第102話 「先の先」からの、「対の先」

「アゲロス様……」



 月明かりが差し込む妾専用館の中庭。妾専用とは言え、アゲロス本人が滞在する事を想定したその造りは、調度品一つ取っても高度な技術と手間をかけた、この世界を代表する様な逸品が取り揃えられている。


 アゲロスは今、それらの芸術品を愛でている訳ではもちろん無い。


 その景色には全く不釣り合いの……いや、芸術品と言う意味においては、その他の調度品とも勝るとも劣らない、煌びやかな装飾が施された黄金の甲冑を、今まさに身に着けようとしていた所なのだ。



「ん? サロスか?」



 振り返る事無く、返事を返すアゲロス。


 彼の瞳は、未だ庭園中央に屹立している魔獣を見つめたままだ。



「はい。ご無事でなによりでございます」



 サロスはアゲロスの前に跪くと、恭しく一礼をする。



「うむ。お前が居らぬ間に、色々な事があった……状況は?」



「はい。芳しくはございませんが、ご安心下さい。いかようにも……」



「よしっ!」



 アゲロスが発したその声は、サロスの返答に対するものか、それとも自分自身へ気合を入れる為のものであったのか……。


 そして、ようやく甲冑の装着が完了したのであろう。執事が残りの備品等を抱えて後退る様に退出して行くと、アゲロスは改めて、サロスの方へと視線を向けた。



「それではサロス、改めて問う。お前は魔獣アイツを取り押さえる事が出来るか?」



「はっ、この身命に掛けまして、捕らえて御覧に入れます」



 即答するサロス。


 よほどその答えが嬉しかったのであろう。アゲロスは相好を崩すと、大きく頷き返す。



「そうかっ。良くぞ申したっ! それでは、ワシはこの場でその一部始終を観閲するとしよう」



 アゲロスは佩刀していた剣をゆっくり抜き放つと、己が正面にその剣を打ち立て、両手を剣の柄へと置いて、不動の体勢を取った。



「ははっ! ただ……アゲロス様。ここでは些か危のうございます。できればお屋敷の中での観閲とは参りませぬでしょうか?」



 勢い良く返事を返したものの、やはり、出来る限りの不確定要素を排除しておきたいサロス。恐る恐るではあるが、アゲロスに対して、退避についての具申を図ってみる。


 しかし、案の定、アゲロスの表情は一転、冷たいものへと変化した。



「……何っ? お前もワシを愚弄するつもりか?」



「いえ。そうではございません。万が一を想定しての事で御座います」



 どの様な状況下においても、決して動揺する事の無いサロス。ただこの時ばかりは、背筋に冷たい汗が流れ落ちる。


 アゲロスは両手を剣の柄においたまま、自身の視線をもう一度サロスの方へと向ける。



「サロス……それは愚問じゃ。ワシのサロスに、万が一も、億が一も、あろうはずが無い。……分かるな」



 先ほどとは一転、慈愛のこもった表情と言葉で、噛んで含める様に話すアゲロス。サロスはその言葉を、頭を垂れたままで拝聴している。



「……」



 一瞬の沈黙。



「はっ、ありがたきお言葉。必ずやそのご期待にお応え致しまする」



 サロスは、意を決してアゲロスの命令を受け止める。



「うむ。行けっ!」



「はっ!」



 アゲロスからの掛け声に、弾かれた様にその場を飛び出して行くサロス。向かう先には、たった今、己が足下で二人の兵士を屠ったばかりの魔獣が待ち構えていた。



 ◆◇◆◇◆◇



「おいっ! タロス閣下っ! 俺たちゃいつまでコイツと睨み合ってなきゃいけねぇんだ?」



 魔獣まで数十メートル。流石に一撃でここまでは来ないであろう、微妙な距離を残して対峙する兵士達。



 この緊張の続く睨み合いに嫌気が差して来たテオドロス。小隊のリーダであるタロスに対して、これみよがしな悪態を付いてみせる。


 もちろん、タロスは閣下などでは無い。しかし、百人隊長クラスであるタロスは、十分にこの隊のリーダをこなすだけの実力と地位を持っているのだ。



「もう少し待てって。今、兄者がアゲロス様の所から戻って来る。それまで魔獣の注意をこちらに引きつけておかねばならんっ!」



 タロスは盾の隙間から、緊張した面持で魔獣を睨みつけている。



「そんな事言ってもよぉ。さっき“のこのこ”やって来た二人組なんて、簡単に魔獣に踏み潰されてたじゃねぇかよぉ」


「それに見てみろよ。魔獣のあの目っ……絶対さっきは、お前の兄貴のクロスボウで潰れてたはずだぜ? なのに、今は傷痕も見つからねぇ……いったいどうなってんだよ! 完全にジリ貧だぜっ!」



 確かに、兵士達の視界に映る魔獣の姿は、先ほどまでの手負いの状態では毛頭ない。場合によっては、先ほどよりも、一回りも二回りも大きくなった様に感じられる。


 しかも、テオドロスが言う様に、傷ついて、失明したはずの魔獣の左目は、暗闇に爛々と輝き、完全にその光を取り戻している様に見受けられた。



「クソッ……」



 さすがのタロスも、この事に関しては完全に想定外であった。恐らく、何らかの魔道の技により、この短い時間の中で、治癒してしまったのであろう。


 やはり、先ほどの手負い状態の時、無理にでもとどめを刺しておかなかった事が悔やまれる。


 そんな中、魔獣の向こう側、館の方から、当のサロスが一直線に駆け戻って来る姿が見えた。



「おぉっ! お前の大好きなあんちゃん登場だぜぇ。 早く撤退の合図出してくれよぉ」



 月明かりに照らされてはいるものの、その姿は凡そのシルエットでしか判別できない距離だ。しかし、お互いに訓練を受け、更には何度も死線をくぐり抜けた者たちである。手信号による意思の疎通に問題は無い。



「……チッ」


せんせんからの、……ついせんかよっ!」


「畜生っ! 無理だって! あいつ、すげぇ早いぞ!」



 サロスから届いた指示を瞬時に理解したテオドロス。思わず隊のリーダタロスに当たり散らす。



「いや、ヤル。……兄者がヤルと言ったらヤルのだ」



 タロスは更に緊張した面持で、それでも正面の魔獣を見据えている。


 その鋭い眼光には、魔獣の動きの全てを見逃すまい、との強い意志が感じられた。

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