Here we stand(2)

 試験日に挟まれた日曜の昼。ずしりと重いトートバッグを肩に、美祈は隣町の商店街にある整体医院を訪れた。母方の叔母・奈美が夫婦で営んでいる医院だ。自動ドアが開き、軽やかな電子音楽が鳴る。

 いらっしゃいませ、と奈美が余所行きの声を出す。施術場と待合室を仕切るパーテーションの脇から顔を覗かせ、美祈の姿を認めると、マスクから出ている目だけでニカッと笑った。


「そこで待っていて」


 椅子に座り、トートバッグから授業ノートを取り出した。奥からは、患者と奈美の会話が聞こえた。


「でね、その子が将来は医者になりたいって。やっぱり、臓器移植とか受けたりしたら、そういう夢をもつもんなんだね。小学生なのに、立派だよ」


 声から察するに、客は五十代くらいの女性だろうか。いきなりの臓器移植の話に、美祈の肩はビクリと動いた。奈美は、施術をしながら、曖昧な相槌を打っていた。


「けど、その番組でも言っていたけど、まだまだ足りないんだって? でもねぇ、どうなのかね。自分が治るために誰かの死ぬのを待っているって感じは」


 ヒヤリと背筋が冷えた。


 手術後、引っ越したのは通院の利便性を考えただけではない。闘病中は、移植をしなければ助からない事実に同情して励ましてくれていた近隣の住民が、術後になると態度を一変させた。陰口を叩かれ、後ろ指でさされた。『人殺し』と印刷された紙を玄関に張られたこともあった。

 テレビ局や新聞社からの取材依頼もきた。断ると、なじられた。人の臓器をもらって助かったのなら、取材に応じて当然だろう、などと理不尽な罵声を浴びたこともある。


 知識が浸透しつつあっても、人の意識は簡単に覆らない。本能的に、拒絶してしまう人も、まだいるのだ。

 それらを覚悟の上で、美祈も両親も手術に同意した。しかし、現実に晒されると、ダメージは大きかった。


「だって、死体から取り出した臓器が自分の体に入るとか。考えてみただけでもゾッとするわ。私はそこまでして生きたいと思わないねぇ」

「とは言っても、ね」

「あだだだっ! ちょっと、強くない?」


 女性客の悲鳴に、美祈は肩をすくめた。爽やかな奈美の声に、更に苦笑する。


「あーら。ここのところがちょっとお悪いようですね。はい、今日はこの辺で」

「あら、もうそんな時間? いつもより短い気がするけど」


 ブツブツいいながら、見た目は品の良さそうな婦人が腰に手を当てながら出てきた。目が合ったので、会釈する。


「待たせたわね」


 奈美が満面の、悪戯小僧の笑みを浮かべて後に続いた。女性客は、ちらりと時計を見た。


「午前の診療はもう終わりじゃないの?」

「彼女は、お客じゃないから」


 会計を済ませ、奈美は客を送り出しがてら、美祈の両肩へ手を載せた。


「私の姪」

「あら。重い病気だって言ってなかった?」

「ええ。おかげさまで、手術が成功したの。臓器移植が、ね」


 にっこりと微笑む奈美に、客の顔から血の気が引いた。


「あ、あら。それは、良かったことで」


 そそくさと、ブランド物のバッグを提げて出て行く。自動ドアが開き、軽やかな電子音楽が鳴った。


「奈美さん、またお客を一人無くしたね」


 やれやれと見上げると、奈美は笑いながら手をヒラヒラと振った。


「大切な姪を悪く言うようなのは、客じゃないよ」


 腰に手を当て、豪快に笑う。勢いにつられ、美祈も小さく笑った。


「でも、あの人が特別悪いわけじゃないよ?」


 やんわり咎めると、奈美は眉尻を下げた。


「美祈は優しいね」

「慣れてるだけだよ」

「さ、嫌なことはトイレにでも流して、まずはお昼を食べよう」


 さっさと、入り口の札を「休診中」に裏返し、鍵をかけた。クリーム色のブラインドを降ろす。

 静まった室内に、空気清浄機のかすかな音が響いていた。

 奈美が奥からコーヒーのペットボトルと紙コップを持って来る間に、美祈は受付カウンターの上を片付けて、由嵩が持たせてくれた弁当を並べた。

 蓋を取り、箸を置きながら、ねえ、と奥の奈美へ話しかけた。


「大きな病気をした人は、治った後、社会に恩返ししたほうがいいのかな。さっきのお客様が言ってたみたいに、医療関係の仕事とか」

「そんなこと、ないでしょ。まあ、きっかけの一つにはなるんだろうけど。大病をしようと、臓器移植を受けようと、生きて何をしたいかは人それぞれじゃない」


 しばらく冷蔵庫の扉を開け閉めする音がしていたが、心配そうな奈美の声が続いた。


「何か、言われたの?」

「この前、海外で移植手術を希望する子のための募金を駅前でやっててね」


 弁当箱を包んでいたハンカチを畳む手が、遅くなった。


「それ見たら、なんか。自分も助けられたんだから、後に続く人を助けなきゃ、みたいな義務を感じちゃって」


 義務感からなけなしの五百円を募金しようとしたために、隼人を傷つけることになった。思い出してみれば、遠目に沙月たちの姿を認めていたのだろう。彼は、募金の列の反対側から駅へ入ろうと促していた。

