありと浮び、あの一度の失敗で、早紀は妊娠したのだろうかと、志貴は顔からさっと血の気が引くを感じた。
「なぜ、言わなかった?もし、知っていたら、日本に帰っていたのに」
「私は生理不順だったから、気が付い時には2カ月経っていたの。志貴くんがまだ自由でいたいのは分かっていたし、どうしようか困って、仲良くなっていた純也さんに相談したの」
「それで、二人は親密になって、俺の存在を必要としなくなったわけか?」
ガタンと音を立てて、純也がソファーから立ち上がり、志貴の方を振り返った。
「違う!そんな単純なことじゃない!早紀からの相談を受けて、私は母に協力を求めたんだ」
「母に?どうして?それに、今まで母から早紀の流産のことを聞いたことなんてないぞ」
「口止めしていたからな。あの時、両親が早紀を、志貴の嫁として認めていれば、志貴も覚悟を決めるだろうと思った。その直後に運悪く、早紀は流産をしたんだ。お互い住んでいる場所が離れていたから、私は早紀がどんな産婦人科にかかっているか知らなかった。早紀は職場のホテルから近い小さな産婦人科に通っていたらしく、その産婦人科医は、早紀が流産した後、抗Dヒト免疫グロブリンを打たなかったんだ」
「何だそれは?免疫って、早紀は病気だったのか?」
純也は早紀に話すぞと視線で確認してから、望も志貴も初めて耳に入れる、思いもよらなかったことを話し始めた。
「掻爬手術の時に、早紀の血液はRH-だと分かったそうだ。RH-というのは3つの抗原C,D,EのうちDを持たない。出産、または、7週間を過ぎての流産で、RH+の胎児の血液が母親の体内に入った場合、72時間以内に免疫注射を打たなければ、次に妊娠した時に、母親にできたD抗体が胎児の赤血球を破壊して、胎児が貧血になるか、流産する恐れがある」
そんな恐ろしいことがと望は口元を思わず覆った。
「早紀の胎児は、胎芽の見えない進行性流産だった。まだ2カ月なら血液型不適合の抗体はできないだろうと判断した主治医は、注射を打たなかったんだ。だけど、残念ながら、早紀にはD抗体ができてしまった。見舞いに行った父母がそれを聞いて、ホテルを継ぐ志貴には跡継ぎが望めないかもしれないと、廊下でがっかりしながら話したのを早紀は聞いてしまったんだ」
まさか、そんな大変なことが起こっていたとは知らず、志貴は頭を殴られたようにショックを受け、かけるべき言葉も思い浮かばず、疑問が舌の上で絡まった。
「だけど・・・いや、・・・だったら、どうして俺に知らせてくれなかった?俺の意思は確認もせず、早紀は身を引いて、同情した兄貴が早紀と結婚したというのか?」
「私が純也さんに頼んだのよ。祖父から末期がんだと知らされて、私の赤ちゃんは見せてあげられなかったけれど、せめて祖父の病院は、私の結婚する人が跡を継ぐから安泰だって、祖父を安心させてあげたかったの」
小柄な身体を震わせてポロポロと涙をこぼす早紀に、純也も志貴も何も言えなくなって俯いてしまった。
3人から取り残されて、客観的に見ることのできた望は、自分と比べて、早紀は男性から見たら、守ってあげたくて仕方がなくなる存在なのだろうと、悲しくなった。
「早紀さんが辛い目にあったのは分かりますが、私には羨ましいです」
「何を言ってるの和倉さん?私は流産してD抗体ができてしまったせいで志貴くんと結婚もできず、純也さんの赤ちゃんも流産してしまったのよ!」
「早紀さんは志貴さんと結婚できなかったわけじゃありません。早紀さんの身体の事情を知っていても、お祖父さんの余命のために跡取りになると言ってくれた純也さんを選んだんです。二人に愛されて、どっちも選ぶことができたあなたは、私から見れば幸せな人だと思います」
望はソファーから立ち上がり、松葉づえをつきながら、早紀のそばに行った。
自分の背を誇示するように、ピンと背を伸ばすと、望の口元の高にある早紀の背を見下ろして悲しそうに笑った。
「私が泣いたって、男の人たちは誰も守りたいなんて思いません。純也さんを選んだのなら、志貴さんを解放してあげてください」
それまで涙を流して項垂れていた早紀は、余計なことだと言わんばかりに、望をきつい眼差しで睨み上げた。
「嫉妬かしら?自分に自信がないからって、志貴くんを盗られる心配から、私をけん制しているの?」
「いいえ、最初から佐久間リーダーが私なんかを相手にするわけがありません。私は佐久間リーダーのただの部下です。佐久間リーダーは、お兄さんと早紀さんに気を使わせないように、私に恋人のフリを頼んだんです」
志貴が何かを言おうとしたのを、望は寂し気な表情で首を振り、先を続けた。
「佐久間リーダーは、傷ついて、本当に添い遂げる愛情があるのか知りたくて、リゾート・ウェディングを扱う仕事を選んだんです。本当なら、今日ここで昔にケリをつけて、前に進めたはずです。責任を押しつて、引き留めないであげてください」
呆れて、はぁ?と言いかけた早紀が、鼻に皺をよせ、嫌なものを見るように望に目を向けた。
「彼女でもないなら、余計なことに口を出さないでください。これは私たち兄弟の問題で、あなたには関係ありません」
目の前でぴしゃりと扉を閉められた望は、それでもひるまなかった。
「ありますよ。だって、私は佐久間リーダーをずっと好きだったんですから。好きな人が傷つくのを見るのは嫌なんです。佐久間リーダーだけを思う人と幸せになって欲しいんです」
言い切った時に、視界の隅で志貴の驚く顔を捉えた望は、その場に居たたまれなくなった。
早紀の言う通りだ。彼女でもない、血縁関係者でもない人間が、彼らの結婚や前途をどうのこうのと言う資格なんてない。その上、自分の隠していた気持ちまで暴露して、これから職場でどう志貴と顔を合わせればいいのだろう?
