第290話 卒業旅行

「美紗……美紗たん……」



 白いもやの向こうから、彼女を呼ぶ声が聞こえる。


 まだ少年の面影を残す、優しくも懐かしいその声。


 

「誰……誰なの? 慶太くん? 慶太くんなのね」



 彼女は声のする方へと、その小さな手を伸ばそうとする。


 しかし彼女の手は、本人の意に反して、少しも動こうとしない。



「慶太くん、動けない、わたし動けないのっ、慶太くん、慶太くんっ!」



 涙ながらにそう訴えかける彼女。


 先程までは淡く揺蕩たゆたうだけだったもやは、次第にその色を赤黒あかぐろく変化させ、次第に彼女へと近づきながら、その全てをおおいつくそうとし始める。



「あぁ、駄目、飲み込まれるっ! 慶太くん、助けっ、助けて! あぁ、慶太くんっ!」



 やがてそのもやは、禍々まがまがしい瘴気しょうきを放ちながら、彼女の足から太ももへ、更には腹から乳房へとまとわわり付いて行く。



「……はぁっ! ダメっ!」



 ついに彼女が、邪悪なるもや蹂躙じゅうりんを覚悟した、その時。



「美紗たんっ、大丈夫? 美紗たんっ!」



「えっ! 美紗……?」 



 あまりにもに聞くその呼び方に、驚きよりもが先行。


 その『小さな』が、今まで眠っていた彼女の脳を、いきなりフル回転へと加速させた。



「え? 何っ? どう言う事? えっ?」



 その声を切っ掛けに、先程までは固く閉じられ、開く気配すら無かった両目が、突然弾ける様に見開かれる。


 そんな彼女の視界を埋め尽くす、そこそこイケてる風にも見える青年の顔。


 その距離、およそ十センチ。



「あぁ、美紗たん、良かったぁ、ようやく目が覚めたんだね……」



 ――ボクッ!



「あべしっ!」



「キィィヤアァァァア!」



 神殿内に響き渡る、うら若き乙女の叫び。


 その声にかき消されてしまってはいるが、悲鳴の発せられるわずかかコンマ数秒前。


 彼女の放った渾身のコークスクリューパンチが、青年の顔面へとクリーンヒット。


 青年は、過去に一度も……いや、高校生の頃は結構ハマっていた某マンガの有名なセリフあべしっ!を発しながら、ベッドから三メートル以上後方へと吹き飛ばされて行ったのだ。



「はぁ、はぁ、はぁ……何っ! 慶太くんったら! どうして私にキスしようとしたのっ?!」



 ベッドの上で上体を起こし、壁際にうずくまる青年を鋭い眼光で睨み付ける彼女。


 一方、吹き飛ばされた直後、大理石の壁でしこたま後頭部をぶつけた青年。


 彼の方は、顔面と後頭部を押えたまま悶絶もんぜつの真っ最中だ。



「って言うか、慶太くん? そこに居るのは本当に慶太くんなの?」



「いたたたた……。あっ、あぁ、そうだよ。高橋慶太、二十一歳。間違いなく本物さ。にしてもひどいよぉ美紗たん。いきなり顔面殴るんだものぉ。そりゃあ、時の事は本当に申し訳無い事をしちゃったけど、いきなりグーはダメだよ。グーは」



 青年は赤く膨れ上がった左頬に加え、結構大きめの『たんこぶ』が出来た後頭部を擦りながら、再びベッドの方へと近づいて来る。



「美紗たん。時は本当にゴメンね。俺、結構酔っ払ってたからあんまり覚えて無いんだけど、すごくイヤな想いをさせちゃったんだよね」



 申し訳無さそうにベッドの前で頭を下げる青年に対し、美紗は悲し気な視線を向けた。



「あっ、あぁ、良いんだ。俺、許してもらおうとかじゃなくってさ、とにかくちゃんと謝っておきたかっただけなんだ。うん。だって俺、あんな事したんだもんね。美紗たんが俺の事、嫌いになっても仕方が無いと思うよ。うん、うん。そうだよな。仕方が無いよなぁ……」



 青年は顔を伏せたまま、更に項垂うなだれてみせる。



「……ううん、そうじゃ無いの」



 ただ、そんな彼に対し、彼女はそっと片方の手を差し出して来た。



「私の方が悪かったの。あの時は……えぇっとぉ、さっきのグーパンチも含めて、本当にごめんなさい。ちょっと気が動転してて、って言うか、あの時もびっくりしちゃって、ついつい手が出ちゃったの。私、ダイエットの為にボクササイズとかしてるから、ちょっと条件反射的な感じ……かなぁ……」



