第269話 PASSWORD(パスワード)

開門かいもーん開門かいもーん!』



 次第に近づいて来る騎馬の集団。


 彼らは振り返るたびに、迫りくる敵騎兵に恐れおののき、自身の馬へと更なる鞭を入れ始める。


 逃げる、逃げるっ! 一目散に逃げるっ!


 馬か? それとも、それを扱う騎手の差なのだろうか?


 それでもなお、僚軍と敵騎兵との間は、確実に詰められている状況だ。


 とにかく僚軍を助けねば。


 彼らをかくまうべく、砦の兵士達が正門のかんぬきに手を掛けた、ちょうどその時。



『ちょっと待って! 待ちなさいっ! 門を開けてはダメよ。ゴメス隊長っ、ゴメス隊長は居るの?』



 その行動を制止する、毅然きぜんとした声が。



『おおっ! ミサ様っ、私はここにっ!』



 ゴメスは塀の上から大きく身を乗り出し、手を振って自分の存在を知らせて来た。



『あぁ、ゴメス隊長、お願いよっ、私の言う事を聞いてっ! 門を開けないで。それから、弓の使える人がいたら、できるだけ塀の上に集めて欲しいの。えぇっと、後は……梯子はしご梯子はしごを用意して頂戴っ。あぁ、縄梯子なわばしごで良いわっ!』



『はっ、承知致しましたイエス マム!



『開門中止、開門中止ちゅーし! 籠城戦用意よーいっ! 第一から第三番隊、即時、弓を装備して正門上のやぐらに集合っ! それ以外は、各自持ち場に付けっ! 行けゴー行けゴー行けゴーっ!』



『『籠城戦用意よーいっ!』』 『『籠城戦用意よーいっ!』』


行けゴー行けゴー行けゴーっ!』



 砦中から命令を復唱する声が聞こえて来る。


 流石、骨の髄まで兵士職業軍人のゴメスである。一度信頼したの判断には、何一つ疑問も疑念も挟まない。


 いさぎよく前言を撤回し、瞬く間に籠城戦の準備を整えてしまう。


 まさに常日頃つねひごろよりつちかわれた訓練の成果、と言えるだろう。


 戦いの準備が整う頃には、当の美紗本人も、ゴメスの居る塀の上へと昇って来た。


 しかし、一体誰が手渡したのだろう。


 彼女の可憐な左手には、大ぶりの弓がたずさえられ、腰には矢筒までぶら下げられているでは無いか。


 百戦錬磨のゴメスでも、流石にこれには驚かずにいられない。



『ミサ様、その装備は一体?』



 その『問い』に対して、美紗自身は何も答えず、愛らしい笑顔を見せるのみ。



『ゴメス隊長、横から割り込んでしまって、ごめんなさいね。でも、緊急を要していたのよ』



 一言、そう謝罪した後、彼女は塀の端へと手を付きながら、迫りくる馬群を見つめ始めた。


 ゴメスの方もそれ以上は追求せず、共に馬群の方へと視線を戻す。



『ミサ様、僚軍は如何致しましょう?』



 眼前で僚軍騎が追われているのである。


 軍人であるゴメスとしては、作戦遂行上問題が無い限り、できるだけ僚軍を助けたいとの想いがあるのは間違いない。


 もちろん、繰り返すが、作戦遂行上、である。


 当然、上官の判断は、作戦遂行の一つと位置付けられるのだ。



『大丈夫、助けるわ。安心して。彼らが本当に……』



 その含みを持った言い回しに、一瞬だけではあるが、体を軽く震わせるゴメス隊長。


 この小柄な女性は、一体何を考え、何を知っていると言うのか?


 彼は、そんな彼女に対する『信頼』が、『畏れ』に変わり始めているのを感じずにはいられなかった。



 ◆◇◆◇◆◇



開門かいもーん開門かいもんしてくれぇ!』



 砦近くまで駆け込んでは来たものの、依然固く閉じられたままの正門。


 僚軍と兵士達は、城壁の遥か手前で馬を急停止させると、更に大声で正門を開ける様にと叫んでいる。



『お前達っ! まずは所属を言えっ! さもなくば開門はまかりならんっ!』



 塀の上からゴメスが大声で呼び掛ける。



『なっ、何を言う。俺達は帝国軍だっ、この伯爵旗が見えないのか? チッ! リヴィディア伯爵配下、第二大隊辺境警備担当のビロンだっ。 急いでくれっ、追われているんだ! 早くしないとヤツらに追いつかれてしまうっ!』



 確かに彼らの後方には、もうもうと立ち上る土煙が迫る。


 事態は緊急を要しているのだ。


 助けを求める兵士達の表情にも、あせりの色が垣間見える。


 だが、ゴメスの返答は、そんな事お構い無し。



『それでは、合言葉を聞こう!』



『何? 合言葉だと?』



 一瞬、何を言っているのか分からずに、互いに顔を見合わせる兵士達。



『そうだ、合言葉だ。帝国軍の兵士であれば知っているはずだ。合言葉を言えっ。さぁ、合言葉Say theを言えっpassword!!』



 ビロンと名乗る男は、一瞬、逡巡する様子を見せたものの、一転、おもねる様な作り笑いを浮かべ始めたのだ。



『あぁ、いや、俺は帝国軍に入ってまだ間もないんだ。確かに先輩には、合言葉を聞いていたはずなんだが、ちょっと今は気が動転してしまって思い出せない。スマン、一旦砦の中へ入れてもらえないか? そうすれば、きっと思い出すからっ!』



