第二十一章 復讐の時(ルーカス/ミランダルート)

第207話 望郷の朝市

「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」



 少女は潮香しおかふく夜気やきを胸いっぱいにい込むと、ゆっくり、ゆっくりとき出して行く。


 そのうれいをびた姿は、まるで恋人こいびととのわかれを名残なごしんでいるかの様にも見える。



「えへへへ」



 そんな自身のいに、少し照れ笑いを浮かべる彼女。



 はるか南方大陸でとらわれのとなって以来、はや数ケ月。


 念願ねんがんの自由を手に入れた彼女の心中は、いかばかりか。



「まずは水、それから何か食べるものを……」



 彼女はそうつぶやきながら、あたりを見回みまわしてみる。


 まだ日の出までにはしばらがあるのだろう。洞窟の外は、深い闇におおわれている。


 しかし、彼女にしてみれば、これだけの星明ほしあかりがあれば十分。


 どうやらここは、海岸線かいがんせんに突き出た半島はんとうの様だ。


 彼女の視界に入るのは、漆黒しっこくの中にプルシアン・ブルーのが浮かぶ海と、ゴツゴツとした岩だらけの海岸だけ。


 残念ながら、ここでは水も食料も手に入れるのは難しいだろう。



「でも……あの青い光は何かしら……?」



 自身の知らない魅惑的みわくてきさそわれ、思わずそのなぞを確かめてみたくなる。


 しかし、今はそんな事をしている余裕は無い。もっと視界の開けた場所に行かなければ。


 早速、洞窟横どうくつよこがけを、器用きようにもく登って行く少女。



「はぁ、はぁ、……っはぁ」



 予想外に急な壁面。流石の彼女も息が上がる。


 しかし、なぜだろう。


 彼女の手足は更に速度を上げ、その顔からはみがこぼれていた。



 ようやくがけ頂上ちょうじょう到着とうちゃく


 多少いきを整えつつも、その先端にそびえる大木にそっと手をえながら、辺りを見回してみる。



「ふわぁぁぁ……」



 思わずれる感嘆かんたんの声。


 それもそのはず。


 彼女の登って来た崖の反対側には、弓なりの形をした長大な砂浜が広がり、さらにその奥、内陸側に向かっては幾千、幾万にも及ぶ家屋敷いえやしきが、隙間すきまなくつらなる事で、巨大な街が造り上げられていたのである。