 うーん、絶対にそんな事は無いと思う。全国二万八千人のボクササイズ愛好家の皆さんを敵にまわす事になるぞ。



「だから、全然怒って無いわよ。本当よ。本当なの。だから……だから私は、今でも慶太くんの……かっ、かっ、彼女……って事で……いいでしょ?」



「みっ……美紗たん……」



 恥かし気にうつむきながらも、更に彼の方へと手を伸ばす彼女。


 美紗からの予想外の言葉に接し、慶太は胸の高鳴りが抑えられない。


 差し伸べられた彼女の小さな手。


 それを慶太がそっと掴もうとしたその時だった。



 ――シャキン……



 首筋に触れる冷たい感覚。



「えっ……?」



『あぁ、ミサ様。お気付きになられましたか?』



 足元から聞こえて来たのは、またの声。


 彼女は声のした方へと、驚きの視線を向けた。


 そこに居たのは、長い髪に褐色の肌。小柄で華奢なその容姿は、どこからどう見ても美少女そのもの。


 その声とのアンバランスさに多少混乱しつつも、安堵の表情を見せる彼女。



『あぁ、ブルーノ、そこに居たの』



 更に、冷静になって自身の周りを見回してみる。


 すると、自身に覆いかぶさる様にしながら、抱き付いている大柄の女性が一人。


 しかも彼女の右手に握られた大型のダガーは、すぐ傍にいる慶太の首筋にしっかりと添えられていた。



『%#$’%$##$(’』



『あぁ、ベルタ。心配してくれたのね。私の事なら、もう大丈夫よ』



 どうりで下半身が動かない訳だ。


 ベルタは彼女に抱き付きながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を彼女のに押し付けていたのである。



「誰がじゃコラ、ほっとけ! お前っ、二回目やぞっ!」



 あぁ、やっぱり聞こえてた? ごめんごめん。



『美紗様、どうかされましたか?』



 突然壁に向かって悪態を付く美紗。


 そんな彼女を見て、ブルーノは何やらいぶかし気な様子だ。



『うぅん、何でも無いの。独り言よっ……って言うか、ブルーノにベルタ。本当に居たのね。てっきり夢の中での出来事かと……』



 確かに彼女が横たわるのは精緻な意匠が施された天蓋付きのベッドであり、広々としたその部屋は全てが大理石で構成され、とても現代日本に存在する建物では無い事を十分に物語っている。



『そんな事より砦のみんなは? みんなは大丈夫なの?』



 自分の事より砦の人達の事を心配する美紗。


 そんな彼女に、ブルーノは思わず苦笑いを浮かべてしまう。



『はははっ。ミサ様、ご安心下さいませ。ミサ様が突然気を失われた後、アエティオス様がお戻りになられまして、すっかり敵は退散致しました。砦のみんなも無事でございますよ』



『そうだったのぉ。何しろみんなが無事で良かったわ。それにしても、ここは何処なの? 砦の中にしては豪華なお部屋だけど……』



『はい、ここはエレトリアにある太陽神殿でございますよ』



『太陽神殿? って事は、まで戻って来ちゃったって事?』



『はい、ここがかどうかは分かりかねますが、ミサ様がお休みの間に太陽神殿の使者が参られまして、ミサ様をこちらへと運んで下さったのです』



『へぇぇ、そうだったんだぁ。私が寝ている間に、色々な事があったんだねぇ……』



 自らの小さな顎に手を添え、感慨深げに何度もうなずく彼女。



「みっ、美紗たん……」



「ん? どうしたの? 慶太くん」



「あのぉ、この娘……何とか……ならない……かなぁ」



 見れば、彼の首筋には依然、ベルタの鋭いダガーがあてられたままの状態だ。



『あぁ、ベルタ? この人は敵では無いわ。慶太くんって言うの。私のボーイフレ……。えぇっとぉ、ラララ、ラバー恋人なのっ! キャー!』



 ベルタに抱き付かれたまま、両手で顔を隠し、うれしそうに身もだえ始める彼女。


 美紗からそう言われては仕方が無い。


 ベルタは未だ不満げな表情を浮かべたまま、自慢のダガーを腰のホルスターに勢いよくしまい込むと、今度は両手で美紗に抱き付き始めてしまった。



「ふぅ、ビックリしたなぁ、もぉ。でね、美紗たん。話を元に戻すけど、美紗たんが行方不明……あぁ、実際は先週、真琴ちゃんからお母さんに電話してもらって、一緒に旅行に行ってる事になってるから今は大丈夫なんだけど、やっぱり心配されてると思うから、早く家に帰った方が良いと思うんだ」


