第84話 二人に忍び寄る影

「……よし、うん」


「まぁ……たぶん、終わったと思うから、そろそろ助けに行こうか」



 中庭から庭園へ。


 水面に広がる波紋の様に、複雑に折り重なりながら広がっていた甘く切ない竪琴ヴァンナの調べが、ようやく最終楽章を迎えた様だ。



「うん、そうしよっ! はやくヴァンナさんを助けてあげてっ! お願いっ!」



 先ほどから居ても立っても居られない様子のミランダ。ようやくルーカスが動き出すと知って、喜色満面の笑顔で応えてくれる。



「うっ、うん、そうだね。でも、ちょっと休憩も必要かもしれないから、まずは僕が様子を見てくるよ」



 先ほどとは打って変わって、水を打ったように静まり返った中庭の様子を、背丈の低い植木の上からそっと伺ってみるルーカス。


 ミランダはそんな彼の肩にちょんこんと顎を乗せると、そっと彼の耳元に唇を寄せる。



「ルーカスゥ……ありがとっ! 今のルーカス、とってもカッコ良いよ。……チュッ」



 思わぬミランダの行動に、全身の筋肉が硬直状態となるルーカス少年。今だったらクロスボウの矢だって跳ね返す自信がある。



「……いっ、いやぁぁ。そんな……そんな事、無いよぉ」



 何とかそこまでの言葉を絞り出してはみたももの、引き続き耳元に聞こえるミランダの吐息に、更に全身の硬直度合いが増して行くのが良く分かる。



「ピィィィーーーー、ピィィィーーーー」



 ――突然の警笛の音。



「はっ!」



 なんだったら、このまま永遠にこの場に居ても良いかなぁと、ルーカスが思い始めたその時、林の向こう、暗闇の彼方から、警戒を知らせる笛の音が聞こえて来たのだ。



「くそっ! やばいっ! ……見つかったか?」



 ルーカスは二度、三度と、強く頭を振る事で、ミランダとの夢の様な時間を強引に断ち切ると、笛の音が聞こえた方角へとその目を向ける。



「ミランダ、頭を伏せて」



 突然振り向いたルーカスは、自分の肩に顎を乗せたまま不思議そうな顔をしているミランダを、自分の胸元へとしっかり抱え込む。



「キャッ!」



 急にルーカスが振り向いて来た事自体にも驚かされたのだが、それ以上にルーカスが自分を抱きしめて来るとは思いもしなかったミランダ。なす術無く抱え込まれてしまった事に動揺しつつ、思わす短い悲鳴を上げてしまう。



