猫の心地よい場所

庵字

前編 やってきた猫

「さあ、ポン太ちゃん、自分の家だと思ってくつろいでね」


 理真りまのお母さんがそう言いながらバスケットの蓋を開けると、中からひょっこりと猫の前脚が出てきて、安堂あんどう家の居間の床を踏んだ。やがて、のっそりとその体軀を現した彼こそがポン太。今夜ひと晩、安堂家に泊まることになった、シルバーに黒の縞模様が入った、サバトラと呼ばれる模様の雄猫だ。

 完全にバスケットから這い出たポン太は、まず私に目をくれた。いや、正確には私が抱えている三毛猫に。私の腕の中にいるこの三毛猫は、ここ安堂家の飼い猫、その名も三毛猫クイーン。視線を合わせた二匹の猫は、しかし、「シャー!」などと唸って牽制しあうことなどなく、じっと互いの姿を己の双眸に映しているだけだった。


「大丈夫みたいね。由宇ゆうちゃん、クイーンを離してもいいわよ」


 理真のお母さんの許可を得て、私はクイーンをそっと床に下ろした。どちらからともなく、ゆっくりと歩み寄った三毛とサバトラは、至近距離まで顔を近づけると、くんくんとお互いに匂いを嗅ぎ始めた。初対面の猫同士の突然の出会い。ともすれば凄絶なネコバトルが勃発するか? という私たちの心配は杞憂に終わった。見守っていると、サバトラのポン太のほうは、すぐに他人(他猫)に対しての興味を失ったのかクイーンから離れ、カーペットの一角に丸くなってしまった。クイーンのほうでは、サバトラのことが気になってはいるようだが、向こうが何もしてこないためか、こちらも黙ったままこたつに潜り込んでしまった。


「この調子なら大丈夫みたいだね」


 私の隣で安堂家の長女、理真がため息を漏らした。


「ええ、そうもいることだしね」


 理真のお母さんが言ったとおり、今日は土曜日で、理真の弟、高校生である宗も在宅している。今は二階の自室にいるのだろう。「私、呼んでくる」と理真は居間を出て階段を上がっていった。



「宗、私たちは買い物に行ってくるから、クイーンとポン太ちゃんのことお願いね」


 お母さんから言われた宗は、「おう」と返事をしてテレビの電源を入れた。再放送のドラマが画面に映し出される。さっきまで自室で観ていたのだろうか。

 二匹の猫と高校生男子を家に残し、私たちはお母さんの車に乗り込んだ。向かう先はいつもよりも少し離れたスーパーマーケット。おひとり様ひとパックまでの特売卵を三人分購入するのが目的だ。



茂森しげもりさん、泊まり掛けの旅行に行くの十年ぶりなんですって」

「それで、ポン太を預かることになったのね」


 運転席と助手席で親子の会話が始まった。


「そうなの」とハンドルを握る理真のお母さんは、「茂森さん、十年前に奥さんを亡くされて、寂しさを紛らわすためにポン太を飼い始めたそうなんだけど、いざ猫を飼ってみると、これがもうかわいくて離れられなくなったそうでね。宿泊どころか、この十年間は市内を出たこともないそうよ」

「それも凄いね。でも、どうして今回東京に行くことに?」

「嫁いだ娘さんにせがまれたんですって。『お父さんが死ぬ前に、旦那子供と四人で東京見物がしたい』って。ひとり娘にそんなこと言われたら、茂森さんも重い腰を上げずにいられなかったんでしょうね」


 サバトラポン太の飼い主である茂森老人は、理真のお母さんがパートで働いている職場の同僚で、猫好きという共通項から仲良くなったらしい。世間話をする中、今度旅行に行くのでポン太をペットホテルに預けなければならないのだが、それが心配でならない、と茂森老人が不安そうに話しているのを聞き、それならうちで預かりましょうか、と理真のお母さんがポン太の世話を買って出たのだという。


「うちのクイーンはやさしいし、ポン太も大人しい子だって聞いていたから、大丈夫だなって思ったの」


 理真のお母さんの猫を見る目は正しかったわけだが、万が一のため、留守番をするつもりで私、江嶋えじま由宇も親友のよしみで、理真と一緒に彼女の実家を訪れたのだ。だが、宗が家にいたのは幸いだった。おかげで私も特売卵を購入する幸運にあやかることが出来る。