 両手が塞がった奈美が、丸椅子を脚で引き寄せて美祈へ勧めた。


「同じように苦しんでいる人を助けたいって思うなら、そうすればいいし。だけど、義務に思わなくてもいいんじゃないかな」


 そうだね、と相槌を打ったものの、逆に後悔は深まった。だったら、あの時募金なんてしなければよかった。隼人が促すままに、募金の列を避けて駅へ入ればよかった。

 重なった紙コップをはがしながら、奈美はさり気なく美祈の表情を窺っていた。涙が滲みかけたのを、見られたかもしれない。しかし、奈美はカラリと話題を変えた。


「飲み物どうする? 新しい牛乳、無かった」

「いいよ。お茶持ってきたから」

「じゃ、私は遠慮なく」


 トポトポと、紙コップへアイスコーヒーが注がれた。

 立ったまま、奈美は弁当を覗き込んだ。


「お、チーズハンバーグがある。さすがは由嵩。分かってるなぁ」


 好物を見つけて、箸の用意を待たず指で摘む叔母を、美祈は笑いながら諌めた。


「最近、どんどん腕をあげてるんだよ。隼人の注文に応えようと、必死なんだ」

「隼人って、美祈の彼氏だっけ? いいねぇ。毎日当たり前にしていることを褒めてくれるなんて、由嵩にとって堪らなく幸せなことだもんね」


 一通りおかずを食べると、奈美の笑みに寂しさが含まれた。


「うちで預かっている間も、出来るだけ褒めて育てようと思ってはいたんだけど。あの頃は忙しかったし、あんたのところも大変だったからね」


 しみじみと見やるパソコンの脇には、二歳の頃の由嵩を抱っこする奈美夫婦の写真が飾られていた。右下の日付は、由嵩が森野家に戻る日を示していた。写真が色あせていないのは、数年ごとに印刷しなおしているからだ。


 美祈は玉子焼きを箸でつまんだ。高校に持っていく弁当にも、毎日のように入れてくれる。冷めても柔らかく、ほんのりと甘じょっぱい。今日の玉子焼きには、あおさが混ぜ込まれていて、磯の香りも広がる。

 隼人が一番好きな、由嵩の玉子焼き。開けた口へ入れてあげると、子犬のように嬉しそうに笑う。つい一週間前の昼休みを思い出し、目の奥が熱くなった。


「翔さんの具合は、どうなの」


 急いで話題をふった。ああ、と素っ気無い返事をして、奈美はコーヒーをブラックのまま喉へ流し込んだ。


「熱は夜に下がったから、もう、体は元気よ。ま、インフルだから、絶対に出てきちゃダメ、て釘を刺しておいて家庭内別居してるけど。ごめんね、試験中なのに手伝い頼んじゃって」

