第201話 師匠の教え

 ――チチッ、チチチッ



 いつもは清々すがすがしく感じるはずの小鳥のさえずり。



「あいたたたた……」



 しかし、今日ばかりは尋常じんじょうとは思えぬほど頭に響く。



「くうぅぅっ……」



 『こめかみ』を押えながら、苦悶くもんの表情を浮かべるヴァシリオス。


 頭痛の原因を必死で思い出そうとするのだが、大体、どうやって眠ったのかすら思い出せない。


 そんな時、続き間となっている台所の方に人の気配が。



「おい、ストラトス。そこに居るのであろう? 外の鳥たちがうるさいのじゃっ。お前、ちょっと行って、追い払ってくれっ!」



 完全に八つ当たりである。


 しかし、彼のその指示に対して、予想外の返答が返って来た。



「おはようございます、お師匠様。お目覚めでございましょうや」



 彼の知らない、凛々りりしくも優しげな声。


 いや、知らない訳では無い。


 それは、遥か遠い昔の記憶。


 言葉遣いは大人びたが、人懐ひとなつっこいその声音こわねは、昔も今も変わってはいない。



 窓から差し込む朝日がまぶしい。


 彼はいまだふらつきながらもベッドをい出すと、ダイニングの方へ。



「アル……か……。そんな所で何をしておる?」



 少しずつ思い出されるのは、断片的な記憶。



「はい。朝餉あさげの用意をしておりました。只今ただいまお持ち致しますゆえ、お席の方で少々お待ち下され」



 確かに、かまどの方からは、何やら良い香りがただよってくる。



「……おぉ、すまんのぉ。昨日は確か……アルの持ってきてくれた酒を、しこたま飲んだ所までは覚えておるのじゃが……」



「昨晩は、かなりお過ごし遊ばれましたなぁ。ふふふっ」



 にこやかな笑顔と共に、色とりどりの野菜が煮込まれたスープが彼の前へと供されて来る。


 全く食欲が無く、内心『とても食べられぬ……』と、思っていた彼ではあったが、そのスープから立ち上る芳醇ほうじゅんな香りに誘われ、思わず一口。



「ほはあぁぁぁ……五臓六腑ごぞうろっぷみわたるとはこの事よぉ」



 その味は痛飲により傷んだ胃を、優しく包み込んでくれるかの様だ。



うまいっ! アル、腕を上げたなぁ」



「おめにあずかり、光栄にございます」



 元々小さい頃から料理の得意な娘ではあった。しかしそれは、あくまでも子供としては……と言う話。


 しかし、たった今、口にしたこの料理は、年輪を重ねたヴァシリオスさえも唸らせる、そんな深みを持った味わいとなっていたのである。



 更に一口ひとくち、また一口ひとくちと、スプーンを持つ手が止まらない。


 やがて、じっくりと煮込まれた根菜こんさい頬張ほおばりながら、ふと辺りを見渡すヴァシリオス。



「そう言えば……ストラトスの姿が見えぬ様じゃが?」



 体つきも大きく、少しやんちゃな印象のあるストラトス。


 しかし、性格は至って真面目まじめで、これまで一度も寝坊ねぼうなどした事がない。


 そんな少年の姿が見えないのである。


 彼がふと不思議に思っても、おかしくはない話だ。


 と、そこで彼はある事を思い出した。



『うぅぅむ。そう言えば、昨晩ストラトあヤツスをアルの所へ夜這よばいいに行かせた様な……』



 すると案の定……。



「昨晩はかなりゆえ、まだ起き上がれぬやも、知れませぬなぁ……」



 ――ブーッ!



 余りのに、口に含んだスープを一気に噴き出すヴァシリオス。


 それらは正面に座る彼女アルテミシアの顔面へ。



「お師匠様っ! どうしたのでございますかっ!」



「いっ、いやいや、スマン! お前がな事を言うものだからつい……」



「もーっ! こちらの方がにございますぅ」



 彼女はふところから手ぬぐいを取り出すと、自分の顔や胸元に飛び散ったスープをぬぐい始める。


 いやいや、そんな事より、昨夜の『』事情である。



「アルや。昨夜は……そのぉ。弟弟子ストラトスが無理を言ったのではあるまいな?」



 自分が弟弟子ストラトスを差し向けたくせに、この期に及んで急に心配になったのであろう。



「はぁ。私もの事で、多少面食らいましたが、可愛い弟弟子おとうとでしの頼みゆえ次第しだいにございます」



 少し恥ずかしくも、嬉しそうにそう話す彼女アルテミシア


 まぁ、当人同士が嫌がっていないのであれば、それはそれで若い者同士。問題は無いのかもしれない。



「そうかぁ……かぁ……」



 そう思い直したヴァシリオス。それにしても何だか釈然としない思いを抱えつつ、残りのスープをもう一度口に運び始める。



「私も、幼少の頃は、何度もお師匠様に頂きました故、そのお返しでございますよっ」



 ――ブーッ!



 やっぱり、余りのに、口に含んだスープをもう一度噴き出すヴァシリオス。


 当然、それらは正面に座る彼女アルテミシアの顔面へ。



「お師匠様っ! もーっ! なんなのでございますかあっ! いい加減、怒りますよっ!」


 

「いやいやいや、人聞ひとぎきが悪いっ。人聞ひとぎきが悪いぞ、アルテミシア。ワシがいつその様な事をしたと言うのか? ままま、ましてやなどと……」



 年甲斐としがいも無くあわてふためくヴァシリオス。



「何を慌てておられます。確かにあの頃は私も幼く、体格的にもお師匠様より一本頂く事は至難しなんわざで……」


「こここ、これこれ、アルテミシア! 妙齢みょうれい婦女子ふじょしなど破廉恥はれんちな事を申してはっ……って、あれ?」



 彼女の言葉をさえぎってまで話し始めたものの、何やら違和感が。


 しかも、彼女の方は、何の事やら? と呆気あっけにとられている様子。



「お師匠様。何を申しておられます? 私が教えを乞うていた頃は、『隙あらばいつでも打ちかかって来い。寝込みを襲ってもかまわんぞっ!』と申されておられましたでは御座いませんかぁ。それ以来、夜なよな、何度も打ちかかりましたが、結局も取る事かなわず」


「そう思いますと、私も弟弟子ストラトスより寝込みを襲われる立場になった……と言うのは非常に感慨深かんがいぶかいものがございました」


「そのおかげもありまして、少々過剰な対応になりました事はいなめませぬなぁ……うふふふっ」



 昨夜の攻防について思い出しているのであろうか。思わず笑みがこぼれる彼女アルテミシア


 そして、そんな二人の会話に遅れて加わる者が。



「お師匠様じじょうざば姉弟子様あででじざば、おようございますござびばずおぐましてばじで大変申し訳だいべんぼうじばげございませびばぜん。



「あっちゃ~……」



 思わず頭を抱えるヴァシリオス。


 戸口の脇にかろうじて立つその少年。


 端正な顔立ちは原型を留めぬ程に腫れ上がり、見える限りの腕や足はあざだらけ。


 日頃練習に使用している短槍を模した棍棒に、なんとかすがって立っているにすぎない。



「……アルよ。そう言えば、ワシはお前に、手加減てかげんと言うものを教えた事が無かったなぁ」



 今さらながらに遠い過去を思い起こすヴァシリオス。



「はい。そう言えば、『手加減てかげん』など、習った事は御座ございませぬなぁ」



 さも当然とばかりに、飄々ひょうひょうと答えるアルテミシア。


 結局アルテミシアの知識も、基本的な部分はヴァシリオスの教えがその全てなのであった。







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