『そうか、のであれば仕方が無い。砦の中に入れてやるから早くコチラに来いっ!』



『悪いなっ、恩に着るぜ!』



 兵士達は安堵の表情を浮かべると、急ぎ砦の方へと馬首を向け始めた。


 しかし、どうした事か、一向に正門が開く気配が見受けられない。


 やがて、痺れを切らしたビロンは、再び声を荒げ始める。



『おいっ! 何をしているんだ。早く正門を開けてくれいっ!』



『あぁ、入れてやるとは言ったが、正門を開けるとは言っていない。ほれ、塀の近くまでくれば、縄梯子を降ろしてやる。それを伝って、上がって来い!』



 ゴメスはわずかながらに口角を上げ、さも当然とばかりの表情だ。



『なっ、何だと!? それでは、この馬は? 馬はどうする?』



『あぁ、気にするな。馬も慣れているだろう、そう遠くへは行くまい。敵兵が帰参した頃に回収すれば良かろう』



『あぁ、いや、そのままでは貴重な馬を奪われてしまうかもしれん。流石にそれは避けたいっ!』



 なおも食い下がるビロン。



『そんなに心配であれば、塀の脇にある馬留へ結んでおけば良い。それに安心しろ。砦の上からは大勢の弓兵が狙っている。追手のヤツらもバカではあるまい。そう易々と砦には近付く事は無いだろう。お前達は安心してゆっくり登ってくれば良いのだ』



 ゴメスの言う事はもっともである。


 追手側が、例えば一個大隊を超える歩兵軍、と言う事であるならいざ知らず、せいぜい二十騎程度の騎馬部隊である。


 そんな人数で砦に近づけば、雨あられと降り注ぐ弓矢により、ハチの巣にされるのがオチだ。


 そう考えれば、追手のヤツらは決して弓矢の届く位置まで近付くはずが無いのである。



『うっ、うぅぅむ』



 何も言い返す事が出来ず、急に黙り込んでしまうビロン。


 そんな彼に、ゴメスは更なる追い打ちを掛ける。



『何をしておる。早くせんか。と言うより、どうしてお前達は、砦の弓が届かぬ様な場所から話し掛けて来るのだ? これではお前の声が良く聞こえん。もっと塀の近くまで来れば良いでは無いか』



 その言葉を聞いたビロン。


 先程までの媚びへつらう様な笑顔はどこへやら、いきなり険しい表情へ逆戻りしたかと思うと、急に馬首を返し始めたのだ。



『砦には援軍が居ると聞いて逃げ込んで来てみればこの扱い。承服致しかねるっ! この件はリヴィディア伯へ事細かに報告するから覚悟しろっ。後で後悔しても遅いからなっ! ハアッ!』



 結局、彼らは砦に近付こうともせず、そのまま南東の方角へと走り去ってしまったのである。


 しかも、その様子を見ていたのだろうか。追手の一団も、今来た街道を引き返し始めている様だ。



『うぅぅむ。策略であったか……』



 遠く走り去る騎馬隊を眺めつつ、独り言ちるゴメス隊長。


 やがて、敵騎馬群が地平線の彼方に隠れてしまう頃、彼は隣にいる美紗の方へと振り返った。



『あいや、流石はミサ様。まさか敵の策略を既に看破されているとは。小官感服かんぷくつかまつりましてございます』



 そう言いながら、今にもこの場で再び『臣下の礼』を取ろうとするゴメス隊長。



『うぅん、そんな事無いのよ。ちょっと気になる話を聞いたものだから……って、ゴメス隊長っ! 止めて、止めてっ! ほらほら、皆が見てるでしょ!』



 彼女は、そんな彼を引き留めるのに躍起やっきだ。


 流石にこれだけの人が見ている前で、そんな仰々しい事をされては、たまったものでは無い。



『別に大した事では無いの。種明かしをすれば、さっき会った町長さんから聞いてたのよ。リヴィディア伯の兵士達は、もう三日も前に逃げちゃってたって。だから、この近くに居るのは、全てベルガモンの兵士達だろうって』



『おぉ、そう言う事で御座いましたか』



 話を聞けばなるほど、それならば合点が行く。


 それに、今になって思えば……であるが、リヴィディア伯の兵士達は帝国軍であり、基本重装歩兵が中心となっているはず。にもかかわらず、八騎とは言え、元々少ない騎馬部隊が、今頃こんな所に居る訳が無い。



『ほほぉ、そうで御座いましたか。それで、その町長はどこに? 一言感謝を申し上げたい所でございますな』



『えぇ、そうね。聞くところによると、買い付けた糧食は結構な量があったとかで、残りの半分を街の人達にお願いして運んでくれる事になったらしいわ。町長もその為に一度街に戻って……あぁ、ほら。あそこに見えるのがそうよ』



 確かに。近隣の街へと続く細い農道を、大きな荷物を一杯に積んだ荷車が、数十人の村人とともに近づいて来るのがみえる。


 しかも、その先頭を歩いているのは、先程美紗と話をした町長の様だ。


 すこし恰幅が良く、品の良いエンジ色のチュニックを着ていたから、間違いないだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る