第71話 極上の竪琴

「たっ、助かった……のか……」



 兵士達の喧騒が去り、静寂を取り戻した庭園内の遊歩道。


 その脇にある背の低い植木の下で、あまりの恐怖に身を小さく丸め、全身を石の様に硬直させていた少年が一人。


 しかし、いつまでたっても最後そのの瞬間が訪れない事に疑問に感じ、なけなしの力を振り絞って、無理やり片方の目だけを薄っすら開けてみる。


 すると、自分の生死を握っていたはずの兵士達が、館の方へと駆け出して行くのが見えたのだ。



「はぁぁっあぁ……」



 たとえ一時的であれ、当面の危機が去った事を認識した少年。いままで硬直していた全身の筋肉が一斉に弛緩し始める。



 ――ジョジョッ……ジョロロォォォ。



 その瞬間を待ち構えていたとでも言うのか? 自身の股間から生暖かい感触が伝わって来る。



「はぁっ! とっ、止まれ、止まれぇっ!」



 少年は初めての経験に、必死に股間を抑えるのだが、既になす術もなく。


 その恥ずかしさに内心焦りはするものの、もう『流れるがまま』に任せてしまう事に。



「はぁぁぁ……」



 すべて出し切ってしまえば、どうと言う事も無い。


 逆に体中の緊張が解けてしまい、先ほどまで感じていた恐怖心すら何処へやら。



「ちっくしょう……今度会ったら絶対アイツら全員ぶっ殺すっ!」



 急に元気になり、悪態までつく始末。



 少年は辺りに誰もいない事を何度も確認すると、植木の下から転がる様に遊歩道の方へと抜け出して来る。



「一体どうしたんだ? あいつら……。急に行っちまいやがってぇ。しっかし……痛ってぇ」



 本当は、先ほどの『何か』の遠吠えは、少年の耳にも届いていたはずなのだが、自身の生死がかかったあの局面では聞き逃したとしても致し方あるまい。


 それよりも、兵士の槍が掠った右足の痛みの方が最優先の現実リアルだ。



 少年は右足を庇う様に噴水の傍まで歩いてゆくと、己の下履きを脱いで、噴水の周りにある泉へと浸した。


 そして、その下履きを使って、自身の粗相をした下半身や右足の傷口を丹念に拭き清めた後で、もう一度よく洗ってから、右足の切創へとキツく縛り付けたのだ。



「くうっ……!」



 キツく巻き付けたはずの下履きは、あっと言う間に彼自身の血により赤く染まって行く。



「ヤバい……血が止まら無いっ。早く縫わないとマズいか……」



 とにかく毎日を生き延びる為、物心付く前から、屈強な港湾労働者達に交じって働いてきた少年である。同じように誰かが腕や足を怪我する場面を数多く目にしてきた。


 その度に、親方や熟練の労働者たちは患部を強く縛り上げ、必要に応じて糸で縫い合わせる等の応急処置をしていたのだ。



「とにかく血を流し続けてはダメだっ! 取返しが付かなくなる」



 少年はもう一度きつく患部を縛り上げると、右足を引きずりながら、更に身を低くして館の方へと突き進んで行く。


 恐らく自身に残された時間はかなり少ない。


 最悪の場合、建物の中に忍び込んででも、何等かの治療器具……と言っても使い方も分からないから、せめて幹部をもっと強く縛り上げるだけの布を、確保する必要があると判断したのだ。