「茂森さんって、どんな人なの?」


 娘の質問に母親は、


「私、一度お茶を飲みに、ご自宅にお呼ばれしたことがあるんだけどね。アンティーク趣味っていうのかしら、とにかく古いもので溢れてるお家だったわよ」

「骨董品みたいのが趣味ってこと? いい仕事してる壺とかがいっぱいあるような?」

「そういうのには興味ないみたい。茂森さんのお部屋には壺とかの置物なんかは一切なかったから」

「家具が古いってこと?」

「そうよ。茂森さんのお家は西洋の田舎のお家みたいなかわいい外観をしていて、中も洋間ばっかりなの。茂森さんと亡くなられた奥様のご趣味でそういう家を建てたんですって。で、設えられた家具も、お家の外観同様、かわいくて素敵なものばかりなの。食卓も椅子も棚も書き物机も、年季が入っているけれど素敵なものばかりだったわよ。高いものを買って、それをずっと使い続けるっていうタイプなんでしょうね」

「安くてすぐに駄目になるものを何度も買い替えるより、そっちのほうが結果的に経済的だっていう話もあるもんね」

「家具だけじゃないの。例えばね、茂森さんってCDを一枚も持っていなくて、音楽を聴くのは未だにレコードよ。映画鑑賞もお好きなんだけど、ブルーレイはおろか、DVDプレーヤーもないの。持っているソフトは全部VHSのビデオテープで、それをビデオデッキで観るの。レンタルではもうビデオなんて扱っていないでしょう? って訊いたら、『新しい映画に興味はない。好きな昔の映画しか観ないからいいんだ』なんて笑っておっしゃってたわ。それを映すテレビも当然のように昔ながらのブラウン管テレビ。一応、デジタル放送には対応してるけれど、茂森さんはテレビをあまり観ないから、もっぱらビデオのモニターとしてしか使ってないみたい」

「それって、アンティーク趣味って言うか、ただ単に物持ちがいいだけなんじゃないの?」


 娘が言うと、あはは、と理真のお母さんは笑った。


 私たちは目的地のスーパーマーケットに着き、お目当ての卵パックを手にレジに並んだ。理真のお母さんの名誉のために付け加えると、特売卵だけではく、彼女はきちんと夕食の買い物もしている。私と理真が持っているのは卵パックだけだけれどね。



「宗、クイーンとポン太はどう?」

「何の問題もなし。大人しいもんだよ」


 帰宅した姉が訊くと、宗は自分が脚を入れているこたつの布団をめくった。その中には、三毛猫とサバトラ猫が並んで寝ている。もう仲良しになったのだろうか。暖を取るという意味合いもあるのだろうが、体を密着させて寝ている姿が大変かわいい。

 理真のお母さんは夕食の支度をするために流しの前に立つ。今夜は盛大に卵料理が振る舞われることだろう。当然私もご相伴にあずかるつもりだ。

 テレビ画面では、ドラマのエンドロールが流れている。それが終わると宗は、「さて」とテレビのリモコンを手に取ってボタンを押した。が、


「あれ?」


 画面には〈ハードディスクが接続されていません〉というメッセージが表示された。「何で?」宗は何度かボタンを押したが、画面の表記は変わらない。業を煮やし、こたつから出てテレビの裏を覗き込んだ宗は、


「ああっ!」


 と大きな声を上げた。何事が起きたのかと思ったら、


「ハードディスクの電源が……切れてる!」


 悲愴な顔で振り向いた。


 私たちが買い物に出ると宗は、テレビ番組の録画予約をしたという。観ていたドラマの裏番組で、Jリーグ開幕をもうすぐに控えた、我らがアルビレックス新潟の特集番組だった。

 安堂家のテレビは、録画された番組は外付けのハードディスクに保存される仕様となっている。ハードディスクの電源が入っていなければ録画は出来ず、いつ何時の予約録画にも備えるため、ハードディスクは常に電源が入った状態になっているはずなのだ。それが切れているという。


「おかしい」しばらく黙ってから宗は口を開いた。「ハードディスクの電源が入っていなきゃ、そもそも録画予約自体が出来ないはずなんだ。でも、俺は確かに予約をした。ということは、その時点では電源は入っていたはずなんだ」

