ワナビにしてピアニスト

 沙里ささとさんは近田ケル人と男女の関係であり、紛れもなく一級の創作者でありかつ芸術家として闘う漫画家である彼から、「キミはプロにはなれない」とをされている。


 さっき、わたしもダメ出しされた。


 今は成長過程なんだ、とか、今に見ていろ、という闘志を持つにしても、


「あなたは死を意識するぐらい創作に向き合っているのですか?」


 と、突きつけられた。


 ああ・・・


「嶺紗ちゃん、ここ、ここ」


 沙里さんはそう言って防音ルームのドアを開けた。


 グランドピアノが二台、向き合って置かれた部屋。

 その奥の一台に、ハイパーショートの小柄な女性が座っている。

 ううん、大学生であろうという先入観を取っ払えば、女の子が座っている。

 どういうわけか鍵盤に触れずに手を膝の上に、しかも手のひらを上に向けて目を閉じて。


 わたしたちの気配に気づき、目を開いた。


「おお、沙里。今日もるかい?」

「さき。今日はわたしじゃなくてね、この子」


 さきと呼ばれる沙里さんの同期生は音楽学科のピアノ専攻だという。軽くわたしたちは自己紹介した。


「ふうん。嶺紗れいさちゃんか。デキるの?」

「わたしのピアノの先生のお孫さんだからね」

「ほう! そりゃあ期待できるね!」


 沙里さんはわたしのピアノを聴いたことはない。

 でも、まあ祖母に1歳の頃からピアノの前に座らされ、3歳からは毎日リストの超絶技巧を弾いてきたわたしだ。


 実はコンクールなどに参加したこともない。


 そんなわたしを、さきさんは指でくいくいと誘う。


「連弾、やろう。曲はね」


 いたずらっぽく、少女のように笑う。


「in C sharp minor」


 なるほど。

 超絶技巧にも程があろうというほどの速弾きの曲だ。

 スピードの限界に挑戦する曲だ。


「いいですよ」


 そう言ってわたしは彼女と向かい合って自分のピアノに座る。

 背の低いさきさんは頭の上がちょろっと見える程度だ。よく見るとハイパーショートの髪なのにツンツンと癖っ毛が目立つ。


 まるでパンクだ。


「ついておいでっ!」


 この曲の極めてロック的なイントロから演奏になだれ込む。不意を突かれたけれどもわたしの指も自動的に動き出す。


 彼女の癖っ毛が、揺れてる。


 テンポが、速い。

 しかも、徐々に速くなる。

 わたしをしてるんだ。


 彼女の癖っ毛が、揺れる→跳ねる になった。


 けれどもまだまだ余裕のあるスピードだ。ただ、驚きなのが、彼女の鍵盤を叩く力が、ハンパないようなのだ。

 向き合うわたしのピアノにまでその振動が伝わるようだ。


『うわ・・・』


 彼女の顔半分がピアノの上に上下して見え始めた。

 どういう弾き方をしているんだろう。

 椅子に座って聴衆として聴いている沙里さんと恵当けいとの表情が段々と唖然としたものになっていく。


 さきさんは多分、ジャンプしながら弾いてる。

 ロックバンドのキーボーディストじゃあるまいし。


 しかもあろうことか、


「はっ!」


 と演奏中に気合の声を発した。


 それを合図にスピードが加速する。

 多分PCのブラインドタッチすらこんなスピードでは打てない。

 わたしも心の中で気合を入れる。

 脳内で滅茶苦茶に始めた。


『ちゃつとちゃちゃちゃ、ダダン!』


 歌に合わせて無理やり指を動かす。

 つりそうだ。


 さきさんがジャンプする度に彼女の椅子がガタタっ、と音を立てる。

 ジャズでもなくロックでもなく、クラシックのピアノ。


 でもわたしにはわかる。


 こんなパンクみたいなクラシックの曲、


「クソ、クソ、糞おっ!」


 という、世の中どうにかならんのか、というようなぶつけようのない激情を鍵盤に叩き込む精神でないと作れるわけがない。

 演奏できるわけもない。


 ただ、とても不思議なことに、時折目のあたりまでジャンプして飛び上がるさきさんの表情が。


 心から楽しそうなのだ。


 エンディングのクライマックスだ。

 もはや人間の運動能力というよりは、物理学を超えた領域の指の動きに入った。


「ホウっ!」


 さきさんの勝鬨のような声で最後の音を二人同時に叩いた。


 瞬間、沙里さんと恵当が椅子をガタン、と倒して立ち上がり、手のひらの感覚が麻痺するぐらいの大音量で拍手してくれた。


 さきさんがやっぱり小柄の小学生みたいな容姿でわたしの背中をぽんぽん、と叩こうとする。

 爪先立ちで背伸びして。

 そして、こう言った。


「嶺紗ちゃん、ウチの大学、おいでよ!」

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