第261話 砦に残されたボス

『行け、行け、行けぇ! 走れ、走れぇ!』



 我先にと、城門じょうもんから飛び出して行く兵士たち。


 中には両手に武器や武具を抱えたまま、とにかく遅れを取るまいと、慌てて駆け出して行くものも出る始末。


 見送る方も、そのあまりの混乱ぶりに、驚きを隠せない。


 やがて、最後の荷車が出立すると、とりでには、恐ろしい程の静寂せいじゃくが訪れる事に。



「うわぁ、行っちゃったねぇ……」



 先程までの喧騒けんそうが、まるで嘘の様。



「なんだか、急に寂しくなっちゃったなぁ……」



 暗闇くらやみの中に延々と連なる松明たいまつの灯り。


 丘の上に建てられたその砦からは、まるで、怒り狂った赤い蛇が、闇夜やみよの中を回っている様にすら見える。


 そんな景色を、もの悲しそうな顔で見つめる彼女美紗


 は、これから戦場に赴くのだ。


 平和な日本に暮らしていた彼女にしてみれば、全く信じられない。


 しかも。


 彼女本人が望んだ事では無いにせよ、彼女は兵士達かれらとの間に、人と人との関わりを持ってしまったのである。


 そんな兵士ひとたちが、どこかの誰かをに行く。


 彼女の作った食事を食べ、話し、時には喧嘩し、笑いあった人達。


 最初は言葉も通じず、異国から来た異色の奴隷として、声の一つも掛けてもらえなかった。


 しかし、たった一週間。


 このわずか七日ほどの間に、彼らは彼女を受け入れてくれたのだ。


 いや、彼女にしてみれば、それは永遠とも思われる、悪夢の一週間であったのかもしれない。


 気付けばへと強制的に連れて来られた彼女。


 この事件を発端に、彼女の人生観は、驚くべき変化を遂げていた。



「まぁ、悲しんでても仕方が無いわ。“郷に入っては郷に従え”って言うしね。マジもんのを舐めてもらっちゃ困るわよ」



 の地に来てからと言うもの、ただの一度も涙をこぼした事が無かった彼女。


 しかし、不意に聞いた日本語母国語に、なぜだか急に熱い物が込み上げて来るのを押しとどめる事が出来なかった。


 結局、見ず知らずの少年の胸へとすがりつき、脇目も振らず泣き崩れてしまった彼女。


 ただ……。どうしてなのかは分からない。


 涙を流しきったその直後。


 突然正気に戻った彼女の中には、全ての事を受け入れるだけの、が芽生えていたのだ。


 それから彼女の行動は早かった。


 言葉の通じる少年を強引に引き連れ、アエティオスの部屋へ舞い戻ると、少年を自分専用の通訳にしてくれと直訴じきそ


 アエティオスの方も、これで意思疎通が図れると、二つ返事で了承する事に。


 更に、自慢のパンケーキを振る舞いながら、奴隷達の待遇改善についての提案を行ったのだが、これはあえなく失敗。


 と言うか、パンケーキに対するアエティオスの評価が想像以上に高く、待遇改善の話はそっちのけで、専属の調理師になる事が決定してしまったのだ。


 そして、夜半になって突然訪れた、男。


 その男の所為せいで、こんな真夜中での全軍出撃となってしまったのである。



「ねぇ、ルーカス。こうしちゃ居られないわ。早速準備に取り掛からなくっちゃ」



 振り向きざまに、そう話し始める彼女。



「えっ? 今からですか? みんなやっと出撃したばかりで、残された僕たちに出来る事なんて……」



 とりでに残された人数は、およそ百名。


 全員が支援部隊に所属する者達で、食事や身の回りの世話をする奴隷たちに、鍛冶や細工を得意とする技能奴隷が大方を占めており、もちろん、これらの奴隷達を管理監視する名目で、一部の兵士達も居残り組となっていた。


 ちなみに、ルーカスは美沙の通訳兼、守備兵として砦へ残る事に。


 クリスはと言うと、荷車を運搬する人足の一人として、戦場組へ同行している。



「何言ってるのよ。兵士の皆さんは、これから戦争に行くんでしょ? そしたらきっと、怪我をしたり、お腹を空かせて帰って来るはずじゃない。みんなが帰って来た時の為に、今から準備を始めないとね」



 早速、主だった者達に、みずから声を掛け始める彼女。


 気持ちがたかぶると、未だ日本語が先行してしまう彼女であったが、しかし、このわずか数日の間に、日常会話程度であれば、十分こなせるレベルまで上達していたのである。


 ただ、どうしても細かいニュアンスや俗語スラングなど、上手く使いこなせない言葉は、まだまだ多い。


 そうして、何人かの奴隷達が彼女の呼びかけに応じ、彼女の周りに人だかりが出来始めた頃。



『おいおいっ! なに勝手な事を始めようとしてるんだ?』



 そう言いながら割り込んで来たのは、厳つい顔をした壮年の兵士。


 彼の名はゴメス。残存部隊のリーダを任された男だ。


 支援部隊に三人いる百人隊長の一人でもある。


 ゴメスは副官となる二人の兵士を引き連れ、人の輪を蹴散らしながら、彼女の前へと躍り出て来たのだ。



『おい、お前っ。奴隷の分際ぶんざいで、一体何をおっぱじめようって言うんだ? このとりでは俺だぜ」



 ゴメスはそう言うなり、彼女のあごへと手を伸ばした。



「……くっ!」



 ただでさえ小柄な彼女。


 大柄のゴメスに顎をつかみ上げられ、彼女はつま先立ちの状態に。


 彼女の方も、男の太い腕を掴み返し、必死で振りほどこうと暴れてはみたものの、その手は微動だにしない。



『誰が本当のボスなのか? に言い聞かせてやらねぇとなぁ』



 ゴメスは彼女の鼻先にまで自分の顔を近づけると、そのまま彼女の唇を奪おうとしたのだ。



 ――ペッ!



 彼女は咄嗟とっさに、男の顔へとつばを吐きかけた。



『あっ、くそっ! 奴隷の分際ぶんざいで何しやがる、この阿婆擦あばずれがぁ。来いっ! 折檻せっかんしてくれるっ!』



「きゃあっ!」



 今度は彼女の長い髪を鷲掴わしづかみにすると、そのまま引きずる様に、連れ去ろうとし始めた。



『……お待ちください』



 ゴメスの事を恐れ、遠巻きにその光景を見つめる事しか出来ない奴隷たち。


 その傍観の輪の中から進み出て来たのは、ひと際小柄な奴隷ただ一人だけ。


 優し気な顔立ちに、長い髪。


 まるで少女の様な容姿を持つは、その姿形すがたかたちとは裏腹に、意外と男らしい声で話し始めた。

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