第68話 グレーハウンド

「……はぁ、はぁ、はぁ、……くっそぉ、……はぁ、はぁ、やべぇっ!」



 少年は月明かりの中に浮かび上がる館を背にすると、つい先ほど駆け上って来たばかりの石畳の道を一目散に駆け降りて行く。


 それもそのはず、自身の想い人に逢う為に、軽い気持ちで忍び込んだだけの館。そこで突然、ぼろ雑巾の様になった『人』だったものが、麻袋に入れられて運び出されるのを見たばかりなのだ。



「あっ……あれはっ……はぁ、はぁ、…………絶対っ……人だっ……」


「……しかも…………あのオヤジッ……はぁ、はぁ、はぁ、…………あんなっ事をっ!」


「…………」


「……うっぷっ!」



 さっき見たばかりの残忍な光景がフラッシュバックする。


 すると、その嫌悪感といっしょに、一切合切を自分自身から『吐き出してしまいたい』との欲求に駆られる少年。



「ゲェッ…………!」



 ――バシャバシャ、バシャッ。



 少年が石畳脇の植木の根本に、四つん這いで倒れ込むと、彼の胃はその内容物を全て逆流させようと突然暴れ出して来る。



「はぁ、はぁ、…………ゲェッ……ヴゲェッ]


「………………はぁ、はぁ」



 もう彼の胃が、なんど悲鳴をあげても、胃液すら出て来ない。



「…………」


「逃げっ……にげなきゃっ」


「…………?!」



 その最後の「言葉」を、込み上げて来た恐怖心と一緒に吐き出した瞬間、彼の脳裏には、つい数時間前に見た彼女の美しい姿が浮かび上がって来た。



 ――待ってるから……。



 桟橋で麻紐に繋がれて連れられて行く彼女。少し哀愁のある笑みを浮かべつつ、確かに、確かに自分に向かって言ってくれた言葉だ。



 ――待ってるから……。



 そう、何度でも、何度でも思い出せる。……彼女のその表情、仕草、その唇の動き一つ一つが鮮明に思い出せる。何があろうとも忘れる事なんて出来るもんかっ。



 ――俺は彼女に……ただ逢いに来た訳じゃないんだ。



 ついさっきまで、少年を雁字搦めに支配していた怯えや恐怖心が、まるで嘘の様に雲散霧消する。


 そして、それと入れ替わる様に、彼女の笑顔がもたらす、優しくも柔らかい光と温もりが、かれの心をゆっくりと、しかし確実に満して行った。



「……彼女を、助けなきゃ……」



 その言葉は隣にいても聞き取る事のできない、独り言の様な小さな呟きでしかなかった。しかし、確実に彼の心の中の“闘志”に火を付けるには十分な力を持っていた。



「……くっ! やってやる。やってやるよぉっ!」



 ルーカスは自分自身に言い聞かせるかの様に力強くつぶやくと、たった今逃げ戻って来たばかりの坂道を、もう一度力強く踏みしめながら駆け上って行った。



 ◆◇◆◇◆◇



「でぇ? ……何があったんだってぇ?」



 その男は『小屋』と言うには少々大きめの部屋の中央に陣取り、テーブルに自身の両足を乗せたままの格好で椅子の背もたれに寄りかかる様な格好で座っていた。



「……いやぁ。なななっ何かあったら……報告しろって……いいい言われたから……」



 吃音交じりの男の言葉は、野太く、くぐもっていて非常に聞き取り辛い。本来であれば、身の丈2メートルを超える巨漢であるにも関わらず、椅子に座った男に罵られる様を見ると、とても、そんな大男には見えないから不思議だ。



「なんだとぉ、この木偶でく野郎っ! それじゃぁ俺の命令が悪かったって言いたいのかぁ?」



 椅子に座った男は、不機嫌そうに横に立つ大男を睨みつけると、テーブルの上に置いてあった木製のジョッキに残った安物のワインを呷った。



「うぃぃぃ……。だぁかぁらぁ、さっきから何度も言ってるだろぅ? そんなどうでも良い事を報告しに来るなって言ってるんだよっ!」



 椅子に座った男は、横に立つ大男と全く同じデザインの、銀色に輝く簡易甲冑を身に付けており、同じ部隊に所属する兵士だと言う事がうかがい知れる。


 また、同じ部屋の中には、この二人と同じ甲冑を纏った男達が何人も屯しているのだが、余計な厄介ごとに巻き込まれてはたまったものでは無いとばかりに、遠巻きにするだけで、二人の会話には誰も入ろうとしない。



「……はぁ、すすすっすんません」



 大男はこれ以上無いぐらいに、その身を小さくしながら、椅子に座る男へと謝罪をくりかえしている。



「ちっ! 本当に悪りぃって思うんだったら、もういっぺん、見回りに行って来いっ!」



 椅子に座った男は、手に持った木製のジョッキで扉の方へと指さすと、顎をしゃくって、大男に早く行く様に促した。


 通常、詰め所に屯する兵士達は、二人一組で夜通し、屋敷の外周を見回りに歩くのだが、誰も大男と一緒に見回りに出かけようとする者は無く、結局、難癖を付けて、彼一人に見回りを押し付けようと言う魂胆が見え見えだ。