 南方大陸の片田舎かたいなからして来た彼女にとって、初めて見る大都会。


 しばらくはその壮大そうだいな光景に目をうばわれ、息をする事すら忘れてしまう。



「……あの街に行けば、きっと井戸いどがある……わよね」



 そう自分自身に言い聞かせる事で、これからのを正当化。


 決して興味本位では無い。


 そう、自分に必要なのは、水であり、食料なのだ。


 大都会あの場所に行けば、必ずそれが手に入る……はず。



 そう、思い定めた彼女は、早速がけの反対側の斜面しゃめんくだり始める。


 途中で何度もころびそうになりながらも、変装用へんそうよう帽子ぼうしを片手で押さえながら走る。……走る。


 ご自慢のエメラルドグリーンの髪をすり抜ける、少し湿った潮風しおかぜすら心地良い。


 しまいには、帽子をかぶり直しもせず、手に持ったまま、全速力で駆け出して行く。



「うふふふっ、あはははははっ!」



 どうにも笑いが止まらない。


 今、この瞬間。


 彼女の中では、姉の容態ようだいも、自身の空腹すらも忘れ、ただひたすらに自由を謳歌おうかし、全てがみたたされていた。


 やがて、彼女が街の入り口に到着した頃には、空はすっかり白み始め、モノトーンであった街の輪郭りんかくに、あざやかな色彩しきさいが加わり始める。


 赤い瓦屋根かわらやねに、真っ白なかべ


 それらが自然しぜん調和ちょうわされた美しい街並まちなみ。


 そのどれ一つとっても、ふるさとの南方大陸とは全然違う。始めて見る風景。



「……ん? なんだろう?」



 まだ日がのぼってもないにも関わらず、どこからともなく聞こえて来る喧騒けんそう


 その音にみちびかれ、海岸かいがん近くにある、少し大きめの路地ろじのぞいて見る。


 すると……。



「はぁぁぁ……」



 路地ろじ両脇りょうわき所狭ところせましと立ち並ぶ屋台の群れ。


 そのわずかな隙間すきまを行き交う大勢おおぜいの人々。


 どうやら、この路地ろじでは、朝市あさいちが開催されている様だ。


 彼女自身、朝市あさいちを知らない訳では決して無い。


 しかし、ここまで規模の大きな朝市あさいちを見たのは、生まれて初めての事だったのである。


 まるで吸い込まれるかの様に、屋台の群れの中へとその身を投じて行く彼女。


 見るもの、聞くもの。その全てがめずらしい。



「うふっ、うふふふっ」



 思わず笑みがこぼれてしまう。


 と、その時、彼女の足元に少し大ぶりの果物が一つ転がって来た。


 そっと、果物それを手に取る彼女。



「あぁぁ。パイルの実だぁ。ヴァンナさんのおっぱいより、ちょっと小さいかなぁ? うふふっ」



 久しぶりに感じる故郷の香り。


 パイルの実は、南方大陸では比較的ポピュラーで、所によっては年中市場に並ぶ果物なのである。


 そんな故郷こきょうを思い起こさせる果物を手に、少し幸せな気分であたりを見渡すと、すぐ近くの果物屋の店先にうずたかく積まれたパイルの実が目に入る。


 どうやら、その山と積まれた中の一つが、偶然こぼれ落ちたのであろう。


 彼女はパイルの実を、その店先に返そうと、両手を伸ばしたその時。



「おい、っ! ぬすみはダメだっ!」



 ――ビシッ! ゴロゴロッ!



「痛っ!」



 突然、両腕をえられ、手に持つ果物を取り落としてしまう彼女。


 余りの仕打しうちに、驚きの眼差まなざしを向けたその先。


 剣の代わりにでもしているのだろうか。


 粗末そまつな棒きれを構え持つ少年が一人、真剣な表情で彼女の事をにらみつけていた。



「わっ、私はぬすんでなんかっ……!」



 どうにも腹の虫が収まらない彼女。改めて少年に詰め寄ろうとしたその途端。



 ――ビシッ!



「キャンッ!」



 問答無用もんどうむようで彼女を打ち据えて来る少年。



っ! 今すぐ盗みから足を洗えっ! そんな事してると、奴隷に落とされてしまうんだぞっ!」


 

 何か伝えたいおもいでもあるのだろうか。


 尚も彼女を打ちえながら、真剣な眼差まなざしで彼女を説得しようして来るのだ。



「クッ!」



 もう、我慢できない。


 突然、彼女の目が妖しく輝いたかと思うと、その二の腕には、薄っすらとした渦とも炎とも取れる様な、黒い縞模様タトゥーが浮かび上がり始める。



 ただ、彼女の目の端に映る人の群れ。


 いつの間にやら、二人の周りには大勢の人だかりが出来上がっていたのである。


 流石にこんな所で騒ぎを起こすのは得策では無い。



「チッ!」



 舌打ち一発。


 彼女は踵を返して雑踏の中へと逃げ込もうとした。


 しかし……。



 ――ボクッ!



「ギャンッ!」



 彼女の鳩尾みぞおちにめり込むやり石突いしづき


 彼女は完全に呼吸を止められ、その場に倒れ込んでしまう。



「ストラトス。このはイカンなぁ。恐らく獣人の子だ。このまま放っておいては、人に危害きがいを加えるやもしれん。ほれ、そこに見える衛兵を呼んで来い。このまま引き渡してしまおう」



「はい。かしこまりました。お師匠様」



 ストラトスと呼ばれた少年は、急ぎ人混ひとごみの中へと分け入って行く。



「うぅぅぅ……」



 未だ、うめき声を上げながら、うずくまる少女。


 そんな彼女の視線の先には、黒地に金の装飾を施した鎧に身を包み、己が身長の二倍以上はあろうかと言う大槍を抱えた兵士が、物憂ものうげな表情のまま、静かに彼女の事を見下ろしていた。

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