第268話 僚軍接近

「美紗……美紗……」



 白いもやの向こうから、彼女を呼ぶ声が聞こえる。


 まだ少年の面影を残す、優しくも懐かしいその声。


 

「誰……誰なの? 慶太くん? 慶太くんなのね」



 彼女は声のする方へと、その小さな手を伸ばそうとする。


 しかし彼女の手は、本人の意に反して、少しも動こうとしない。



「慶太くん、動けない、わたし動けないのっ、慶太くん、慶太くんっ!」



 涙ながらにそう訴えかける彼女。


 先程までは淡く揺蕩たゆたうだけだったもやは、次第にその色を赤黒あかぐろく変色させ、次第に彼女へと近づきながら、その全てをおおいつくそうとし始める。



「あぁ、駄目、飲み込まれるっ! 慶太くん、助けっ、助けて! あぁ、慶太君っ!」



 やがてそのもやは、禍々まがまがしい瘴気しょうきを放ちながら、彼女の足から太ももへ、更には腹から乳房へとまとわわり付いて行く。



「……はぁっ! ダメっ!」



 ついに彼女が、邪悪なるもや蹂躙じゅうりんを覚悟した、その時。




「美紗様っ、大丈夫ですか? 美紗様っ!」



「えっ! 美紗……様っ?」 



 今までに聞いた事の無い呼び掛けに、驚きよりもが先行。


 その『小さな』が、今まで眠っていた彼女の脳を、いきなりフル回転へと加速させる。



「え? 何っ? どう言う事? えっ?」



 その声を切っ掛けに、先程までは固く閉じられ、開く気配すら無かった両目が、突然弾ける様に見開かれた。


 そんな彼女の視界を埋め尽くす、あとどけない少年の顔。


 その距離、およそ十センチ。



「あぁ、美紗様、良かったぁ、ようやくお気付きに……」



 ――ボクッ!



