第2話 縁結びの島

 翌日の朝9時に、4人は会社の最寄り駅から1時間ほどの結実島ゆいみとうを見下ろす駅にやってきた。

 利便性を知るために、望と美麗は電車で、村上は私鉄からバスに乗り換えて、佐久間は車でと、それぞれが交通手段を変えて、実際の走行時間や乗り継ぎのスムースさを確かめた。



「車だとインターが少し遠くて不便だな。山道を抜けるための細くて入り組んだ道が続くから、あまりお薦めはできない。まぁ、カップルで来るならドライブにはなるだろうけど...」


 仕事の時はきっちりと撫でつけた髪をふわりとナチュラルに流した佐久間は、ペールグレーのカットソーの上にオフホワイトのジャケットを羽織り、ボトムはブラックのチノパンを穿いていて、まるでファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだった。


  昨日は複雑な気分だった望も、今朝は気分を切り替え、私は私、美麗は美麗、恋愛気分は置いておいて、イベントの下見に精を出そうと決めた。

 そう決めたはずだった。でも、目の前に普段着の佐久間が現れた途端、もろくもその決意は崩れ去り、磁石に吸い付けられるように目が佐久間から離れなくなる。


 佐久間の隣で白と赤のラインが入った紺のセーターでトラッド風に決めた村上が、バス乗り換えの話を終えて、ふと望と美麗を見比べていらぬ感想をもらした。


「山岸さんはパステルカラーコーデで、マカロンみたいにかわいいですね。それに比べると、和倉は制服もパンツスーツを選んで着ているし、普段とあんまり変わらないんだな~。僕の弟って感じで親近感わくよ」


 ほとんど望と背が変わらない村上が、望のショートカットのヘアーをくしゃくしゃとなで回すので、望はその手をぱしっと叩き落とし、むっと口を尖らせた。


「村上さんの弟なんてごめんですよ~。ずっと兄貴をなぐさめてないといけないじゃないですか」


「おっ、厳しい弟だな。少しは年上を敬えよ」


 望と村上のやり取りに、美麗と佐久間が声をあげて笑った。


 やった、佐久間リーダーの笑顔頂きました!と望は嬉しくなって、つい浮かんでくるにやにや笑いを隠すために、くるりと背をむけて島への渡し橋へと歩き出した。


 オフショルダーのトレーナーからのぞくボーダー柄のTシャツが、いかにもボーイッシュで望らしいが、スキニージーンズにスニーカーのボトムは、普段ゆとりのあるパンツスーツに隠された位置が高くて形の良いヒップを無防備に晒していて、男性二人は注視してから思わず視線を泳がせた。


 その視線に気がついた美麗が、少しむっとして二人を睨んでから、望の後ろ姿を隠すようにぴったりと張り付いて歩き出したので、村上がおおっ、麗しい女同士の友情と呟いた。


「山岸さんの目がセクハラって語ってましたね。でも、いつも女らしくない和倉のあの形のいいお尻は眼福だったな~。僕、和倉を女として見れそう」


「おい、村上、本当にセクハラで訴えられるぞ。また考えもなしで突っ走って、あとからあの時ああ言わなければよかったと愚痴を言っても、誰も聞かないし、庇わないからな!」


「佐久間リーダーだって、じっと見てたじゃないですか。意外とむっつりだったりして・・・」


「お前、酔っているのか?ほら、おいてくぞ!」


 佐久間が村上の頭をパシッと軽くたたき、大きなスライドで望たちの後を追いだしたので、村上がその後を、待ってくださいと言いながら小走りについていった。





 結実島は直径3、4㎞ほどの小さな島で、山頂まで徒歩約1時間弱の小高い山があり、その山頂に恋愛成就、縁結びの神社、結実神社があることで有名だった。

 この島は最初は本土と地続きだったのが、海底の変動や地震などで本土から切り離されたらしく、今は50mほどの橋で繋がっていた。


 橋を渡った先に案内小屋があり、望たちの姿をみとめたのか、中から浅黄色の袴をつけた30前後の若い男が出てきて、橋を渡ってみんなを出迎えた。


「急に人数を増やして申し訳ありません。電話で見学をお願いしました和倉望と申します。お忙しい中お手数をおかけしますが、宜しくお願い致します」


 望とともに、あと3名が自己紹介をして頭を下げると、日本人形のようにつるりとした顔の男は、両手を振って、頭をあげさせ、こちらこそお願いしますと朗らかに笑った。


「初めまして、結実神社の禰宜ねぎの早瀬孝登たかとと申します。宮司は父の早瀬徳治が務めさせていただいております。早瀬が二人になりますので、私のことは孝登と気軽にお呼びください」


 いや、ちょとそれはと戸惑われるのに慣れているのか、孝登は気にもせず、神社の説明を続けた。


「この神社は縁結びの神として知られていますが、こんな話があるのです。実はある娘が、意中の者ではなく、自分の家よりも格が高い者との縁談が打診されて断れなくなり悩んでいました。当時の宮司が本来の運命の相手と結ばれることができるよう、取り計らったのが始まりなのです」


「えっ?じゃあ、お願いすれば恋が叶うご利益はないのですか」


 下心があっただけに、望は思わず身を乗り出して尋ねてしまい、孝登はまぁまぁ早まらずにと望を制してにっこりと笑った。


「確かにこの神社の由来は、宮司の策略からきているのかもしれませんが、同じ願望を持つ参拝者が集まれば、それに通じる霊力が大きくなって現れ、霊験あらたかな神社として崇められるようになりました。ただし、叶えるためには、本人たちの努力もいるでしょうし、願いの真剣さにもよるでしょう」


 それはそうだと望が頷いたときに、孝登が望を通り越して後方に視線を向けた。


「えっと、そちらの背の高い男性、佐久間さんとおっしゃいましたね?

