第191話 鼻に付く高笑い

「ふぅぅぅ……」


「そう言う事ね……なるほど。もう、俺には考える時間すら無い……って事なんだねぇ……」



 ともしび一つ置かれていない暗い小部屋。


 しかし、頭上にある五つの便器の内、四つからは薄っすらとではあるが外の光が差し込んでいる。


 その為、既にこの小部屋の中で長い時間を過ごしているクリスやルーカスであれば、辺りを視認出来る程度の明るさは十分確保されていると言って良いだろう。


 目の前には外に出る為のドアが。


 そして彼の手の中には、とにかく急いでこの場から逃げ出そうと、勢いよく掴んだドアノブが握られていた。


 しかしクリスはそんなドアノブから、ゆっくりと手を離し始めたのだ。



「そうだよなぁ。据え膳食わぬは何とやら……。おとこ一匹。一度、こうと決めた事を途中で投げ出すなんてことぁ、絶対にやっちゃあいけねぇからなぁ……」



 クリスは両腕を組んで静かに目をつむり、そして何度も何度も頷いてみせる。


 それは彼の中でこれから選択するであろう行動の正当性を証明するのに、決して欠く事のできない重要な……そして、神聖な行為なのだと思われる。

 


「ふぅぅぅ……」



 もう一度深い溜息ためいきをつくクリス。


 本来はかなりの悪臭にさいなまれる事になっても、何ら不思議では無いその小部屋。


 とても大きく息を吸い込んで、溜息ためいきなどつけるものでは無いはずなのである。


 しかし、風の流れなどが上手く計算された造りとなっているのであろう。


 常に便器側からは新鮮な空気が取り込まれ、時折トイレに飾られている花々の芳醇な香りが流れ込んでくると、自分が肥溜めに居る事すら忘れ、いっそ清々しい気持ちになってしまうから不思議だ。


 そして時が経ち、ようやく彼の中で全ての正当性が整理された頃。


 彼は満足げな表情を浮かべながら、ゆっくりと……そう、ゆっくりと振り返り始めたのだ。


 まず最初に目に飛び込んで来たのは正面の壁際。


 そこには、便器側から死角となる位置に『ちゃっかり』身を隠しているルーカスが居た。


 彼は、誤って声を出してしまわない様……との配慮なのだろう。両手を自分の口に当て、しかしその両目は天井に開けられている便器の穴にクギ付けの様である。



「さもあろう、さもあろう……」



 クリスには彼の行動が理解できる。


 それはそうである。天窓の様に開けられた便器から、岩清水が滴り落ちる光景が眼前に広がっているのである。まだまだ半人前のルーカスである。彼には少々刺激が強すぎる光景であり、微動だにせず、その一部始終を凝視したとしても、何ら不思議は無いのである。



「ふんっ! 仕方ないなぁ……」



 クリスはそんな驚きの表情をしているルーカスを、軽く鼻で笑い飛ばす。


 そう、自分はルーカスにとって兄貴分の立場である。そんな自分が弟分に対してガッツいた態度を見せる訳には行かない。


 本来は一ミリ秒でも早く頭上を見たい……そんな浮ついた気持ちを鋼の心プライドで押さえつけるクリス。


 そして、彼は余裕の笑みを浮かべながら、ようやくその顔を天井へと差し向けたのであった。



 ――ゴソゴソッ



 クリスがを持して視線を天井に向けたその時、まるでタイミングを合わせたかの様に、に塞がれ、光の差し込まなかった唯一の便器から、光が差し込み始めたのである。



「はれぇ?」



 思わず頓狂とんきょうな声が出てしまうクリス。



「うふふふっ、ご堪能いただけたかしら? もぅっ! 見られてると思ったら、始めちゃいそうでドキドキしちゃったぁ」



 そう、事も無げに話し掛けて来るステファナ。


 一方、何が起こったのかを全く把握する事が出来ず、茫然自失状態のクリス。



「ふふふっ、あらあら、お子様には刺激が強かったかしらぁ? ふふふっ……あははははっ!」



 ステファナはもう一度便器の穴から覗き込み、真っ白に燃え尽きているクリスを見て、可笑しそうに笑っている。


 そんな天井の便器から美女に笑われ続け、開いた口が塞がらないクリス。


 しかし、徐々にその意識を取り戻すと、今度は目の前の壁にへばりついているルーカスへと視線を向けた。



「おっ、お前は……見た……のか?」



 そう問い掛けられたルーカスは、いまだ驚きの表情のまま、両手で口を覆っている。


 しかし、彼はその『純粋な問い』に応答すべく、ゆっくりと右手を自分の口元から離すと、胸の前でしっかりと、そう、力強く親指を立てたのであった。



「うきー! マジか! マジなのかっ! どうしていつもそうなんだよっ! どうしていつも俺ばっかり貧乏くじ引いちまうんだよぉぉ!」



 急に自我崩壊が始まり、またもや肥溜めの中で地団駄を踏み始めるクリス少年。



「あらあら、そんな所で暴れちゃ汚いわよぉ。それにしても……もう一人誰かいるのかしら?」



 ステファナはそう言いながら、更に便器の中を覗き込もうとした時だった。



「あのぉ、ステファナ様……ご指示頂きました通り、お連れしました」



 ステファナの背後から、先程伝言を頼んだ侍女が復命して来たのだ。



「あらっ? あらあら、早かったわねぇ。どうやら間に合った様ねぇ」



 変な所を侍女に見られたステファナ。少し恥ずかしそうにしながら便器からその顔を上げる。


 と、その時。



 ――バタンッ!



 急に力強くドアを開く音が響き、小部屋が外界の明るい光に満たされたのだ。



「おいおいぃぃ。こんな所に隠れておいたしちゃだめだろうぅ?」



 開かれたドアから差し込む強い光。


 その逆光の為に、門前に立つ人物が誰なのかは判別出来ない。


 しかし、肩口から覗く銀色に輝く甲冑。その一点だけ取っても、彼がマロネイア家の兵士である事は間違いの無い事実である。



「クソッ!」


 

 真昼間。しかも逃げ場の無いこの小部屋。


 クリスとルーカスの二人は、徐々に外光に慣れ、回復する視力でお互いの事を確認すると、ここでの抵抗は無意味である事を目配せで合意する。


 結局の所、ステファナは兵士を呼びに行くまでの間、時間稼ぎをしたかっただけの様だ。



「チッ、これだから美人は信用出来ねぇんだよっ!」

 


 吐き捨てる様に独り言ちるクリス少年。


 しかし、その言葉を耳聡く聞いていたステファナはご満悦の様だ。



「あらぁ? お褒め頂き光栄ねぇ。でも、見逃すなんて、私言って無いわよぉ。うふふふふ。それじゃあバウル。後はよろしくねっ。あはは、あははははっ……」



 天窓の様に見える便器の穴。


 そこからは、尚もステファナの高笑いが聞こえて来るのであった。

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