「あべしっ!」



「キィィヤアァァァア!」



 砦内に響き渡る、うら若き乙女の叫び。


 その声にかき消されてしまってはいるが、悲鳴の発せられるわずかかコンマ数秒前。


 彼女の放った渾身のコークスクリューパンチが、少年の顔面へとクリーンヒット。


 少年は、過去に一度も……いや、この後、一生の中で一度も口にしないであろう言葉あべしっ!を発しながら、ベッドから三メートル以上後方へと吹き飛ばされて行った。



「はぁ、はぁ、はぁ……何っ! 誰よアンタ! なんで私にキスしようとしたのっ?!」



 ベッドの上で上体を起こした彼女は、壁際にうずくまる少年を鋭い眼光で睨み付ける。


 一方、吹き飛ばされた直後、レンガの壁でしこたま後頭部をぶつけた少年。


 彼の方は、顔面と後頭部を押えたまま悶絶もんぜつの真っ最中だ。



『あぁ、ミサ様。お気付きになられましたか?』



 足元から聞こえて来たのは、またの声。


 彼女はその声のした方へと、更に鋭い視線を投げつけた。


 しかし、そこに居たのは、長い髪に褐色の肌。小柄で華奢なその容姿は、どこからどう見ても美少女そのもの。


 その声とのアンバランスさに多少混乱しつつも、安堵の表情を見せる彼女。



『あぁ、ブルーノ、そこに居たの』



 性別としては間違いなく男性のはずなのだが、実際の所、性別がどうのと言うよりは、生理的に受け付けるかどうか? が優先されると言う事なのだろう。


 美紗は、そこにたたずむ美少女の姿を見て、なぜだか急に落ち着きを取り戻す事が出来たのだ。


 やがて、冷静になって自身の周りを見回してみる彼女。


 まず、彼女の足元。ベッドの横で彼女を見つめるのは美少女の容姿を持つブルーノ。


 そして、自身に覆いかぶさる様にしながら、抱き付いている大柄の女性が一人。



『%#$’%$##$(’』



『あぁ、ベルタ。心配してくれてたのね。私の事なら、もう大丈夫よ』



 どうりで手足が動かない訳だ。


 ベルタは彼女に抱き付きながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を彼女のに押し付けている。



「誰がじゃコラ、ほっとけ!」



 あぁ、聞こえてた? ごめんごめん。



『美紗様、どうかされましたか?』



 突然壁に向かって悪態を付く美紗。


 そんな彼女を見て、ブルーノは何やらいぶかし気な様子だ。



『うぅん、何でも無いの。独り言よっ……そんな事より砦のみんなは? みんなは大丈夫なの?』



 自分の事より砦の人達の事を心配する美紗。


 そんな彼女に、ブルーノは思わず苦笑いを浮かべてしまう。



『ははっ、ミサ様、ご安心下さい。ミサ様が突然気を失われた後も、砦のみんなは、ミサ様の指示に従って、着々と準備を進めておりますよ』



『ごめんね。私、気を失ってたんだぁ……でも、砦の皆がで良かった。それにしても、今何時? あぁん、そんな事聞いても分からないわよね。えぇっと、あれから、どれぐらいの時間が経ったの?』



『あぁ、はい。ミサ様が倒れられてから、およそそ半日が経ちました。今は……次の日の昼頃でございます。恐らく遠征の疲れが出たのでしょう。昨夜はかなり熱もお有りになったのですが、今は大分落ち着いておられるご様子』



 美紗は早速自分の額に手を当ててみるが、特に熱がある様にも感じられない。


 どちらかと言うと、久しぶりにベッドで寝たおかげもあってか、かなり体も軽くなった感じだ。



『心配させちゃって、ごめんね。もう大丈夫よ。なんだか余計に元気になった感じ』



 そう言いながら、屈託の無い笑顔を見せる彼女。



『それはよろしゅうございました。あぁ、それから先程のお話しの中に、砦の皆がか? とのお話がございましたが……』



『あぁ、それはね……』



 と、言い掛けたその時。



 ――ドカン! 



 突然、入り口のドアが勢いよく開いた。



『ミサ様、お目覚めでございますかっ!』



 入口から姿を見せたのは、残存部隊のリーダであるゴメスだ。


 一件以来、気付けば美紗の事を『ミサ様』と呼び、慕う様になっていたのである。



『いやぁ、良かった。先程、美紗様の声が聞こえて来ましたからな。ようやくお目覚めの事と思いまして、ご挨拶に参りました』



 突然彼は扉の前で、うやうやしくも『臣下の礼』を披露ひろうして見せたのである。


 多分に冗談めかした雰囲気を醸し出してはいるものの、それは彼の照れ隠しなのだろう。


 れっきとした帝国兵士。しかも百人隊長の肩書を持つ男である。


 そんな彼が、かりそめにも、そう易々と『臣下の礼』をするはずが無い。


 その光景を目撃した者全員が緊張する中、ゴメスは満足そうな笑顔を浮かべると、今度は規律正しい敬礼をして見せた。



『ミサ様、ご報告いたしますっ! ご指示頂きました通り、鍛冶場の方では矢尻の生産を開始致しました。ほりへいなど、破損個所の修繕については、ほぼ完了しております。また、つい先程、近隣の街へ糧食の確保に向かわせた者達が戻りました。その際、町長であると言う男が参りまして、是非ご挨拶したいと申し出ている様でございます。ミサ様、如何致しましょう。お会いになりますか?』



『えっ? 私が?』



 自分に対する報告だけでも、かなりドン引きなのに、更にはどこの誰だか分からない、町長に会えと言うのは、無理難題に等しい。


 考えてもみて欲しい。


 活発勝気なJDを演じてはいるものの、その実、彼女の本性は、根暗で人見知りな『ヲタク』なのである。


 見ず知らずの他人に、いきなり素面しらふで会えと言われても、「はいそうですか?」とは絶対にならない。



「いやぁ……でもぉ……やっぱりぃ……」



 何と答えて良いのやら。日本語で話しながらモジモジしている彼女を見て、単に遠慮しているだけであろうと判断したゴメス。



『いや、問題はございません。ミサ様はこの砦の代表者でございますれば。堂々とお会いになればよろしい。それでは、士官室の方で待たせておりますので、ご準備が整い次第、お越し下さいませ。それでは小官はこれにて』