 もし、願うだけで叶うとしたら、三角関係の3人が同時に願った場合、どうなると思いますか?」


 孝登が望の後ろに控えていた佐久間に問いかけると、いつも冷静で、例え顧客に難題をふっかけられても、態度を崩さずに最適な案を出すはずの佐久間が、眉根を寄せて明らかに困惑しているような表情を見せた。


 1年近くも佐久間の傍で、その仕事ぶりや、頭の回転の速さを見ていた望は、佐久間の動揺は急に質問を振られたからではなく、佐久間に何か思い当たることがあるのではないかと胸がざわついた。


「別に言うほど混乱はないと思います。思いあった二人が結ばれるだけで、当て馬にされた者が自分の馬鹿さ加減を嘆くだけに終わるんじゃないですか?」


 一瞬見せた動揺はすぐに消え、佐久間らしくもないぶっきらぼうな物の言い方に、望だけでなく、美麗も、村上も、はっとして佐久間の顔を見たが、まるで感情を押し殺したような冷たい表情に驚き、全員がすぐに目を逸らした。


 その答えを聞いて考え深げに頷いた孝登は、この4人の中にカップルはいるかどうか確認をしてから話を進めた。


「昔、この辺りの結婚が決まった女性は、身を清めるために、この山の中腹にある参籠所さんろうじょで一晩を明かし、迎えに来た男性と山頂を目指して鳥居をくぐって、夫婦になる資格を得たと言い伝えられます」


 望も美麗も女性だけが身を清めるのはおかしいよねと囁きあい、女性蔑視にも繋がる風習に眉をひそめた。 

 ここで昔のことに文句を言っても仕方がないので、一応口をつぐもうとしたが、望はどうしても気になったことを聞かずにはいられなくなり、孝登に質問をした。


「その風習は今でも残っているんですか?たった一人で山の中で夜を明かすのって怖いし、寂しいし、危険じゃないですか?」


「参籠所は何部屋かあるので、昔は巫女や警備の者が別室に泊まって、花嫁候補を守りました。

 今は結実神社で結婚式を挙げる際、儀式の一環として、普段着姿の花嫁が形だけの短時間を参籠所で過ごし、迎えに来た花婿と一緒に山頂を目指して頂きます。

 鳥居をくぐることで結婚の意思が認められ、参集殿で着替えをして頂き、結婚式に至ります。

 その山中のルートは結構急な自然道なので、申請があったときだけ開放していて、普段は山肌沿いをぐるりと緩やかに登る遊歩道を通って参拝して頂いております」


 孝登が説明し終えると、それまで黙っていた美麗が突然口を開いた。


「私、その花嫁の儀式を体験してみたいです。遊歩道は男性たちに見て回ってもらって、望も私と一緒に参籠所を見せてもらわない?」


「えっ?でも、このイベントの提案者は私だし、実際のルートを見てみないといけないんじゃない?」


「イベントのだいたいの仕掛けは二人で考えたんだから、佐久間リーダーたちに、それが可能か確認してもらえば、今日のところはオッケーでしょ?男性の足なら1時間もかからないだろうし、見終えたら山頂から自然のルートを下って、合流してもらえばいいじゃない」


 ね?行こうよと望の腕を引っ張って、かわいくおねだりする美麗には、いつも望は逆らえない。

 いいな~。私が同じことをしたら、かわいいどころか、大きな図体をしたガキ大将が、玩具をねだっているようにしか見えないだろうなと、望は羨ましさを覚えると共に、美麗のかわいさに口元をゆるめた。

 二人の様子を見ていた佐久間も仕方ないなと笑って、別行動が決まった。


「分かりました。では今日は特別にお二人を参籠所にご案内しましょう。

 本殿に宮司の早瀬が待機しておりますので、男性は遊歩道を先に進んでいってください。女性は一人ずつ儀式の前に質問があります。

 まずは和倉さん、私と一緒に橋を渡りましょう。美麗さんは手招いたら、渡ってきてください」


 橋を渡りながら望はどんなことを聞かれるのかと気が気ではなかった。あまりにも落ち着かないので孝登の顔を覗き込んで自分から質問をした。


「あの・・。ひょっとして男性経験の有無とか聞かれるのでしょうか?」


 足を止め孝登がきょとんとして望を見つめ、意味が分かった拍子に身をよじって笑い出した。


「まさか!今時潔白かどうかなんて、そんなことを気にする人はいませんよ。和倉さんは面白い方ですね。私が聞きたいのは、本当に好きな方の名前です。別に嘘をついても構いませんが、その嘘を神がお聞きになった場合、ひょっとしたらその相手との縁を結ばれてしまうかもしれません」


 歩を進めながら、にやりと笑う孝登の顔を見て、望は美麗のいる陸地へと引き返したくなった。


「そ・それは、怖いですね。体験でも嘘の名前を言ったら、神が覚えているかもしれないんですね」


「今は流れを説明させて頂いていますので、あまり深く考えないでください。それに聞いたところで私の知らない方でしょうし、個人情報の漏洩はしません。では、好きな方の名前をどうぞ」


「……」


 島へあと一歩という所で、真っ赤になって俯いて立ち止まってしまった望に、孝登が島の入り口に設けられた小さな社務所から和紙を持ってきて、ここに名前を書いて懐に入れてくださいと促した。


「もしかして、先に行かれたお二人のどちらかですか?」


「…ええ、そうです。長年このお仕事をされている早瀬さ、いえ孝登さんの目はごまかせませんね。佐久間リーダーが、私の好きな人です。でも本当の片思いで美麗も知らないので内緒にして下さいね」


「分かりました。では山岸さんにもお聞きして参りますので、ここでお待ちください」


 美麗に手招きをすると、美麗が橋を渡るために歩き出したので、孝登は途中まで迎えにいった。

 きっと、同じことを尋ねられているのだろう。美麗が望と同じように橋の真ん中で立ち止まり、困惑した表情で一瞬望の方を見た。


 ひょっとしたら、美麗も佐久間リーダーを思っているのではないかと望は突然ひらめいた。

 だから、昨日ランチをした時に、望に佐久間のことを好きなんじゃないかと聞いてきいたのではないだろうか?

