第157.テルマリウムの女神

「はうっ!」



 揺蕩うオイルランプの光……。


 そんな淡いあかりに導かれるように、一人の少女が静かにテルマリウムへと姿を現した。


 しかし、まだ二人の距離は遠く、室内に広がる湯気の所為もあって、その姿を完全に視認するには至らない。


 ただ、彼女のゴールドに輝く髪に反射したあかりが、後光の様に煌めきの波紋を広げて行くその様子は、さながら地上に降臨した美の女神……と言う風にしか表現する術を俺は知らない。


 そんな俺は、ただひたすらに彼女が近くへ寄って来てくれるのを待ったんだ。


 しかし、その『時』は一向に訪れない。



 一秒、十秒……十分、一時間……。



 その体感時間は永遠にも感じられる程の濃密さをもって俺の心を握りつぶそうとする。



 だけど平気さ……。



 俺の目の前……その姿ははっきりとは見えなくとも、すでにその甘く澄み切った透明感のある彼女の声が耳に残ってる。 聞き間違える事などあり得ない。


 そう、それは紛れもない、彼女リーティアの声……。



 そして、どこからともなく聞こえてくる、甘く切ないシャンソンの調べ。


 俺はその伴奏に合わせ、踊る様に、彼女に向けて手を伸ばしたんだ。



「Je t’aime à mourir.《ジュテーム ア ムリール》」

(翻訳:死ぬほど君を愛してる)



「……」



「……はいっ? 皇子様、何とおっしゃられました?」



 突然フランス語で愛を囁き始めた俺に面食らったのか? リーティアは不思議そうな顔で聞き返して来る。



「……へえっ?」



 そんなリーティアの素直な返事を聞いて、急に現実に引き戻される俺。


 どうやら、どこからともなく聞こえてきたシャンソンの音色は、俺の脳内だけにしか流れていなかったみたいだ。って言うか、何の伴奏も無いのに、いきなりのフランス語による愛の告白では、何が何やら面食らっても致し方無かろう。



 うきーっ! こっずかしいぃ! 何やってるんだ俺っ!



「いっ、いやぁ、何でも無いよリーティア。たははは」



 何とかこの場を誤魔化そうと、一旦差し出した手をそのままクロールの要領で回転させ、いかにも広い浴槽で泳いでいました感をアピール。



「うふふっ。変な皇子様ですねっ」



 俺の『誤魔化し笑い』を何となく察知したんだろうな。結局、曖昧な笑顔で話題をスルーしてくれる優しいリーティア。



 うんうん。そういう『細かい部分』は下手に拾っちゃ駄目だよね。ホントわかってるねぇこの娘。こう言う気の利く所がリーティアの良い所だと思うよ。うんうん。きっとこう言う気遣いが、結婚生活を長く続けて行くコツなんだろうなぁと思うよ。さぁ、リーティア。二人で可愛いおじいちゃんとおばあちゃんになるまで、一緒に暮らそうねっ。


 って考えた所で、一つの疑問が……。


 あれ? エルフって長寿命って聞くけど、一緒におじいちゃん、おばあちゃんになるんじゃ無くって、俺だけおじいちゃんになっちゃうの? こっこれはヤバい。この件については、後でリーティアとゆっくり話し合っておかねばなるまいて。何しろ俺が死んだあと、彼女は未亡人としての長い人生が待っている事になる。えぇぇ。そんなの可哀そうだよぉ。かと言って、俺が死んだ後に他の男と結婚すると言うのも……いや、ダメだ。現時点でそれを受け入れる度量は俺には無い。まったく無い。何しろまだ若くてピチピチのリーティアが他の男と結婚するなんて考えたくも無い……のにぃ! あぁぁ。そんな事言うから、思わず想像しちゃったじゃ無いかぁ! しかもフルカラー、増大60ページの超大作になってたぞぉ! しかも相手の男は超美男子のエルフと来たもんだっ! はうはうはう! そっそれだけは許せん。神が許しても俺は許さんっ! もう、俺にこんな想像を強いるとは、全部お前たちが悪いっ!


 はぁぁ。これだから、女性に優しくされた事すら無い『万年童貞』諸氏は御し難いっ!


 と、全然関係の無い妄想の世界に迷い込み、戻るタイミングを完全に逸している俺。


 リーティアはそんな俺の状況を知ってか知らずか? 浴槽に一番近い大理石の柱の陰に隠れる様にして、ちょっぴり恥ずかしそうに俺の方を覗き込んでいる。



「お待たせしましたか?」



 そう尋ねて来るリーティア。


 はうはうはうっ! はいっ、キターーーーー!


 やっちまいましたよ。来ちまいましたよ。これ、恋人のお約束ですよねっ。えぇ、これですよ。これ。はい、これで俺とリーティアは完全に恋人同士確定です。前回現役女子に、リーティアの発した「失礼します」は単なる儀礼でしか無いのでは? とのご指摘をいただいちゃったり、次の言葉が重要ですよねっ! とか言われちゃったりしたんだけど、これで問題無いでしょ! だってね。ちょっと言い回しは丁寧になっているけど、そこはそれ。だって、俺はご主人様で、彼女は奴隷なのだもの。いきなりタメ語って訳には行きませんよ。えぇ、そうですとも。それでさぁ、恋人同士が待ち合わせに遅れて来た時って必ず聞くじゃん! これって、そう言う事でしょ?


 はあっ! って事は、これにちゃんと返事しないと、『恋人たちの』が完成しないっ! まずいっ! 急いで返答しなくてはっ!


 そう考えた俺、は満を持してこう答えたんだ。



「ううん……今来たとこっ!」



「……?」



 キョトンとした表情をするリーティア。



 はうっ! 何だっ! 何か違うぞっ! 何が間違ったんだ? えぇっ! だって、「待った?」と聞かれたら、恋人同士は「今来たとこっ!」って答えるものだって、ネットに書いてあったぞっ! なんだ? どう言う事なんだ?



 童貞の持つ『恋愛知識』と言うのは、基本的にネット上などで一般論として体系化された物が多い。それもそのはずである。自身にその経験が無いのであるから、外部情報を使って自身の知識的『空白』を埋めるしか方法が無いのである。



 はあっ! そう言う事かっ! 確かにオカシイ。「今来た所」と言っても、俺はこの場を一歩も動いてはいない。多少広い浴槽の中をバタ足で泳ぎ回ってはいたけれど、それは移動とはとても言えない範疇でしか無いのは間違い無い。いったい俺はから来たのか? そしてへ行くのか? 人類の本当の目的は? DNAに刻まれた本当の謎とは? って話だ。……はうっ! それも何か違う様な気がする。って言うか、そんな事どうでも良いっ! これは、これは何とかせねばなるまいっ! はわわわわっ! でも何って言えば良いの! 俺、何て言えば良いのぉ!


 と、かなりの水準レベルでテンパっている俺を見たリーティアは、すかさず、柱の陰からひと言……。



「はいっ! 私も今来た所です……」



「……はうっ?」



「ああっ?! スミマセン! 私ったら一体何をっ!」



 結局二人とも初めての異性との入浴にテンパってしまい、何を言っているのか良く分からない状態に。



 ――プッシュー!!



 お互いにビームが出るのではと疑われるほどに顔を赤く染め、結局そのままうつむいてしまう二人。


 なにはともあれ、今世紀最大の「バカップル」に幸あれ。

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