「それは何時のこと?」


 姉が訊いた。


「姉ちゃんたちが買い物に出てすぐだから……午後三時くらい」

「予約した番組の放送時間は?」

「三時半から四時まで」


 ハードディスクの電源を入れ直して録画リストを見てみたが、当該の番組は一秒たりとも録画されていなかった。


「ということは」と理真は、「ハードディスクの電源は、午後三時から三時半までの三十分の間に切られたことになるわね。宗、何か心当たりはある?」

「ドラマのCM途中にトイレに行ったけど……それくらいだ。時間は、三時十分くらいだったと思う」

「トイレに行っていた時間は?」

「一分くらいしか掛かってない」


 小さなほうか。って、そんなことどうでもいいか。


「宗、トイレに行く前と戻ったあととで、クイーンとポン太に何か変化はあった?」

「猫に? えっと……ああ、何だか、ポン太の様子がおかしかったな」

「おかしいって、どんなふうに?」

「部屋の隅っこにいて、しきりに毛繕いしてた」

「クイーンは?」

「こたつのそばで、ポン太が毛繕いするのをじっと見てた。で、クイーンはすぐにこたつに潜って、ポン太は窓際へ行って外を眺めてたんだけど、しばらくしてクイーンがこたつから顔を出して、ポン太を呼ぶみたいに『にゃー』って鳴いて、ポン太も一緒にこたつに入っていったよ」

「じゃあ、それまでポン太は、こたつに入ってはいなかったってことね?」

「ああ、俺がトイレに行く前にも、ポン太は一度もこたつに入らなかった」


 それを聞くと理真は唇に指を当てた。これは彼女が考え事をするときの癖だ。指を離した理真は、


「犯人は、ポン太だよ」

「ポン太がテレビの裏に入り込んで、ハードディスクの電源を切っちゃったってのか? 姉ちゃん」

「間違いないね。宗がトイレに行っている隙にね」

「ま、まあ、猫は狭いところに入り込む習性があるけれど……」


 宗は納得したような顔をしたが、


「理真、それはおかしい」


 私が待ったを掛けた。理真と、宗の顔もこちらを向く。私は安堂家のテレビを指さすと、


「見てのとおり、このテレビは部屋のコーナーに据え付けられたローボードの上に載せられていて、テレビの左右は壁にぴたりと付いた状態になっている」


 うんうん、と理真と宗もテレビのほうを見ながら頷く。私は続けて、


「加えて、テレビの画面下枠とローボード天面との間には若干の隙間があるけれど、その間隔は五センチもない。あまりに狭すぎて、いくら猫といえど、とても入り込める幅ではない。さらには、ハードディスクはテレビ裏のかなり奥に位置しているため、前脚だけを入れてスイッチに触れることも不可能」


 これにも安堂姉弟きょうだいは頷いた。


「したがって、猫がこのテレビの裏側に入り込むとしたら、その手段はただひとつ。テレビを跳び越えていくしかないわ」

「確かに」

「江嶋さんの言うとおりだ」


 理真と宗は納得したようだ。


「わざわざ、そんなことする? この家に初めて来た猫が。いくら狭いところに潜り込むのが猫の習性だからって、この部屋には猫にとってのパラダイスにして、地上最強の暖房器具があるんだよ」と私は居間の中央に構えるこたつを指さして、「これを無視して、空気の冷えた部屋の隅っこであるテレビの裏に入るなんて考えられない」

「た、確かに……俺なら、絶対にテレビの裏よりもこたつを選ぶぜ……」


 宗が、ごくりと唾を飲み込んだ。人間がいきなりテレビの裏に潜り込んだりしたら、間違いなく病院に連れて行かれるけどな。


「由宇の推理はもっともだけれど」と理真は、「でも、それでもポン太はテレビの裏に入ったはずよ。テレビを跳び越えるという手間を掛けてでもね。それ以外に、ハードディスクの電源が切られていた理由を説明することは不可能だもの」

「それはそうだけど」

「理由も分かってるわよ」

「えっ? 本当に?」

「そう。由宇の推理はある意味的確だったわよ。ポン太は、まさに暖を取るためにテレビを跳び越えてしまったの」

「どういうこと? 理真」

「私たちは、このテレビの裏側には三角形の空間があるって分かるけれど、猫にしてみたら、どう? 正確には、猫の視点に立ってみると」


 そう言うと、理真はその場に伏せた。ちょうど目の高さが猫のそれに近くなる。私も同じようにして、理真の真似をしてテレビを見上げてみる。


「どう? 左右は壁で、下はローボードがあるから、テレビの裏側がどうなってるか、全く分からないでしょ」

「うん、確かに。でも、それが?」

「ポン太がこれを見たら、どうなるか?」

「……どうなるっていうの?」

「テレビを跳び越えちゃうんじゃない?」

「どうしてそうなる!」

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