 そして望が否定をしたから、佐久間を今日の下見に誘ったのかもしれない。

 いきなり二人でどこかへ行こうと誘うより、仕事にかこつけての方が誘いやすいし、下見をしながらなら、話題も困ることなく親しくなれるチャンスが生まれる。


 望は島に上がったはずなのに、急に足元が揺れているような錯覚に襲われた。

 美麗が相手なら敵うわけがない! 現に今までだって自分が好きになった人は、みんな美麗を好きになったのだから・・・。


 懐に入れた和紙が変に意識され、三角関係の場合には願いごとはどうなるかと尋ねられた時の佐久間の言葉が耳に甦った。


『別に言うほど混乱はないと思います。思いあった二人が結ばれるだけで、当て馬にされた者が自分の馬鹿さ加減を嘆くだけに終わるんじゃないですか?』


 つんと鼻の奥が痛くなった。こんな思いをするなら、美麗の傍を離れればいいのに、腐れ縁なのか学校も職場もずっと一緒で、いつまでたっても当て馬を抜け出せないでいる。


 当て馬には、その気にさせる魅力があるけれど、私はただの引き立て役にしかならないかもしれないと気分が暗くなる。

 今はイベントの下見中だと、はっと我に返った望が、両手で頬を叩き気合を入れた。


「あ~、だめだめ!私は私!佐久間リーダーには他に好きな人がいるかもしれないし、美麗とくっつくって決まったわけじゃないんだから……」


 今は見ているだけでもいい。だって人を好きになると、当たり前の日常の繰り返しでさえ新鮮に見えて、幸せな気分になれるんだもん。

 

 望はこちらに歩いてくる美麗と孝登に笑顔で手を振った。

 心なしか、二人の表情が硬いのは気のせいだろうか?

 ぎこちなく笑顔で返して手を振った美麗が島に辿り着き、望と同じように孝登から和紙をもらって、隠すように名前を書いた。

 いつも二人の間では秘密なんかないはずなのに、誰を書いたかは、どちらからも聞かなかった。




「この側道は宝探しに使えそうだな。村上そっちはどうだ?どこへ繋がってる?」


「あー、えっと、ああ、見えてきた。佐久間リーダー、この先は階段になっていて遊歩道へ戻るみたいです」


「おう、分かった。ありがとう。よし、ルートの2/3はチェックできたな。遊歩道から見える海の景色もいいし、これはカップルにはもってこいのイベントになりそうだ」


 佐久間は、階段を下りる村上に続いて遊歩道に戻ると、望と美麗がそれぞれ考えたカップルが喜びそうな仕掛け、例えば木につるされた番号が書いてあるハートマークを挟んで写真を撮り、あとで当選番号が発表され、プレゼントがもらえるなどが書いてある用紙に、どのプランをどの辺りで行うか書き込み、仕掛ける場所で撮ったスマホの写真もチェックした。


「僕も好きな人ができたら、ドライブがてらここに連れてきて、断られないように縁結びをしたいな~」


「村上、それは多分無理だ。この神社は女性主体で縁結びをするらしい。小屋にあったパンフレットには、神社から渡される和紙に、女性が思う相手を書いて懐に入れ、山間の本ルートを登って鳥居をくぐれば縁が結ばれるらしい」


「え~っ。もてない男に救いの手を差し伸べてくれる神はいないんですか?」


「男なら、自分で当たって砕けろってことじゃないか?」


「厳しすぎる~。佐久間リーダーはもてるから、僕の気持ちはわからないんです

よ」


 村上の言葉に苦笑して、佐久間が目の前に広がる海をじっと見つめた。


「俺はもう砕けてるよ」


「えっ?何ですか?波の音で聞こえなくて・・・」


「いや、何でもない。早く頂上まで行って、和倉と山岸に合流しよう」


 さっさと緩やかな坂道を歩き出した佐久間を追って、村上も歩き出した。

 4月の暖かい日差しを浴びて坂道を上るうちに、汗ばんだ額をぬぐいながら、佐久間はあの日のことを思い出していた。




佐久間志貴は、大学2年生の夏に迎えた20歳の誕生日を、両親と二人の兄と共に、海辺のリゾートホテルで迎えた。

 志貴の実家も、大きなリゾートホテルと、少し離れた小高い山の上にある落ち着いた和風旅館を経営していて、7歳年上の兄の慶太は、4年間都内の大きなホテルに勤めてサービスを学んだ後、実家の旅館に入り、父について経営のノウハウを学んでいる最中だった。


 兄弟の中では線の細い5歳年上の純也は、自分はサービス業には向かないと早い段階から見切りをつけ、元々優れていた頭脳を活かして医学の道へと進んだ。

 次男が将来のホテル経営から外れたため、当然三男の志貴は家業に携わることを期待されることになり、本人もそれを自覚して大学は経済学部に入った。


 いつも宿泊客を優先してスケジュールを組む佐久間家も、家族の誕生日だけは別で、見学を兼ねてでもあるが、一同揃って他の旅館やホテルに1,2泊することになっている。

 志貴の誕生日は7月の繁忙期なので、本来なら休むのも憚られるが、従業員たちは心得ていて、笑顔で経営者家族を送り出してくれた。


 プライベートビーチを持つ大きなリゾートホテルに着くと、普段離れて暮らしている3兄弟は、ホテルの自慢の露天風呂につかり、近況を報告しあった。

 だが、自分たちのことを一通り話すと、この業界で育った人間らしく、ホテルの設備に始まり、露天風呂の湯や、従業員のマナーのことなどに話が向き、今まで泊まった旅館などと比べて採点が始まるのはいつものことだ。