「大丈夫だよ。明日の古文は得意なんだ」


 えへへ、と笑い、残っていた玉子焼きを齧る。奈美の弁当箱は、早くも空になっていた。


「で、その隼人くんとは、その後進展があったの?」


 ニヤニヤと顔を近付けてくる。美祈に恋人が出来たと聞いて一番喜んでくれたのが、奈美だった。


「進展、て」

「どこまでしたの」

「それって、姪に聞くこと?」


 軽くいなしながらも、食べかけの玉子焼きを下ろした。水筒のお茶を飲む。保温機能に守られたお茶は熱く、舌先が痛んだ。

 美祈の横顔と半分以上残っている弁当を見比べ、途端に、奈美の表情が曇った。


「うまく、いってないの?」


 諦めて、美祈は箸を手放した。ねぇ、と奈美を見上げた。


「好きなのに別れた人を忘れるのに、どれくらい時間がかかるかな」

「そりゃ、人それぞれとしか言いようがないけど」


 奈美の眼球がせわしく動いた。彼女は、隼人が同じ高校に通う同級生、としか知らない。明確に言わない美祈の背景を探っているのだろう。


「それがもし、初恋の相手とかだったら、忘れられないねぇ」

「だよね」

「ほら、光源氏だって、初恋相手の桐壺が忘れられなくて、似た顔の若紫を拉致ってしまうじゃない?」


 奈美的解釈が入るものの、現代の感覚で考えるとあながち間違いではないかもしれない。はあ、と気の抜けた相槌を打った。


「美祈にとって、隼人は初恋の相手なんでしょ」

「うん。まあ」


 熱くなった頬に手を当てた。入退院を繰り返す中で、優しい医師や理学療法士に好意を持ったことはあったが、ずっと側にいたいと思った相手は隼人が最初だ。

 しかし、美祈が知りたいのは、そっちではない。隼人が夏菜を思い出にするのにどれくらいの時間がかかるか、だ。


「じゃあ、その初恋の相手との別れが死別だったら?」


 質問を変えてみた。

 奈美の眉が片方だけ飛び上がる。彼女の脳内で今、隼人が殺された模様だ。が、そこは大人として、あくまでも客観的に考えてくれた。


「辛いよね。だって、相手が自分の好きな状態のまま、永遠に心に焼き付いてしまうんだから」


 でもさ、と奈美はコーヒーを飲んだ。


「それって、忘れないといけないことかな」


 首を傾げる美祈の背後に視線を彷徨わせながら、奈美は眉間に皺を刻んだ。


「忘れないと、次のステージに行けないものかな。大切だった相手のことをずっと大事に思えない人が、他の誰かを大事にできるかな」


 叔母らしからぬ迷いを含む返答に、美祈はそっと尋ねた。


「奈美さんも、初恋の人とか、まだ忘れていない?」

「そりゃ、覚えているよ。翔には内緒だけどね」


 ぺろりと舌を出し、肩をすくめて片目を瞑る奈美の頬が、うら若き少女のように薔薇色に染まったのが認められた。



 期末試験最終日。午後から部活があったが、隼人は来なかった。


「体調不良だって? みんな、風邪に気をつけろよ。三年にうつしたら恨まれるぞ」


 コーチの檄は、試験後の開放感に酔いしれる、あるいはこの世の終わりとばかりに沈み込む部員たちに響くことはなかった。

 帰りに、美祈はいつもの分かれ道で考え込んでいた。勇哉は、他の友達と試験終わった打ち上げに行くとかで、直接店に向かった。


 隼人の家に、行ってみようか。迷惑だろうか。


 場所は、教えてもらったことがあった。似たような家が並ぶ住宅街だから、見つけるのは困難かもしれない。たどり着けなくても、足を運べば少し自分を納得させることができるかもしれない。

 冷えて固くなったローファーの底が、アスファルトを自信なく踏みしめた。迷いながらも、駅が近づいてくる。

 最後の角を曲がった途端に、募金の列が目に入った。反射的に、電柱の陰に身を隠した。


「募金をお願いします」

「病気と闘っているあかりちゃんに、心臓移植を受けさせてあげてください」


 呼びかけは、この前よりトーンが低かった。寒風の中で立っている人の平均年齢が高いのだ。

 沙月の姿はなかった。しかし、一番端で静かに立っているのは彩瀬だった。通行人へビラを差し出す柔和な動きに、美祈の心臓はトクリと伸縮した。


 彩瀬は、どのような思いで募金活動に参加しているのだろうか。家族が臓器移植で救われた、あるいは救われなかった人が参加する話はよく耳にする。しかし、彼女は娘の臓器を提供した側だ。

 そもそも、脳死判定を受けようと決意したのは何故だろう。事故から脳死判定まで、二ヶ月あっただろうか。数年して、娘が意識を取り戻す可能性を考えなかったのだろうか。一縷の望みを、持たなかったのだろうか。

 差し出されたビラを受け取る人は少なかった。募金箱の前で立ち止まる人もいない。募金を呼びかける声は、空しく冬の夕暮れに溶かされていく。それでも、幼いあかりちゃんのために、彩瀬たちは立っていた。


 美祈は、唾を飲み込んだ。スクールバッグの肩紐をかけ直す。足を踏み出した。吹き付ける向かい風に一瞬目を瞑ったが、奥歯を噛み締めて顔をあげた。

 あざといことをしている。

 内心苦笑しながら、リボンタイを外した。シャツのボタンを、下着がギリギリ見えないところまで外す。冷たい風が胸元に吹き込んだ。

 穏やかにビラを差し出した彩瀬の正面に立った。


「あら」


 首を傾け、驚いたように微笑む彼女の手からビラを受け取り、代わりに五百円玉を差し出した。

 緊張で鼓動が速まる。


「この前に続いて、ありがとうございます」

「いえ」


 覚えていてくれた。丁寧に礼を言う彩瀬の前で、さりげなく襟元へ手をかけた。V字に開いたシャツの合わせ目から、手術痕が覗いているはずだ。


 まだ比較的新しい、ピンク色の手術痕が。


 彩瀬の表情が強張った。美祈の胸元を凝視し、乾いた唇が戦慄いた。かすかな動きが、娘の名を呼んでいた。


 気付いてくれた。気付かれてしまった。


 相反する感情が、交じり合うことなく渦巻いた。

 最も近くに立っていた募金参加者が、異変に気が付いた。彩瀬を気遣い、美祈を不審な目で見るその人に、彩瀬は首から外した募金箱を託した。


「ごめんなさい。ちょっと、抜けさせてもらえるかしら。遠方に行った知り合いの娘さんが、会いにきてくれたから」


 嘘の口実に訝しがる仲間を他所に、彩瀬は美祈を振り返った。


「ここではなんだから、お店に入りましょう」


 優しいその目に、涙が浮かんでいた。

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