「シッ! 静かにっ。……しばらく、こうしててねっ」



 彼女を優しく気遣うルーカス少年。


 そんな、彼の胸元から見上げる、緊張した横顔は、とても凛々しく見える。



「うっ、うん……」



 ミランダは、今まで感じた事の無い胸の高鳴りに、自分でもどうして良いか分からず、抱きしめられたままの姿勢で、小さく頷きを返した。


 そして、気恥ずかしさからか、そっと視線を下に向ける。



「でもぉ……すごい事になってるよぉ」



 まだ幼い彼女。思わず見たままの事を呟いてしまう。


 その一言を聞いたルーカス少年。体中の血液の殆ど全てが、顔面に集まったのでは無いか? と思うぐらいに赤面。



「はうはうはう!? そっ、そこは目をつぶってて」



 それでも外敵を探るべく、視線を林の奥へと向けたままのルーカス。


 自分の胸の中で小さくまるまっている彼女へ向けては、何とかには触れない様にお願いをするしかすべが無い。



「うっ、うんっ!」



 少女の方も、もう一度小さく頷くと、今度はもっと自分の体重を彼に預けながら、彼の胸へと自分の顔をうずめてみる。


 すると、彼の早い鼓動と自分の鼓動が、上手く同調シンクロしている様にも思えて来て、とっても幸せな気持ちになって来るのだ。



「へへっ……ルーカスッ……」



 ミランダは彼の胸の中で、小さく、そして誰にも聞こえない様に、そっと呟いてみる……。



「……」


「……そんな束の間の幸せを享受する二人」


「その背後からは、一匹の獣が二人の事を静かに見つめていた」


「スンスン……」


「その獣は、ラブラブな様子の二人の匂いを順番に嗅いでみる」


「……間違い無い」


「彼の方からは、前に嗅いだ事のあるの香りに加えて、血の臭いが感じられた」


「……手負いだ。……色々な意味で」


「次に少女の方からは、軽く幸せな気持ちになった時の臭いが感じられた」


「これはどうした事だ?」


「獣は音も無く二人の背後に忍び寄ると、その行為を覗き見る」


「本来は縦長の瞳孔を、その一部始終を観察すべく、丸くいっぱいに広げて……」


「はぁ、はぁ……」


「その少年の息は荒い」


「これはよろしくない感じがする。絶対に興奮している方のはぁはぁだ」


「ただ、……この様子では、逃げる事も、戦う事もできないだろう」


「何しろ興奮している様だしな」


「獣は、少女の状況を哀れに思うが、少年の方は自業自得だと思う」


「少年をこのまま連れ去るか、それとも、この場でひと思いに……」


「その獣の思考は揺れ、考えがまとまらない」


「はぁ、はぁ、はぁっ……」


「いよいよ、少年の息が荒くなって来た」


「これは、少年がこんな所でコトを始めようと言うサインに違いない!」


「獣は、意を決し、この場で話しかける事にした」



「……」



「……んもぉ! お姉ぇちゃんっ!」



 自分たちの真横に、同じ様に伏せた状態の『お姉ちゃん』を見つけたミランダ。


 少しガックリした様な表情で、しっかり者の姉に注意する。



「えへへへっ!」



 姉の方も、妹に叱られて、ちょっと嬉しそう。



「お姉ちゃん、そんな吟遊詩人みたいなセリフ、一体どこで覚えたのぉ?」



 ミランダは少年に抱きかかえられたままの姿勢で、姉に話しかける。ただ、少年の方は、あまりの出来事に、固まったままの状態で身動き一つ取れていないのが笑える。



「えぇぇ。昔は結構、村の方まで吟遊詩人が来る事があったんだよぉ。そっかぁ、ミランダはまだ小さかったから、あんまり覚えて無いんだねぇ」



 姉の方は、二人の横でうつ伏せの状態で寝そべっており、彼女の両手は彼女の可愛い顔の下で、その小さな顎を支えている。しかも、両足は交互にパタパタと動かしていて、ほぼ、自宅の居間で寛いでいるのと、何ら変わりの無い様な状態だ。