 最初は話につきあっていた次男の純也も、尽きることのないホテル談義に呆れて、先に風呂からあがって行った。


純兄じゅんにいは相変わらずクールというか、独立独歩って感じだね」


「サービス精神旺盛じゃないからと言って、冷たい人間とは限らないぞ。純也は根が優しすぎて、志貴みたいに押しも強くなければ、甘えることも下手なだけだ」


「ひどいな、慶兄けいにい。俺はもう小学生の時と違って、思慮深い大人だよ」


「自分で言ってりゃ世話ないな。お前、もうすぐイギリスに留学するんだろ?あんまり羽目を外すんじゃないぞ」


 これ以上お説教を食らうのは勘弁とばかりに、はい、はいと言いながら湯から出た志貴は、着替え終わると、館内施設を巡るために、最上階のクラブラウンジへと向かった。


 エレベーターを降りて左手にラウンジの入口が見えた。この時間は準備中らしく、クローズの札が出ていたが、入口付近に置いてある観葉植物のシュロチクの陰から男女の話声が聞こえてきた。


 聞くともなしに耳に入った声の一人は、どうやら純也のものらしく、もう一人は女性のもので、なかなかきれいな声をしていた。

 あまり表情を変えない純也のにやけた顔がみたくて、志貴はそっと入口に入り、シュロチクの奥を覗いてみた。


「志貴、お前そんなところで何をやっているんだ?」


 こっそり覗いたつもりが、思いもかけずすぐ近くに立っていた純也と目があい、志貴は誤魔化すこともできなくなって、仕方なく純也が口説く相手を見たかったんだと開き直って、正直に告げた。

 すると、純也の前に立っていた女性が志貴の方を向いてくすっと笑う。志貴はあまりにも子供じみた自分の行動が恥ずかしくなって、謝るつもりで女性の顔を見てどきっとした。


 きれいな女だった。志貴よりも一つ、二つ年上だろうか、少し厚い下唇と、一重の切れ長の目がセクシーで、小柄なのに肉感的な肢体は、大学内にはいないタイプの大人の女だった。

 言葉もなく見とれた志貴を、純也がこらっと小突いて正気を戻させる。

 女性経験こそあったものの、志貴にとって、多分それが初恋だったのかもしれない。


 初めは純也を気にしていた女も、志貴の押しに負けて、ビーチを散歩することに同意した。

 名前は石田早紀。志貴より3つ年上で、この春からホテルで働いていると聞き出した志貴は、普段なら決して口にしない実家の旅館のことまで話し、彼女の歓心を買おうとした。

 そのかいあって、志貴は誘われるまま夜中に部屋を抜け出して、早紀が一人暮らしをしているコーポへと潜り込むのに成功した。


 早紀は初めてではなかった。一人だけ付き合った相手がいて、就職と同時に別れたと言ったが、その彼がつけた癖がその最中に垣間見え、志貴は自分が最初の相手ではなかったことが悔しくなった。

 相手の男に嫉妬をしたせいか行為が激しくなり、2度目の時に避妊具が外れてしまった。

 やばいと思ったが、情熱はとどまらず、二人は最高の瞬間を分け合った。


 それから1カ月半の間、志貴がイギリスへと発つまでの休みには、志貴は早紀の元へと通い、愛を確かめ合った。

 そして、出発する日に、空港へ見送りに来た早紀に、1年間待っていてくれと家族の前で愛情を隠すことなく乞うと、早紀はちらりと純也の方を見てから、志貴に笑顔で頷いた。

 

 イギリスに着いてからの1か月間、志貴は異国の文化や風習に慣れたり、授業の課題をするのに忙しく過ごした。

 時差もあり、早紀とはすれ違いが続いたが、渡英して半月ほど経った頃、早紀から、空港でのあの言葉はプロポーズだったのかな?もしそうなら嬉しいな~という軽口ではあるが、結婚の催促というか、確認のようなメールが届いた。

 早紀は大切だが、さすがに2カ月つきあっただけで、先を決められるほど自分の気持ちは確かではない。しかもまだ大学2年の志貴にとっては、冗談では返せない責任を伴うことだったので、今はまだ二人の関係を温めたいと返信した。

 それで分かってくれると思っていた。


 異国の生活で寂しくなって思い出すのは家族ではなく、早紀になっていて、嘘でもプロポーズだと言っておけばよかったと後悔もした。

 だから、自分らしくもない甘い言葉で飾ったメールを送り続けたが、3か月もすると早紀からは返事が来なくなった。


 胸騒ぎがして、不安に押しつぶされそうになりながら、早紀のスマホに電話をかけたが、早紀は志貴の電話には出なかった。

 事故にでもあったのだろうかと居ても立ってもいられなくなり、こんな時に離れていると何もできない自分が歯がゆくて、ホテルに電話をかけて早紀に連絡をくれるようにフロントに頼むと、石田は退職したと言われて頭の中が真っ白になった。