 植木の間をくぐり、館の中央に大きく開放されている、中庭の様な場所へとたどり着いた少年。


 植木の間から中庭越しに館の内部の様子をうかがうと、そこには、いくつかのランプに照らされた寝室の様な部屋が見て取れたのだ。



 ◆◇◆◇◆◇



「ほっほっほっほ……」


「確かソチは、ヴァンナと申したか。……うぅぅむ、見目麗しさはもちろんの事じゃが、なかなかのを持っておるでは無いか」


「やはり、こういうは、実際に試してみねば分からぬものよのぉ」



 そう言いながら、アゲロスは自身の横に添い寝するヴァンナの腰を優しく撫でまわしている。


 すでに一回戦が終了。


 二人は、五、六人が余裕で寝られるだけの大きさを持つ天蓋付きのベッドの上で、寄り添う様に横たわっていた。


 ヴァンナの方は、本人最大の武器であるその大きな胸を、シルクで織られた柔らかなシーツで隠しながらも、その肢体はアゲロスの自由にさせているのだろう。


 アゲロスの指先が、興奮冷めやらぬ彼女の性感帯スポットに時折触れる度、その身を小さく震えさせているのだ。



「あんっ……ありがとうございます。マロネイア様にその様におっしゃって頂けるとは光栄に存じます」



 ヴァンナは、羽毛が込められた大きな枕の間から、その美しい顔を覗かせると、お礼の気持ちを、ゆっくりと目を伏せる事で、アゲロスへと伝えてみせる。



「ほっほっほっ」



 そんなヴァンナの様子を見るアゲロスは非常に満足そうに頷いている。



「しかも、良い音を奏でるのぉ。まるで帝国宮殿楽師の奏でる竪琴の様な音色じゃぁ……いやいや、それに勝るとも劣るまい」



 先ほどまでの二人での営みを思い返したのであろう、その強面の顔に、いやらしい微笑みを浮かべるアゲロス。



「この様に満足したのは久しぶりじゃのぉ」


「どうじゃ、このまま今一度、その良い音色をワシの為に奏でてはくれぬかのぉ」



 アゲロスはそう言うと、ゆっくりと彼女のシーツの裾へと、みずからの右手を差し入れる。



「あぁんっ……」



 アゲロスの右手が自らの体に到達すると、一度体を『ピクッ』と反応させつつも、今度はシーツを持つ手とは反対側の手の指で、アゲロスの胸元をゆっくりとなぞり始めるヴァンナ。



「……何をおっしゃいます、マロネイア様。私が竪琴であるならば、その奏者はマロネイア様。奏者の腕が音色を左右するのでございますよっ」


 ヴァンナは、アゲロスの胸元をなぞっていた指をゆっくりと彼の首元、そして顔へと移動させ、最後に『ちょん!』とアゲロスの鼻の頭を突っついてみせた。



「ほっほっほっほ」


「これは上手い事を申す。それでは、早速そのを奏でてみる事にするかのぉ」



 ヴァンナの焦らし戦法が功を奏したのか、アゲロスは我慢ならぬとばかりに、ヴァンナの手に持つシーツを取り払おうとした。



「ねぇ、マロネイア様……」



 そんなアゲロスにシーツを奪われそうになりつつも、ゆっくりと彼の名前を呼ぶヴァンナ。


 そんなヴァンナの声に、何らかの意図を感じたアゲロスは、ヴァンナのシーツをめくる手を一旦止めて、少し思案顔に。



「んんっ? そうじゃのぉ……それでは本日より、ヌシにはワシの事を『アゲロス』と呼ぶ事を許そう」


「ただのぉ、既に妾の数は正妻から言い渡されておる『制限』いっぱいじゃ」


「しばらくはこの館で暮らすがよい。その間にヌシの音色が失われないならば、もう少し取り立ててやっても良いがのぉ」



 ヴァンナの意図が、自身の妾の仲間入りを要求する事だろう、と考えたアゲロスは、当面の約束手形として、ファーストネームで呼ぶ事を許したのだ。


 奴隷の身分にもかかわらず、主人の事をファーストネームで呼んでも良い……と言う事は破格の待遇であり、場合によってはアゲロスの言う通り、この敷地の中に専用の館を持つ正夫人ナンバーズとして取り立てる事を約束している様なものなのだ。