「えへへっ、だって二人があんまり仲良く抱き合ってるから、お姉ちゃん、ちょっと邪魔してみたくなったのぉ」



 ちょっと小悪魔風に笑う彼女は、片方の手で、ルーカスのお尻をツンツンしてみる。



「だって、見てみなさいよぉ。この子、まるまる出ちゃってるじゃーん。って言うか、出しちゃった所なの?」



 しかも、横から見ると、ほぼ全開の状態になっている彼の一物を、無造作に中指で『ピンッ』と弾いてみる。



「はうはう!」



 あまりの所業に、思わぬ声を上げてしまうルーカス少年。



「さすがのお姉ちゃんも、妹のこんな姿を目撃して、止めない訳には行きませんからねっ!」



 更に、一物に『ピンッ』と追加攻撃を仕掛けつつ、彼女はルーカスの方へと視線を移す。



「えーっと、君は確かルーカス君だっけ? ウチの妹はまだ未成年なの。だから、まだこんな事や、あんな事、しちゃダメなんだよ。知らなかったの?」



 彼女はルーカスを詰問しつつも、硬直した状態のまま、反応出来ないでいる彼の一物に、更なる追加攻撃を加えてみる。



「えぇっ、あっ痛っつ! えっとぉ、いやぁ……痛てっ!」



 口ごもるルーカスにちょっとイラッと来た彼女は、すこし攻撃力をマシマシ。



「だから、知らなかったのっ? って聞いてるの?」



 今度は、中指を『グッ』と引き絞って、更に強めの攻撃を仕掛け様とする彼女。流石にこの攻撃を受けるのは得策では無い……色々な意味で。



「はいっ! ……知ってました」



 ルーカスは諦めた様に、自分の知識を披露する。



「ほらぁ。ダメじゃん。まぁ、今回はミランダがちょっと好きそうな子だから許してあげるけど、本当にまだダメだからねっ」



 彼女は引き絞った中指の力を解くと、もう一度優しく『ピンッ』と弾いてみる。



「はうはうはうっ!」



「それでぇ、どうしても我慢できなくなったら、お姉ちゃんの所に来なさい。何とかしてあげるからっ」



 彼女は、ポンポンと両手で服の汚れを払いながら、ゆっくりと立ち上がると、ニッコリとした笑顔をルーカスに見せてくれた。



「もぉ! おねえちゃんっ!」



 未だルーカスの胸の中で、絶賛抱きかかえられ中のミランダ。そんな彼女は、自分の腰に手を当てて、既に仁王立ち状態の姉を、ちょっと困り顔で睨みつける。



「えへへ。ごめん、ごめん」



 彼女は小さな舌をペロッと出すと、なぜかルーカスに向かってウィンク。


 しかしその後、急に深刻な表情に戻ると、片膝を付いた体勢で、二人の隣へと身を寄せて来る。



「でも、ちょっとヤバいかもしれないよ」



 彼女は二人にしか聞こえない程度の大きさで、事の重大さを告げて来たのだ。



「えっ、やっぱり僕たち見つかったんですか? ……って言うか、お姉さん、どうしてココに?」



 未だ混乱状態のルーカス少年。何から最初に聞けば良いのか分からずに、とにかく思いついた所から聞いてみる。



「まぁ、まぁ、落ち着きなさいって。私達が見つかったって訳では無さそうね。それに、私はミランダを探しに来ただけなんだけど、そんな事はどうでも良くって……」


「……さっき、二階のベランダから見てたけど、遠くの林の中に、グレーハウンドの成獣がいたわね。あれは、まだ若そうだったけど、完全に成獣になってたわよ」



 彼女は小首をかしげながら、先ほどの光景を思い返している様だ。



「あそこまで大きいと、村の一つや二つ、跡形も無くやられてもおかしく無いわね」


「でも、変よねぇ。グレーハウンドは群れで行動するはずだから、一頭だけってのはちょっとね。でも若いから、他の群れを襲う準備でもしてたのかしら」



 自分で話しながらも、その疑問点にたどり着く彼女。伏し目がちになり、右手の人差し指を少し噛んでいる様だ。これは、彼女の考える時の癖なのだろうか。



「となると、余計にマズいわね。あんなのに、見つかったら『ちょっと気分が悪いから……』ぐらいの理由で、こっちが殺されかねないわよ」



 そこまで言い切った所で、ペロリと舐めた指を頭上高く掲げて、風の流れを読む。


 そして、確信した様に二人の方へと向き直った。



「とにかく逃げましょう!」


「ヤツは嗅覚は鋭いけど、夜目はあんまり利かないから、思いっきり走って逃げても大丈夫。それより風下に逃げるわよ。館の奥の方から正面に回って、建物の中に入るのが良いと思うわ」



「わっ分かった……」



「うん、分かった……」



 ルーカスとミランダは、お互いに顔を見合わせてから、彼女の提案に同意する。


 しかし、その返事を聞いても彼女の眉根に寄った皺は解消される事が無い。



「んもぅ、いつまで抱き合ってるのよぉ。置いてくわよっ!」



 やっぱり何だか不機嫌なお姉ちゃんだった。

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