 一体どうなっているんだとパニックになりかけたが、大学の講義は難しくて、放り出して日本に帰るわけにもいかず、それから数カ月を悶々とした気持ちで過ごした。


 6月になり単位も無事にとれた志貴は、ようやく日本に帰れると浮足だっていた。

 こんな中途半端なままで終わるわけにはいかず、早紀の居場所を探すつもりだった。

 そんな時に純也から結婚を知らせるハガキが届いた。

 相手の名前を確認した志貴は、しばらく茫然と立ち尽くし、むかむかとこみ上げる吐き気を堪えて壁によりかかると、ハガキを真っ二つに割いた。

 石田早紀は、純也の妻、佐久間早紀になっていた。




 頂上付近になると、海沿いの坂道から山林へ入る道になり、しばらく上っていくと、ふいに視界が開けて目の前に鳥居が現れた。

 佐久間は回想から引き戻され、もう7年も前のことを未練がましく思い出した自分に苦笑した。

 普段なら埋もれて思い出しもしない記憶が、孝登の三角関係ならどうなるかという質問によって掘り起こされたのだろう。


 断ち切るように深呼吸をしてから、鳥居をくぐり、山頂に続く斜面を利用して建てられた手水舎・参集所・拝殿・幣殿殿・本殿などを見回した。

 境内は沢山の参拝客が集まっても大丈夫なほどの広さがあり、ここを建設させた時の領主が好んだのか、能舞台まであった。


 背後から荒い息が聞こえ、山道に入って少し急になった階段をようやく上り終えて追いついた村上が、佐久間を見て文句を言った。


「は~疲れた。佐久間リーダー、歩くの早すぎますよ」


「村上は俺より2歳も下だろ?体力無さすぎじゃないか?なぁ、それより、あれを見てみろ。あの舞台で流行のブライダル衣装を披露するショーができると思わないか?」


「あっ、それいいですね!縁結びの境内でブライダルショーですか。さすが佐久間リーダー!」


 二人が話あっているところへ宮司の早瀬がやってきて挨拶をすると、望の企画書に目を通し、佐久間が思いついたブライダルショーも快く承諾してくれたので、佐久間も村上もほっと一安心をした。


 かなり良い企画ができあがったので、多くの支店や関連会社に参加をしてもらって、集客したいと話し合っていると、村上のスマホが鳴った。

 村上が二人に断って、少し離れて話し始めたが、その内容が耳に入り、佐久間は村上に近づいて話に聞き耳を立てた。


「えっ?和倉が足にケガをして歩けないんですか?ええ、リーダーじゃなくて僕が迎えに行くんですか?一体どうして?……ああ、イベントの話を宮司の早瀬さんと煮詰めてもらうためにね。はいはい、役に立たない僕がお迎えに行かせてもらいます。じゃあ、山道を降りて行きますので待っててください」


 村上が電話を切るのを待って、佐久間が和倉の状態を聞いた。

 山岸の話では和倉は挫いたらしく、孝登に手を貸してもらって参籠所まで引き返し、中で休ませてもらっているらしい。

 いかにも女の子らしい山岸ならともかく、運動神経が良さそうな和倉の方がケガをするなんて予想外だと佐久間は思ったが、とりあえず村上に様子を見させることにして、自分は宮司に建物の中を案内してもらうことになった。

 

 その頃、参籠所の中では、望を畳みの上に座らせた孝登が、横から心配そうに覗き込む美麗に、湿布薬を取りに行ってくるから待つようにと断った。

 望の足首は腫れていて、体重をかけると痛みが走り、力が全く入らないらしく、これ以上山道を登るのは無理だった。

 そんな望に美麗が何度も何度も謝っている。望が足首を捻った原因を作ったのは美麗だった。


 慣れない山道を急ぐ美麗に、無理をしないようにと孝登も望も幾度も声をかけていたのだが、それを無視して、美麗が弾みをつけながら、落ち葉で滑りやすくなった土の階段を上って行ったのだ。

 参籠所の中で少し休もうという孝登の声も耳に入れず、望と早く頂上の鳥居をくぐりたいと美麗が言った時、孝登が咎めるような顔をしたが、望はいつものかわいい我儘だと思って付き合うことにした。


 舗装も何もしていない赤茶色の山土の階段は、土が流れて崩れないように、階段の端に倒木の太い枝を使って土留がしてある。 

 参籠所を超えて中腹に差し掛かった時、疲れが出たのか、幅も高さも違う階段をあがるリズムを狂わせた美麗が、土留の枝を踏み外して倒れそうになった。


 即座に望が美麗の腕を掴んで引っ張ったが、足掻いた美麗が望の足を蹴り、バランスを崩した望は足を捻りながら倒れてしまった。

 倒れながら、これはまずいと思ったが、捕まるものもなく腕は空を切った。

 追いついた孝登に支えられ、地面で腰を打ち付けるのは免れたものの、身体を元に戻そうとした途端に足首に激痛が走って、その場にしゃがみこんでしまった。


 望は女性にしては170㎝と背が高いので、孝登は頂上まで望を運ぶのは無理だと判断し、望に肩を貸して体を半分持ち上るようにして支え、足首に負担をかけさせないように注意しながら参籠所に辿り着いたのだった。

