彼方にのぼる真っ白な……

石田緒

彼方にのぼる真っ白な……

 長い坂の頂上から見下ろすと清々しい朝日に照らされた町並みが一望できる。

 私の住むアパートは高台にあるため通勤には下り坂を経ることになる。その坂の上に立ったときの見晴らしは抜群で、遙か彼方のビルが水平に、ほとんど地平線に沿って並んでいるほどに見えるのだ。まるでミニチュアのような建物が青空の下にぎっちり並んでいるのを眺めるのは私にとって密かな楽しみであった。

 そんな爽快な景色の真っ正面、つまり目の前の坂道をずうっと向こうまで延長していったその先には真っ白な煙がひとすじ晴れ渡った空へと立ち上っている。

 あの煙に気が付いたのはいつだったろう?

 はっきりとは思い出せない。ある日、その煙は地平線に突き立てた一本の白い棒杭のように細い線を青空へと上らせていたのだ。

 ゴミ焼却所でもあるのだろうか?

 私はごく平凡にそんなことを思っていた。

 あるとき気になった私は通勤の電車の中でスマホからグーグルマップを開いた。通勤経路を表示し、例の坂道を真っ直ぐ延長していったその先に……。

 眺望の途切れるのは距離的にこの辺りだと見当はつけたものの、スマホで見る限りゴミ焼却施設だとかそれらしき巨大な建物は画面をスワイプする指が隣の市との市境をまたぐまで確認できなかった。


 本日も快晴であった。燦々と太陽のかがやく南の空にはところどころに雲がたなびいている。思わず深呼吸したくなるような気持ちの良い朝だ。

 坂の上に立つといつもと変わらぬ町並みが見渡せた。そして、今日もまた真っ白な煙が青空へと立ち上っていた。私は足を止めてしばし目の前の光景に見入った。ひとすじの煙は空に流れる雲に溶け込んでいた。

 スーッと私の視界を横切るものがあった。

 つられて目で追えば一羽の鳥である。地味な羽色だがなんという鳥だろう。その鳥は坂道に沿って伸びる電線に止まり、しばらく羽を休めたかと思うと、また飛び立っていった。私の眺めていた煙の方へ一直線に……。

 私はあることに気が付き、直後にまさかそんなことはあるまいと自分の考えを打ち消したが、あらためて自分の思いつきが間違いや目の錯覚ではないことを知った。

 私は例の煙がある地点から空に向かって上っているのだと、ごく当たり前にそう思っていた。

 そうではなかった。

 その煙は上から下へ、空から地上へと下っていたのだ。

 こんなことがあるだろうか。わたしはとても信じられない気持ちで棒立ちのまま、ゆっくり空から町の中へ落ちていく煙に視線を釘付けにしていた。

 その動きを追うにつれ、新たなことが分かった。

 これもまた信じがたいことであった。

 私が見ているそれは煙ではなかったのだ。

 雲であった。

 朝陽に照らされて漂う雲が、あの地点まで流れてくるやひとすじの束となって吸い込まれるように地上へと下っているのである。

 私はほとんどあっけにとられていた。

 目の当たりにしている光景をいったいどう理解すれば良いのだろう?

 呆然としていた私はハッとわれに返り、慌てて腕時計を見た。頭に混乱を抱えたまま私は坂道を駆け下りた。


 それからの私は自分でも驚くほど大胆であった。

飛び乗った電車のなかで再びグーグルマップを開いた私は再度それらしき建物がないかと雲の吸い込まれていた方角を丹念に辿ってみた。

 しかし、それらしきと言ってみたものの、そもそも雲が空から吸い込まれていくような場所など何をもってそれらしいと判断すれば良いのだろう。

 会社のある駅まで到着し、いったん電車を降りた私はホームに立ち、手に握っていたスマホから本日欠勤の旨を会社に伝えた。そして、やってきた同じ方向の電車に再び乗り込んだ。

 ほとんど通過したことすらない方面へと揺られること数駅。雲が降りていたのはおおよそこの辺りだという駅に着いた。たいていの乗客はいくつか前のターミナル駅で降車しており、この駅で降りるものはほとんどいなかった。

 改札を通ってから近辺の地図を示した案内板に目を通した。期待はしていなかったが、やはり煙を吐き出すような施設はもちろん、空から雲を吸い込むような奇抜な建物の名は見つからなかった。

 ともあれ私は歩みを進めた。既に空から地に伸びる白い雲はどちらを見渡しても跡形すら見えなかった。

 知らない街に降り立つ人はとりあえず賑やかな方を目指すのか。私は知らず知らずのうちに商店街へと足を踏み入れていた。この商店街は前にスマホの上で見たことがあった。私があの煙、もとい雲を発見した坂道から真っ直ぐ、その延長線にぴったり重なるように南北に伸びている商店街だったから記憶に残っていたのだ。

 どの店舗もまだ開店前であり、行き交う人は少なく、通りには静けさが感じられた。とはいえ常時さびれているわけではないのだろう。ところどころに黒板ボードや看板がしまい忘れたように立っていた。これで昼時ともなればけっこうな賑わいを見せるのかもしれない。

 ドアの閉ざされた店舗をそれでも右へ左へと目を遊ばせながら、私はまるでどこか知らない世界へと迷い込んだ錯覚すら覚え、思わず心が弾んだ。思いつきで会社を休んでしまったどうにでもなれという気分が私に開放感をもたらしたのかもしれなかった。

 そんな非日常の気持ちも商店街の端が近づくにつれてすぐに薄れてしまった。私はここへ来た本来の目的を思い出し、成果が得られなかったことへの徒労感も覚え始めていた。

 その時、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。私は鼻を向けた。吸い寄せられるようにして行くと、商店街が大型道路に突き当たる手前に一軒のパン屋があった。

 入り口には開店時刻を知らせるプレートが提げてあった。店が開くのはまだ一時間も後だ。それにしても開店前からこの香りを通りに流しているのは罪なものである。

 私は思わず喉を鳴らした。通りに面した窓ガラスから店内の様子をうかがったが薄暗くてよく見えなかった。窓には手書きのポップが何枚も貼ってあって、それが店の中を暗くする一因にもなっているようだった。

 店が開いていないのでは仕方がない。行き場の無い気持ちをなだめるように私はそれらを端から順に眺めていった。

 そして、ある一枚を目にした瞬間、私はアッと声を上げた。


「その食感はまるで雲! フワフラ モチモチ

 当店自慢の生食パン 本日も美味しく焼き上がりました!」


 手書き文字の下にはいままさに空から落ちてきたような真っ白なパンの絵が描かれていた。

 私は顔を上げた。看板に書かれたその店の名は「南雲ベーカリー」といった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼方にのぼる真っ白な…… 石田緒 @ishidao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