 ゴメスは言いたい事を全て伝え終えると、清々しいぐらいの敬礼を残して、その場を立ち去ってしまった。



「ふぅ……困った事になったわねぇ」


『ねぇ、ブルーノ。私にそんな事が出来るかなぁ?』



 思わず自分の傍に控える美少女に対し、今の不安な気持ちを吐露とろしてしまう彼女。


 華奢きゃしゃ可憐かれんな外見とは裏腹に、いつも理路整然りろせいぜんと物事の本質を突くに、美紗は完全に一目置いていたのである。



『ミサ様であれば大丈夫ですよ。もしお許し頂ければ、私もおそばに参ります。また、通訳にはルーカスさんが居てくれますので、言葉の問題も無いでしょう』



『うん、そうだね。……って、あれ? そう言えば、ルーカスは何処行ったの?』



 昨夜から常に彼女に付き従い、美紗のつたない言葉を、上手く通訳してくれていたルーカス少年。


 そんな彼が見当たらないのである。



『ミサ様、ルーカスさんなら、先程からあちらに……』



 ブルーノの指さす方向。


 そこには、壁際で大の字の状態で気を失っているルーカス少年の姿があった。



『あらぁ。ルーカスったらどうしたの? 何かあったの?』



 どうしたも、こうしたも無い。


 最初にコークスクリューパンチで、壁際まで吹き飛ばしたのは、何を隠そう彼女自身である。


 彼女の『しょう』は伊達では無い。


 ダイエットの為に始めたボクササイズ。


 気付けばアマチュアながらも、ジムの会長から『試合を組んでみないか?』 と声を掛けられるレベルにまで到達。


 そんな彼女の繰り出す右ストレートは、破壊力抜群なのである。


 しかも、不幸はつづく。


 先程、勢いよく入って来たゴメス。


 彼の開けた扉に、しこたま頭部を殴打され、完全に気を失ってしまったのだ。


 まったく悪気の無い美紗のその言葉を聞いて、またもや苦笑い状態のブルーノ少年。


 いや、もう笑うしか無い……と言った所だろうか。



 ◆◇◆◇◆◇



 ――パカラッ、パカラッ、パカラッ!



 小麦畑の中を、全速力で駆ける抜ける騎馬兵の一団。



開門かいもーん開門かいもーん!』



 先頭を走る男が、大音声で叫びながら砦へと近づいて来る。


 騎馬の数は十騎にも満たない。


 ただ、その遥か後方にも大きな土煙が立ち昇っているのが見えた。


 恐らく先行する一団は、何者かに追われているのであろう。


 土煙の具合から見ても、恐らく後方から追撃する騎馬隊は、数十騎はいると思われる。



僚軍りょうぐん視認っ! リヴィディア伯の紋章ぉ! 直衛軍ですっ!』



 哨戒兵の叫びがこだまする。



僚軍りょうぐんは八騎っ! その後方に未確認軍アンノウン視認! その数、およそ二十騎! 繰り返しますっ! 未確認軍アンノウン視認! その数、およそ二十騎! 追われていますっ!』



 正門脇で、塀の修理具合を確認していたゴメスは、慌てて塀の上へと駆けあがって来た。



『方角はっ!』



『はっ、北東方面の街道沿い、砂煙が見えますっ!』



 見張りやぐらの上から、北東の方角を差す哨戒兵。


 初夏の強い日差しに手をかざしながら、その方角を見つめるゴメス。


 確かに数騎の騎馬兵が、に追われている様だ。



『僚軍を助けるっ! 正門を開けよっ! 急げ、急げー!』



 取る物も取り敢えず、正門のかんぬきを外しに掛かる兵士達。


 正門に掛けられたかんぬきは、兵士達十名程が力を合わせて、ようやく持ちあがると言う巨大な物である。



『よぉぉし、行くぞぉ、位置に付けレディ用意セット行けゴー!』



 リーダ兵の掛け声に応じ、一斉にかんぬきを持ち上げる兵士達。



『ちょっと待って!』



 突然、そんな彼らの出端でばなくじく、甲高い女性の声が響いた。

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