 望にケガをさせた上、指をくわえてみているしかなかった美麗は、何が何でも望のために役に立ちたかった。


「待って。孝登さん。望のケガは私のせいだから、私が取りに行きます。もし、ここにおかしな人が来たら、私では望を守れません。お願いだから望を見ていてください。」


「大丈夫だって美麗。私より美麗の方が心配でしょ。また転びそうになったらどうするの?」


「今度はゆっくり足元を確かめながら行くから、孝登さん、望をお願いします」


 あまりにも美麗が必死に頼むので、ついに孝登も折れて留守番を引き受けることを承諾した。

 美麗はお礼を言うと、今度は慎重に足場を確保しながら階段を上っていった。

 道がくねって曲がり、参籠所が見えなくなったところで、美麗はスマホを取り出して、村上に電話を掛けた。


 佐久間も村上も、もう頂上の神社に着いている頃だろう。あまり自分たちが遅くなると、心配して佐久間が降りてくるかもしれない。

 佐久間なら望を抱えて山頂まで行きつくことも可能だろうけれど、それをさせてはいけない。 

 多分、望が和紙に書いた名前は佐久間だ。二人で鳥居をくぐれば縁が結ばれてしまうかもしれない。

 何としても阻止しなければ・・・。


 新緑が芽吹く山道を美麗はわき目もふらずに登った。聞こえるのはザッザッと砂利と枯れ葉を踏みしめる音と、自分が吐く息使いだけだ。

 しばらくすると、前方の上の方から美麗よりも早いテンポで枯れ葉を踏みしだく音が聞こえ、村上の姿が現れた。


「山岸さん!どうして登って来たんですか?和倉は?大丈夫ですか?」


「ええ、孝登さんがついていてくれます。望のけがは私のせいなので、湿布を取りに行こうと思って……」


「それなら言ってくれれば、僕が持ってきたのに……。山岸さん一人で山道を登るのは危ないですよ」


「でも、湿布薬を頼めば、宮司さんとのお話を中断させるでしょ?邪魔しちゃいけないと思ったし、今からもらいにいけば、ある程度お話が決まっているかなと思ったの」


「山岸さんは、細かいところまでよく気が回られるんですね。こちらの話は大方ついて、あとは佐久間リーダーがブライダルショーの着替えができるか確認をしています。あっ、能舞台があるんで、佐久間リーダーがイベントのラストにブライダル衣装のファッションショーをしてはどうかって提案したんです」


「さすが、佐久間リーダーですね。あの…村上さん、もしできたら、孝登さんと一緒に、望を支えて下まで降りてもらえますか?話が済んでいるのなら、もう、望が上に行く必要はないんですよね?」


「ああ、そうですね。無理をさせちゃいけないし、佐久間リーダーが車で来ているから、帰りは乗せて行ってもらうといいですよ」


 話が終わり、二人は手を振り合って別れると、村上は参籠所へと下り、美麗は再び神社を目指して登り始めた。


 鳥居をくぐった時、佐久間が宮司と建物から出てくるのが見えたので、美麗は望のケガのことを話して、湿布薬を分けてもらえるように頼むと、宮司は神社に隣接する住居から持ってきてくれた。

 それだけでなく、宮司は町の診療所にも電話をかけ、診てもらえるか聞いてくれようとしたが、休診日のようで誰もでなかった。

 佐久間と美麗は、宮司の親切に心からお礼を言うと、企画が軌道にのった後の相談の約束を取り付けて、山道に向かった。


「佐久間リーダー。孝登さんと一緒に、望を下まで連れて行ってくれるよう村上さんにお願いしたので、緩やかな遊歩道で戻りませんか?私もイベントの確認ができるし・・」


 山道に入る鳥居の手前で立ち止まった美麗が、20mほど離れた左手に見える遊歩道へ続く階段を指した。

 振り返った佐久間は、何かを考えるように腕組みをすると、美麗の顔をじっと見つめ、おもむろに口を開いた。


「山岸、お前、俺に何か隠していないか?どうしてそんなに勝手なことばかりする?」


「えっ?何のことですか?村上さんに電話をかけたことでしたら・・・」


「イベントの話を進めるためだったな?だが、俺に説明してから、村上に頼んでも良かったんじゃないか?和倉のことだって、村上と孝登さんの二人がかりで支えて、この細い山道の階段を3人並んで下ろせると思っているのか?余計に危ないぞ」


「リーダーのお手を煩わせないように、気を回したつもりでしたが、お気に障ったなら謝ります。すみませんでした」


 美麗が仕方がないという態度を隠しもせずに謝ると、佐久間の脇を通って鳥居をくぐり、山道の階段に足を踏み出した。その時、はらりと何かが舞った。

 急な階段を上ってきたせいで移動したのか、カットソーの下に入れておいた和紙が落ちたと気が付いた美麗は、慌てて手を伸ばしたが、風に乗って佐久間の足元まで運ばれた。


 それが何かも気付かずに拾った佐久間は、開いた和紙に書かれた名前を見て息を飲んだ。

 一瞬二人の視線が絡んだが、いけない物を見てしまった動揺で佐久間が視線を逸らすと、それを許さないとでも言うように、美麗が真剣に佐久間を見つめて、震える声を絞りだした。


「軽蔑されても構いません。私は望をずっと思っていたんです。できればこの鳥居を、望と一緒にくぐりたかった」


 唇を震わせて、必死で泣くのを堪えている美麗の目は真っ赤で、例え思う相手が同性だろうと、その真剣な気持ちを目の当たりにした佐久間は、軽蔑なんてできるわけがないと首を振った。


「人を真剣に思う気持ちは俺にも分かるつもりだ。だが、お前の勝手な行動で和倉はケガをしたんだ。助けるためなら、体格からいって、俺に頼むのが普通じゃないか?どうして俺を避けるようなことをした?」


 一瞬唇を開きかけた美麗が目を泳がせ、睫毛を何度も瞬かせてから、考えるようにゆっくりと言葉を吐き出した。


「それは・・望に・・・触って欲しく・・・なかったから・・。のぞ・・・佐久間リーダーが、・・・望を好きになると嫌だから・・」


「山岸の気持ちは分からないでもないが、孝登さんと村上があの狭い階段を落ちたら、受け身をとれない和倉はもっと大けがをすることになる。俺は和倉には何の感情も持っていし、今は女性と真剣に交際したい気持ちもないから大丈夫だ。山岸は遊歩道を降りてこい。俺はここから降りる」


