2月18日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでサリーム・ムラード監督の「このささいな父の存在」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでサリーム・ムラード監督の「このささいな父の存在」を観る。


2016年 レバノン 103分 カラー・白黒 Blu-ray 日本語字幕・英語字幕


監督:サリーム・ムラード


仮に自分が賞を与える権限を持っていたならば、この作品に授与したことだろう。そこには自らの趣味が大前提にあり、この映画はエキセントリックだからこそお喋りで繊細で、映画を構成する要素にゲイとして裸で登場する監督自身の細微で鋭い耽美的なセンスが毛細血管のごとく走り分かれ、退廃的ではないナルシズムを持ったエゴイストは日常から備わっている詩的雰囲気で類稀な映画作品の完成を見せている。


良い点をあげていけば、映像の色合いが良い、ナレーションの言葉のセンスが良い、構図が良い、カメラワークが良い、登場する人物が良い、扱う主題が良い、主題に関連させるメタファーが良い、そしてすべての編集が良い。


いわば良い尽くしで詳細な感想を述べることなく終わってしまうほど自分にとって魅惑の作品となっており、上映終了には微動だにせず劇場の灯りが戻るのを待ち、さっと鞄を持ち上げ、外へ出て、電話をしてから自転車を走らせる動作まで、映画の雰囲気が自分に乗り移ってやけに気取りを演じたくなるほどだった。


それほどこの映画は奥深いところを突いている。焦点の中心に父親を置いて、自宅の手放しと引っ越しなどの出来事を絡め、家と家族から連なる祖先と親戚だけでなく、ゲイである監督自身の血筋の途絶えを問題意識として浮かび上がらせ、そこに様々に関連する人物のナレーションを紡いで作品は編まれているのだが、そこにすでに簡略に述べたあらゆる要素の良さが驚異的に展開されている。


この映画の舞台がレバノンということで、旧約聖書から借りたアブラハムから始まりソロモンまでつながる系譜のナレーションがどれほど意味を持たせるだろうか。わからないながらただ名前が羅列されるだけで大いなる歴史と深遠なる人類の謎は情感を揺らし、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」のような壮大なメタファーとして監督自身の家族関係がはめ込まれる。これがただのフィクションでも巧みな構成となっているが、作為的な映像が多分に挿し込まれていても、この作品は紛れもないドキュメンタリーとしての事実があり、父子の別け隔てのない率直な会話のやり取りとぶつかりは、レバノン人ながらエスプリという言葉がぴったりするほど才気ある問答となっており、下手な脚本では決して生み出せない精力ある知恵と感情が互いを理解し合わずに理想に見える仲の良い親子を映し出している。


親子だけでなく、父の肉親、祖父も加えたドキュメンタリーは皮肉を持った神の操作による連鎖が多方面から描かれており、もしオチがなく作品が終わったとしても、見事なセリフの組み合わせに満足するだろうし、例え耳が聞こえなくても字幕と乾いた大地を写す映像や、モノクロとカラーを組み合わせた高低、鋭敏から温暖まで、手持ちカメラで変に臨場感を出したりしないベイルートの稀なカットの構成に納得するのだが、未来へつながるムラード家のもう一つの家族が現れ、監督がそれを繋いで呪いについて父親に告げるあたりのシークエンスからラストまでは、疑いなく魔物のような手腕をみせている。


思えば、アジア旅行から帰国した若かりし自分は、始めた仕事の縁で国道16号線の八王子あたりの渋滞に巻き込まれていた時に、たまたま隣の車線にいたレバノン人に話しかけられ、中古バイクの取引が行われたことがあった。そこで知り合った兄弟は、多弁な兄は帰国することになり、あとあとあまり口数の多くない弟とバイクの売り買いをしたのだが、ちょうどその頃はレバノンでヒズボラによるテロ行為がニュースとなっていて、てっきりイスラム教徒だと思っていた自分はそのことを口にしてイスラム過激主義について言及すると、ジャーナリストの父を持つその弟は、レバノンはキリスト教徒も多いと反駁してくれた。


アラビア語を話すからイスラム教徒というわけではない。むしろイエス・キリストの生きていた土地に近いこの国は、原初キリスト教徒らしい雰囲気が強く残っているのかもしれない。その証拠に、この作品はフランス語とアラビア語で話されているものの、ミサの鐘が響き、ラストには振り香炉によって音が鳴らされる。


ある人によっては退屈であるだろうこの作品は、美意識によって生み出されているが、決して空虚はなく、日常的な疲れもなく、富裕層による余裕をもった作り物であるにしても、扱う主題と描き方の豊穣さは間違いなく文学的な底深さがあり、知能と感性の働きは芸術としての存在感に達しているだろう。

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