「それから、病気については特有のやまいらしくって、普通は子供の頃にかかるものらしいんだけど、美紗たんはに来るのが初めてだから、抵抗力が無かっただけみたいだね。もう大丈夫って、お医者さんも言ってたから安心して」



 慶太はベルタから距離を取りつつ、ベッドの反対側へと移動。


 ただその間も、美紗の胸元に顔を埋めるベルタの片目は、慶太の事を睨み付けたまま逃そうとしない。


 どうやら慶太は、彼女ベルタの中の不審者ブラックリストに記録されてしまった様だ。



「慶太くんは? 慶太くんも一緒に帰るの?」



「ううぅん……実はね。ばーちゃんの働きかけで、俺、今週からこっちの神官学校に短期留学する事になったんだよ。それで、今こっちに住んでるんだ」



「えぇ? そうなの? 大学は? 大学はどうするの?」



「うん。どうやら提携校扱いになるらしいから、大学に在籍したままになるみたいだね」



 その話を聞いて、美紗の表情が一瞬にして曇る。



「それじゃあ……もう会えなくなるの?」



 うれいを帯びた彼女の一言。


 そんな美紗の仕草に、慶太は急に焦りを感じてしまう。



「いやいやいや、そうじゃなくって……えぇぇっとぉ、説明が凄く難しいんだけどぉ……結構頻繁に会える……かな?」



「え? どう言う事、ここって、外国なんでしょ? だとしたら、なかなか会えないんじゃ無いの? なんだかアジアな雰囲気じゃないし、どちらかと言うとヨーロッパな感じよね」



「ええぇぇっとぉ……」



 どう説明したら分ってもらえるのだろう。


 しばし思案に暮れるも、良い案が浮かばない。



「うん、美紗たん。驚かないで聞いてね。どう言う構造なのか俺も分かって無いんだけど、この世界は、家の……あぁ、家って言っても田舎の実家の方ね。そこに繋がっちゃった世界なんだ。でね? 来ようと思えば、いつでも来られるんだよ」


「東京から田舎までは新幹線で大体二時間。駅から実家までは電車で二十分。最寄りの駅からちょっと歩くけど、三時間もあれば来られるんだ。って言うか、俺もちょくちょく東京の方へ行くから、全然大丈夫。安心して」



 流石にこの話を信じてくれと言うのは無理があるだろう。


 慶太本人も出たとこ勝負で話てはみたけれど、受け入れてもらえるとは思っていない。


 とりあえず、折角仲直りした二人である。


 こんな事で、彼女を失う事なんて出来ようはずもない。


 何しろ二十一年間で、初めて出来た大切な、大切な彼女なのだから。


 まぁ、それだけ大切な彼女なんだったら、どうしてあの時尻を揉んだのか? と言うツッコミも入れたくはなるのだが、そこは『こじらせ童貞』と言う事で許容するしかあるまい。



「あぁ、そう言う事。それなら理解したわ」



「え? 理解したの? って言うか、しちゃったの? と言うより、出来ちゃったの?」



「えぇ、そうね。だって、実際この目で色々見て来たし、……ほら、この娘達も決して夢幻ゆめまぼろしでは無いでしょう。実際に見た物こそが現実よ。受け入れるしか無いわよね」



 美紗は意外とリアリスト。



「って事で、私もこっちに住む事にするわ」



「え? マジ? いや、でもそれじゃあ、ご両親が……」



「えぇ。一度帰って、ちゃんと説明して来るから大丈夫。それに私、単位も取得済だし、もう卒論も終わってるし」



「でも、二人っきりで同棲って訳にも……」



「そうね。流石に同棲するには早いわよね。パパもママも納得しないと思うわ。って事で、卒業旅行の行き先をココに決めたわ。もともと真琴とヨーロッパかどこかに行く予定だったけど、ここなら大きな違いは無いでしょうし」



 いやいや、全然違うと思うぞ。



「って事で、慶太くん。多分正義も一緒に付いて来ると思うから、泊まる場所を確保しておいてよね」



「えぇぇ、泊まる場所って言っても……」



「何ゴニョゴニョ言ってるのよぉ。アナタこの世界の神様なんでしょ? そのぐらいの事は簡単なはずよねっ。返事はっ!?」



「はっ、はいっ!」



 いったどこまで美紗は理解しているのだろうか。


 半ば頭を抱え途方に暮れる慶太を後目に、ベッドの上で不敵な笑みを浮かべる美紗の思惑とは一体。

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