 足早に横を通り過ぎようとした佐久間の袖を、美麗が引っ張って止めると、小さな声で不安そうに呟いた。


「待って。望には言わないで。私が好きだってこと・・・お願い。内緒にして・・・」


 今にも泣き出しそうな美麗をじっと見つめ、佐久間は美麗の両肩にそっと手をのせて静かにほほ笑んだ。


「心配するな。秘密は守る。ほら、時間はかかってもいいから、遊歩道の方から降りてくるんだぞ。村上を待たせるからな」


 美麗を安心させるように、肩をぽんと叩くと、佐久間は階段を駆け下りていった。




 山の中腹にある参籠所の小屋から出てほどなく、望は村上の肩を借りて片足でほんの少しずつ段差を降りていたが、石や枝がむき出しの幅も違う段を、歩数を調整しながら降りるのは思うより難しく、二人とも早くも息が上がっていた。

 狭い階段は3人で並ぶこともできず、孝登は二人の後ろから、いざというときには望の身体を支えられるように構えながらついていく。


 孝登は望がケガをした時に、参籠所まで肩を貸していたので、望の腰と手を支えるために両手がふさがってしまい、たくしあげることのできない袴では、足元が見えないばかりか、裾を踏む危険性があると分かり、今回は村上に任せることにした。


「村上さん、重いのにごめんね。ここらへんでちょっと休憩しませんんか?」


 望が声をかけると、ほっとしたように村上が頷き、それぞれが側の木に、もたれかかるようにして体を休めた。

 参籠所で待っている時に聞こえた足音に、ひょっとしたら佐久間かもと思わず胸をときめかせた望だが、村上が入って来たのを見て、村上には悪いけれど、ああ、やっぱりと失望と納得が入り混じったような複雑な気分になった。


 せめてこの和紙の札を胸に、鳥居をくぐりたかったけれど、それさえも私には許されないのだろうと悲しくなった。

 叶わない恋は、もしかしたらいつかは…と甘い可能性を期待して、夢を見ている分にはいいけれど、現実を知れば、夢を見た分の高さから急激に突き落とされる。


 孝登が話してくれたこの神社の由来になった女性は、思い人から離されて、見知らぬ権力者に輿入れするのを、あの参籠所でどう思って過ごしたのだろうかと感傷的になってしまった。


 多分、女性の思い人は、日ごろから接する機会のある野良仕事や漁に精を出す同じ平民だったのではないだろうか。それに対して婚約者は、家来に囲まれ、上から命令するだけで、何もかも思い通りになる優男だったんじゃないだろうかと、望が考えを巡らせていた時、ザザザッと落ち葉の上を駆けてくる音が聞こえ、佐久間の姿が現れた。


 夢を見てるのだろうかと望は一瞬身体を強張らせたが、佐久間が近づいてきて、望の顔と足を見て大丈夫かと聞いたとき、本物だと分かって別の緊張感を覚えた。


「だ・大丈夫です。挫いただけだと思います。ご心配おかけして、皆さんにもご苦労をおかけしてすみません」


 もたれていた木から身体を起こそうとしたときに、佐久間が望の腕をとって手助けしてくれたばかりか、とんでもないことを言った。


「ほら、俺の背中に負ぶされ。抱っこは足元が見えないし、俺も腕力が持つか自信がない」


「えっ⁉ でも、そんな……佐久間リーダーが潰れますよ」


「お前な~。笑わせると力が抜けて、余計に潰れるぞ。それに身長はあっても、女と男では骨格が違うから、考えるほど重くはないと思う。ほら、試しに負ぶされ」


 半分屈んだ背中に、恐る恐る手を置いて、佐久間の筋肉の硬さや熱を感じたとき、望はこれ以上密着するのは無理とためらった。

 肩越しに佐久間に腕を掴まれ、ぐいっと引っ張られた望は、次の瞬間には佐久間の背中に抱きついていた。

 ぎゃ~~~~~っ!と叫び声を上げたいのを必死で堪え、反り返って距離を取ろうとしたのも虚しく、胸に圧迫感を覚えた途端、足が宙に浮いていた。


「うん、大丈夫だな。和倉、背中で暴れるなよ。村上は俺の横で並んで歩いてくれ。もし俺が足を滑らせたら、和倉をすぐに放すから抱き留めてやってくれ」


「分かりました。佐久間リーダーも無理しないでくださいよ」


 一歩階段を下りるごとに、身体が沈み胸が佐久間の背中に押しつけられる。

 自分は背も高いし男性に近いと思っていたけれど、佐久間の肩の広さや胸の厚み、筋肉で覆われた身体の硬さは、柔らかな脂肪で覆われた自分とはまるで違っていた。


 村上に肩を借りて片足で跳ねていた時は、挫いた方を固定するように膝から曲げて、地面につかないように足先にまで力を入れていたが、今は力も抜けて、降りる反動でブランブランとひざ下が揺れる。

 どきどきと脈打つ心臓の音が、佐久間の背中に伝わってしまうんじゃないかと望は焦り、落ち着こうとすればするほど大きな鼓動を意識して、のぼせそうになる。


 だが、揺れる度に足首に痛みが走り、佐久間の背中を占領しているのは特別なことではなく、部下の望を助けるために佐久間が取った責任からの行為だと、自分を戒めるのに役立った。


 身体がほてって熱い。足首が痛い。いったん立ち止まった佐久間が、ずり下がった望を背負い直すと体がこすれた。


 熱い、痛い、熱い、痛い、熱い……いつの間にか頬に伝ったものも熱かった。

 このまま二人だけになれるなら、時を止めて、ずっとこの背中の熱さを感じていたかった。

 

 大好きです。佐久間リーダー。望は心で呟いてみる。

 その瞬間、古の参籠所に迎えに来た思い人が女性を背負い、階段を上るイメージが望の頭に沸き起こった。


 女性の胸には思い人の名前を綴った和紙がある。優男が追いつこうとしても、鍛えられた男の足は山道に慣れていて速い。覆いかぶさるような枝が上下に揺れるのを、男の背中で見ながら、女はひたすら男が鳥居をくぐる瞬間を願ったのかもしれない。