「へぇ……」



 大男の方は、申し訳無さそうに一礼すると、もう一度見回りへと赴く為、出口の扉を開こうとする。


 すると、大男がドアノブに触れるその前に、その扉は自動的に外側へと押し開かれた。



「……おいっ、今の話、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」



 扉をくぐって入って来た男は、先ほどの大男よりは小さいながらも、人並み外れた体格を持つ偉丈夫だ。



「ガタッツ! ……ガタガタッガタッ」


「……あぁっ! タタタッタロス様っ!」



 先ほどまでテーブルに自身の足を投げ出して大仰に座っていた男は、突然の来訪者に驚いて椅子から転がり落ちると、這いつくばった姿勢のまま、タロスの足元まで駆け寄って来る。



「いっ! いったい、どうされましたでしょうか? こんな詰め所にお越しいただくなんて……」



 先ほどの威厳もどこへやら、タロスの足元で土下座する様な格好になったその男は、そのまま平伏してしまう。



「お前が隊長か。お前の名前は?」



 タロスは己が足元に平伏している男に向かって、逆に問いかけた。



「はっ! 私が本日の夜当番を務めております、十人隊長のドメニコスと申しますっ! タロス様にはご機嫌麗しゅう」



 引き続き平伏したまま、顔を上げる事すらせずに名を名乗るドメニコス。しかし、そんな男の様子に苦笑いしつつも、もう一度、最初の質問を繰り返し問いただす。



「挨拶などどうでも良い。いま、ヨルゴスと話していた内容を、早く話せっ」



 ヨルゴス自体は一介の兵士でしか無いのだが、その巨体からマロネイア軍の中でも有名であり、タロスも名前だけは知っていたのだ。



「いやはや、タロス様にお話しする様な内容では無いのですが、このヨルゴスが言うには、先ほど裏門の方へ『汚れ役』の男が一名、遅れてやってきたと言うだけの話でございます。本当にお耳汚しな話ですみません。ご容赦願います」



「ふーむ……」



 ドメニコスの話を聞いたタロスは、腕を組みながら暫く考え込んだかとおもうと、突然ドメニコスの薄くなった髪の毛を引っ掴み、平伏していた顔を無理やり持ち上げた。



「おい、隊長っ! お前の部下全員を使って、その遅れて来た男を探し出せっ!」


「ひぃっ! ……かっ畏まりましたぁっ!」



 ただでさえ薄くなった頭髪をこれでもかと掴みあげられたドメニコスは、老婆の様な悲鳴を上げつつも、タロスの命令に従うべく立ち上がる。



「よしっ! 後はたのんだぞ。ただし、既にアゲロス様はご就寝されておる。決して物音を立てずに一時間以内でその男を俺の前まで連れて来い。もし出来ない場合は、お前の首を不審者として兄上に差し出す事になるから、そう思えっ!」



 未だにドメニコスの頭髪を掴んだままのタロスは、鼻先が触れるか触れないかの距離まで顔を近づけると、相手の命の代償を求めると言う恐ろしい言葉で発破を掛けた。



「おい、ヨルゴスっ! お前は俺と一緒に来い!」



 タロスはそう言うと、ヨルゴスを引き連れて、奴隷妾専用館の方へと歩いて行った。



「…………」



 その場に残されたドメニコスは、遠巻きで震えながら眺めていた副長を、急いで呼び寄せる。



「……おい副長っ、犬を使うぞっ!」


「えぇっ! たたたっ隊長っ! 犬ってぇと、あの魔獣のグレーハウンドを出すんですかい? いや、そればっかりはぁ……」



 副長は、ドメニコス隊長のその発案に、真っ青な顔で首を左右に振る。



「大丈夫だ。ヤツはこの家で十分躾けられてるっ。俺たちがこの甲冑を着ている限り、襲われる事はねぇ」



「しっ、しかし隊長。ヤツを放しちまうと侵入者を見つける所か、食い殺しちまいかねませんよっ! 流石にそれはヤバいんじゃぁ……」



 副長は何とかドメニコス隊長に思い留まってもらえる様、再三説得を繰り返すのだが、ドメニコスは一向に首を縦に振らない。



「つべこべ言ってねぇで、犬舎にいってグレーハウンドを解き放って来い!」



「あ痛たっ……へいっ!」

 


 ドメニコス隊長にしこたまケツを蹴り飛ばされた副長は、駆け足で犬舎の方へと飛び出して行った。



「おぅ、それ以外の連中は、三手に分かれて庭園の中を捜索しろっ! 特に侵入者が隠れていそうな所を重点的に探すんだっ!」


「急げぇ出発っ! ……行け行け行けっ!」



 隊長の部下達は、三人一組の形で真夜中の庭園へと散って行った。

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