 しかし、アゲロスの方にも事情があり、これ以上の妾の増加を望まない正妻の厳しい監視の下、なかなか、新しい妾を増やす訳にも行かない。そうなると、必然、妾の空きができるまでは、この館での暮らしを強いねばならないのである。



「いえ、マロネイ……アゲロス様、そうでは無く……」



 ヴァンナは少し困った様な表情で、己が胸元を隠すシーツを口元まで引き上げる。



「んんっ? ヴァンナ、奴隷としては十分な境遇を与えてやろうと言うのじゃ、これ以上高望みをせぬ事が、長生きのじゃぞ」



 その行動を、『自分の折角の提案を不満に思っているのでは?』と考えたアゲロスは、少し不機嫌な表情を見せる。



「いえ、滅相もございません。そうではなく、先ほど聞こえました獣の様な遠吠えの事にございます」



 ヴァンナは驚きとともに、不安な表情をみせる。ただその仕草は、アゲロスのそのに怯えたのか、それとも本当に獣の声に怯えたのかは分からない。



「私、恐ろしゅうて、恐ろしゅうて。アゲロス様のご期待に添える様な音色を奏でる事ができるかどうか、不安なだけにございます」



 ヴァンナはそう言うなり、シーツの中へと潜り込んでしまう。


 そんなヴァンナの行動を、さも不思議そうに見つめるアゲロス。



「ほっほっほっ」


「なんだ、その様な事か。あれは、ワシの飼っている魔獣じゃ。今日はワシが遊んでやらなんだから、小屋の中で寂しがってでもおるのであろう」



 アゲロスは微笑みながら、シーツの中に籠ってしまったヴァンナを優しく撫でてみる。



「なんじゃ、震えておるのか? ……うむ、うむ。可愛いヤツじゃのぉ」



 そのまま、シーツから出てこないヴァンナをゆっくりと撫でていたアゲロスは、不意に何かを思い出したかの様に、その半身を起こす。



「それであれば仕方が無いのぉ……サロス。サロスはおるか?」



 控室に向かうドアの方へと声を掛けるアゲロス。



「はい。アゲロス様。サロスはこちらに」



 どういう仕組みなのか? それとも最初からそこに居たのかすら分からない。控室への扉が開く事無く、扉の前の闇の中からサロスがゆっくりとその姿を現した。



「おぉ、サロス。ワシの竪琴姫が魔獣を怖いと申しておる。ソチには悪いが、一度様子を見て参れ」


「はっ。畏まりました」



 アゲロスがそう告げると、サロスは再び闇の中へと溶ける様に消えてしまった。



「ほれ、これで心配あるまい。サロスであれば、魔獣ごとき一刀の下に切り伏せるであろう。その光景はソチも先ほど目撃したばかりであろう」



 アゲロスはシーツの裾からもう一度右手を差し込んで、ヴァンナの様子を探る。



「アゲロス様、それは……」



「ほっほぉぉ。にも濡れるとはのぉ。新しい発見じゃ。この分では、かなり通わねば、ソチを満足に奏でられぬ様じゃのぉ」



 アゲロスは満足げに頷くと、シーツに差し込む右手に力を込めた。



「はあぁっ、アゲロス様、……アゲロス様ぁぁ……」



 庭園に続く中庭には、竪琴ヴァンナの甘く切ない音色が響き渡って行った……。



 ◆◇◆◇◆◇



 その一部始終を植木の陰で盗み見ていたルーカス少年。


 己が置かれた厳しい状況は、彼の脳裏から一切合切飛んでしまい、更には右足の痛みすらも忘れ、一つ所に血液が充足されて行くのを感じている。



「あぁぁヤベっ! 俺、何やってんだろう?」



 早急に冷静になる方法はただ一つ。


 そういえば下履きも今は履いていないし、誰も目撃する者はいない。


 ルーカス少年がそっと自分の股間を見るために頭を伏せたその先、彼の背後からは、獣の目と思われる二つの瞳が、彼のその行動をじっくりと見つめていた。

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