 鳥居で待つのは宮司だ。追われる男女が無事につくのを今か今かと心配していただろう。

 そして、二人が息せき切ってあの鳥居をくぐった時、二人の絆は神から認められ、例え権力者と言えども引き裂くことはならないと、追ってきた権力者に宮司が言い渡したに違いない。


 孝登から聞いた宮司が施した細工は、意に染まぬ結婚のために、参籠所で身を清める女性を恋人にさらわせて、結ばれる機会を与えたことなのだろう。

 私と佐久間リーダーとの道は下ってしまうけれど、こんな風に身体を寄せ合う機会が持てたことだけでも感謝しなければと望は思った。


 最後の段を降りた時に、肩で息をしながら遊歩道を駆け降りてきた美麗と合流した。

 橋の横にある小屋から丸椅子を持ってきた孝登にお礼を言って、望が腰掛けると、美麗が湿布薬を望の足首に貼って、謝りながら何度も足首を撫でる。

 みんなが見ている手前、望は恥ずかしくなって、美麗にもう大丈夫だと断って椅子から片足で立ち上がった。


「和倉、あまり無理をするな。俺は車を駐車場から橋のたもとに移動させるから、少しここで待っていろ。俺の車はツーシーターだから、村上と山岸は悪いが電車で帰ってくれるか?」


 弾かれたように顔を上げた美麗が、何かを言いたげに佐久間を見たが、佐久間は分かっていると頷くと、線路の向こうに止めた車を取りに足早に去っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、村上がため息交じりの情けない声を出す。

「な~んだ。佐久間リーダーの車は二人乗りか~。僕、久々に運動して、結構疲れたから乗せて行って欲しかったのにな~」


 自分のせいでみんなに迷惑をかけたと責任を感じている望が、村上に向かって頭を下げた。


「運動どころか、重たい私を抱えさせてすみませんでした。村上さん」


「えっ?いやいや、和倉のせいじゃないって。それに和倉を運んだのは佐久間リーダーだし、僕こそ役に立てなくてごめんな」


 余計なことを言ってしまい望に気を使わせたと気まずくなった村上が、小屋の中にいる孝登から資料をもらってくると言って離れていった。


「望、本当にごめんね。痛かったよね。骨にひびとか入ってないといいんだけど・・・。月曜日の企画発表の会議に出られるか心配」


 眉を八の字に下げて望のことを心配してくれる美麗を見ていたら、望は自分の気持ちより、優しくてかわいい美麗の恋心を応援してあげたくなった。


「湿布を貼ってもらったから、少し痛みが和らいだみたい。心配かけてごめんね。それより、美麗は佐久間リーダーと鳥居をくぐったの?」


「えっ!?」


「美麗の思い人は佐久間リーダーなんじゃないの?昨日私に佐久間リーダーが好きかどうか確かめてから、結実神社の下見に誘ったでしょ。私に遠慮して、和紙に書いた名前を言わなかったんじゃないの?」


「あ、あれは、この山道を望と探検したくて、遊歩道の下見をしてくれる要員が欲しかっただけなの。私の好きな人は……。望は?望こそ佐久間リーダーが好きなんじゃないの?」


「えへへ…。やっぱり美麗を誤魔化すのは無理みたい。今までもそうだけど、私の場合、男性からみると恋愛対象にならないみたい。みんな美麗を好きになったもの。だから、ふられるよりこのまま黙って見ている方が傷つかないし、それでいいかなって……」


 望の話を聞いている美麗の表情が、ふいにくしゃっと歪み、ごめんと呟くとぽろりと涙を流した。


「えっ?どうしたの美麗?男の人が女の子らしくてかわいい美麗を選ぶのは当然だもの。美麗が責任を感じることじゃないよ。ごめん、変なことを言って。泣かないで。私に魅力が無いだけなんだってば」


 おろおろする望に、美麗はただ首を振って、ごめんねと言い続ける。

「違うの・・望に魅力が無いんじゃなくて、今まで私が・・・」


 美麗が何かを言いかけた時、向こう岸の橋のたもとに車をつけた佐久間を村上が見つけ、小屋から出てきて望と美麗のもとにやってきた。


「和倉、肩を貸すから、橋を渡ろうか。山岸さんも反対側で肩を貸してやって」


 3人が橋を半分も行かないうちに、佐久間が走ってきて、望をまた負ぶって車に運んだ。

 佐久間の背中に負ぶわれて、照れと喜びを必死で隠している望は、美麗から見てもかわいくて、いつも自分を守ってくれる望とはまるで別人のようで寂しくなった。


 それでも、望が体験してきた寂しさや悲しみは、自分の比ではないと美麗は思う。なぜなら美麗は、望と誰かがくっつく前に邪魔をして、望に向きかけた男の好意を無理やり自分に向けさせてきたからだ。

 こんな表情を望から奪ってきたんだと思うと、どんなに自分が酷いことをしてきたかを思い知って、後悔で胸が痛くなった。


 4人は橋を渡り、道に止めてあった車までやってきた。佐久間が助手席に望を乗せてから運転席に回り、望の横の窓を開けて、助手席側にいた村上と美麗にお先にと挨拶をする。

 その瞬間、美麗は車が発進するのを止めるように窓に手をかけて望に言った。


「望、さっきの話。私が書いた人は、望の知らない人だから、望は自分の好きな人に素直になればいいのよ。望は魅力的なんだから、自信を持って当たっていって欲しい」


美麗の決意をじっと聞いていた佐久間が、本当にそれでいいのかと問う様に美麗を見つめると、望をお願いしますと美麗が頭を下げて車から離れる。

 了解したと頷いた佐久間は、車をスタートさせ結実島を後にした。




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