望は自分の愚かさと恥ずかしさに、消えてしまいたかった。
「佐久間リーダー。最後まで演技できなくてごめんなさい。余計なことを言って引っかき回してすみませんでした。私はこれでおいとまします」
ぺこりと頭を下げて、廊下に向かおうとする望を、志貴がため息をつきながら呼び止めた。
「待て!その足でどうやって帰るつもりだ?送っていくから待っていろ」
「嫌です!タクシーを捕まえますから、心配しなくて大丈夫です。お騒がせして申し訳ありませんでした」
望は片方だけ松葉づえををつきながら、ひょこひょこ廊下を診療所に向かって歩き出した。
志貴はもう一度呼び止めようとしたが、伸ばした手を引っ込めて、純也に向き直った。
「慶兄が言ったことがようやくわかったよ。俺は純兄を、他人のことなんて関係なく我が道を進むクールな性格だと思ってた。だけど慶兄が俺の考えを否定したんだ。純兄は根が優しすぎて、俺みたいに押しも強くなければ、甘えることも下手なだけだって。今、ようやく分かった。ごめんな。全部背負わせて。ありがとう純兄」
それだけ言うと、志貴はくるりと方向を変え、早紀の顔を見ることもなく廊下へと歩きだした。
そして、心の中では望に向かって、あのバカ!勝手に言うだけ言って、引き留めるのも構わず、あの足で一人で去るなんてと心配をぶつけた。。
志貴は大股で廊下を渡り、診療所に入る手前で靴に手をかけ、望の靴がないのに気が付いた。
あいつ、どうやって靴を履いたんだ?
足の甲と足首には湿布を固定するために、包帯が巻かれている。無理やり履けば履けないことはないが、痛む足を庇いながら履いたなら、時間がかかるだろう。
でも、大慌てで出ていったのか、望の姿は診療所の中にも見当たらなかった。
急いで、診療所を抜け、入口から外を覗くと、片手に松葉づえ、片手にバッグと靴を持って、50mほど先を、ぴょこぴょこ跳ねるように歩く望の後ろ姿を見つけた。
車に乗り込んで、エンジンをスタートさせた志貴は、とんでもない過去を聞いたにも関わらず、借り物競争でもしているような望を見て、自然に口元が緩んだ。
望を追い越してから、ウィンドーを開けると、望がひっと引きつったように立ち止まるのが見えた。
他に逃げ込む道がないか、キョロキョロ辺りを探す望に、志貴が近づいて、乗れ!と促す。
「で…で…でも、佐久間リーダー、私、とんでもないことをしてしまって……。追いかけて来なくてもよかったのに…。あの、戻って3人で話し合ってきてください」
「あのな、今更何を話し合えと言うんだ?早紀はお前の言う通り、兄貴を選んだんだ。過去はやり直せない。もう俺たちの道は別々なんだ。ほら、乗れ!」
望は恐る恐る志貴を見上げて、無理をしていないか確かめようとした。
「こら、ご主人の顔色を窺う犬みたいな目をするな。ほら、乗せてやる」
またひょいと抱き上げられて、望はぎゃ~~~~っと心の中で叫んだ。
告白した後で、この接触はきつすぎると望は焦った。
期待しないように、必死で気持ちを紛らわせようと、あちこち視線をさまよわせたが、車の狭い空間は気まずさを倍増させるように思えた。
高速をしばらく走ると志貴がぼそっと何かを呟いたのが気になって、望は見ないようにしていた顔に思わず視線を向けてしまった。
「望、ありがとう」
志貴が望の視線に気が付いて言い直したが、志貴が望を苗字ではなく、まだ名前で呼んだことに、どうしようもなくどぎまぎしてしまった。
「純兄に対して、ようやくわだかまりが解けて楽になったよ。早紀が俺の子供を流産した話はショックだったけれど……いや、まだショックかな……。知らなかったとはいえ、生きていたら小学生の子供がいたことになるもんな」
まだ、動揺が収まらない志貴が、一生懸命に言葉を探すのを見ていたら、全部吐き出すまで聞いてあげたいと望は思った。
早紀よりもっと早く会えたなら、この人にこんなにも辛い思いをさせることはなかったのにと思った途端、ふと、自分のコンプレックスを忘れていたことに気が付き、可笑しくなる。
小柄で女らしい早紀がタイプなら、いくら彼女より早く出会ったところで、志貴が私なんかを相手にすることなんてないのに、望と名前で呼ばれただけで、いい気になった自分が可笑しくて、望はくすっと笑ってしまった。
「どうした?ああ、ひょっとして、俺の女々しさを笑ったな?」
「あっ・・。違います!佐久間リーダーのことを笑ったんじゃありません。そんなことするはずないじゃないですか。ちょっと、自分の単純さと、調子の良さをバカだなって笑いたくなったんです」
まだくっくっと笑っている望を、一瞬ミラーで覗いた志貴が、つられて口元を上げた。
「自分をいつも過小評価する望が、珍しく単純で、調子がいいなんて言うから気になって仕方がない。一体どんな調子のいいことを考えたんだ?」
「秘密です。言ったら自分だけじゃなく、佐久間リーダーからもダメだしされそう」
「俺が?ダメだしするような内容?何だろうな、後で教えてくれ」
志貴がウィンカーを出して、高速を降りるための側道に入ると、望はもうこの二人の時間が終わってしまうのかと、急に心がしぼむのを感じた。
望の家の近くまで来ると、志貴は路肩に車を止めて、望の方に身体を向けた。
「今日は本当にありがとう。助かった」
「いえ、お役に立てて嬉しいです」
「もし、兄たちの前で言ったことが本当なら、このまま名前で呼び合う関係になりたいんだが……。もう、俺に幻滅したか?」
呼吸も思考も一瞬で停止して、望は完全に固まってしまった。
苦しくなって息を思いっきり吸うと、こんどはむせてしまった。
「あの、今の、何…?えっと、意味が分からなくて…。そんなはずないのに、また調子のいい意味にとってしまいそう」
「ああ、そうか。さっき望が笑った意味がだいたい分かったぞ。そうだ。自己否定なしでポジティブに考えてくれ。正直なところ、まだ自分の気持ちがどうなのか分からないが、一途に思ってくれる望だったら、信頼して付き合えると思う。望はどうだ?あんな話を聞いた後でも、俺と付き合えるか?」
志貴が真剣に望と付き合おうとしていると、ようやく頭で理解した望は、またご主人さまの顔を窺う犬顔になった。
「自信ないよ~」
望の返事を聞いた志貴が、は~っと溜息をつきながら頭を抱え込む。
「お前なぁ、断るんなら、最初にお気持ちは嬉しいのですがとか言いようがあるだろ?こっちの気持ちを汲んでからバッサリやってくれ」
「ち…ち…違います!佐久間リーダーに自分が釣り合わないから自信がないって言ったんです。佐久間リーダーが言ってくれた奇跡みたいな言葉は、ほんとに、ほんとに嬉しくて、スマホで録音しとけばよかったなって思うくらい貴重で…。えっと、もう一回初めから言ってもらっていいですか?」
慌てすぎて、自分でも何を言っているか分からない望が、落ち着こうとしてバッグの取っ手をにぎりしめた途端、志貴がそれを取り上げた。
「録音は無しだ。その代わり何度でも言うぞ。俺の彼女になってくれ」
「……」
「望、ぼーっとしてないで、返事は?」
「はい。佐久間リーダー」
「志貴だろ?名前で呼んでくれ」
恋人ごっこの時は呼べたのに、本番になった途端、名前が舌の上でとどまって出てこない。
へどもどしている不器用な望に愛おしさを覚えて、志貴は望の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「今度は二人で出かけような。無理せずに足を治せよ」
こくこくと頷く望の頬に志貴が顔を寄せ、望があっと思った瞬間には、志貴の温かな感触は離れていった。
頬を押さえて俯いた望に微笑むと、志貴は車をスタートさせ、望に聞きながら、家の前に車をつけた。
志貴に助けられて車を降りた望は、気もそぞろで、松葉づえとバッグを志貴に渡してもらっても、ただありがとうとしか言えなかった。
「月曜日は無理して出勤しなくても、会議は俺が望の案として推すつもりだから安心しろ」
「ありがとうございます。佐久間リーダー」
志貴が、途端にむっとした顔で、「し・き」と強調する。
望は、月曜という曜日と、会議という予定を聞き、ようやくこれは夢ではなくて、現実なんだと認識できた。
目の前で、あこがれ続けた男性が、望の言葉を待っている。
「志貴さん」
言葉に出すと、志貴が満面の笑顔を望に向けた。
「志貴さん。志貴さん。私は裏切ったりしないから・・・」
裏切ったりしないから、ずっとそばにいさせてください。
でもそれ以上言えなくて、望が切ない思いで見上げると、志貴が読み取ったように頷いた。
お互いのスマホの番号やアドレスを、今更のように交換すると、志貴は車に乗って去っていった。角を曲がって見えなくなっても、望はスマホを胸に抱いたまま遠くを眺め、志貴の言葉をかみしめて幸せに浸ったっていた。
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