1月22日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでマレン・ビニョヨ監督の「ラ・カチャダ」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでマレン・ビニョヨ監督の「ラ・カチャダ」を観る。


2019年 エルサルバドル 81分 カラー Blu-ray 日本語字幕・英語字幕


監督:マレン・ビニョヨ


幸せなことに、児童虐待や親の不仲といった家庭環境とは無縁で、放任主義の中で親の愛情と保護に守られて限りなく自由に成長させてもらった自分としては、学歴や職歴はあまり褒められたところはないが、心の傷やトラウマといったものが何一つなく、今日の作品に登場する女性たちの心情はとてもはかり知ることができない。それは何もこの映画に限ったことではなく、日々の人間関係や社会情勢の中でも時折それぞれの持つ葛藤や悩みを聞くが、心底から理解することはできない。経験を持たない上っ面の想像力で同情を寄せるからこそ、疲れや寝不足ですこしでも自分の状態が不安定になれば、たやすく同情を失って自分本位の考えを相手にあてはめてしまう。つい軽々しく打開策を口にしてしまうが、よく聞くように、解決方法を知りたいのではなく、ただ話を聞いてもらいたいだけ、そんな言葉で優しくないと切られることは昔から多々あった。今は映画や小説だけでない経験で他人の心を少し知れるようになったが、本当の自分の心といえば、いつだってその場しのぎの同情なんかよりも、一に解決策、二に打開方法が欲しくなる。そこに我慢が当てはまれば、とにかく表面は凍りついたような顔面をして表情を動かさなくても、裏で一人くすくす笑いとばすことになる。


そんな苦難を知らない人間はこの映画に登場する女性たちを適当に断罪しかねない。しかしこの作品はドキュメンタリー映画という言葉で的を撃っているように、児童虐待の経験を持ち、だからこそ負の連鎖として自分の子供に虐待した経験を罪として持っている姿がありありと撮られているので、そう安易な批判や不干渉を観客に持たせることはさせず、血のつながりだけでなく、育った環境という遺伝子の連環が強い作用を及ぼしていることに同情をもたせるだろう。


他人の作り出した戯曲の登場人物を借りて演じるのではなく、劇団ラ・カチャダとして役作りに集中するそれぞれの女性は自らの体験と苦悩と対峙して、心の底に沈めてある自分だけでなく他人からも掘り起こされたくない観念を直視して自身を再生させていく。その稽古の過程がいくつも画面に描かれているのだが、演劇らしい時と場の再現の中にぞっとするほど迫真の演技が勃発してしまい、忘れて締まってあった嫌な過去が一気に顔を覗かせて破廉恥をするように、自動再生の体験が親からの譲りものとして彼女たちを苦しめていることを何度も映し出す。ただ泣くのではなく、男性よりも女性だからこそ頭よりも胸で感情を労り、許しを請うように、魂からの呵責とどうにもならない辛さが目から涙を流させる。


それだけなら苦しい映画となるが、女性の素晴らしいのは陽気に笑い合える仲の良さがあるからだ。それぞれの痛みを分かち合い、パンダのように肥えた女性たちはころころ転がってきゃっきゃっとするのは、中米の人達の気質もあるだろうが、睦み合いを自然にする素朴な太陽と、やはり生きんとするたくましさをもっているからだろう。


ラストの演劇本番までの流れは順当だからこそ、作品はフィクションでない強い感動を生み出す。演技を通じてトラウマを掘り起こし、痛ましいまでに向き合って輝かしいカーテンコールと拍手を得た姿は、実際に舞台を観ていない観客であっても素直に称えることができる。


逃げることを許されない家庭環境での経験を持った彼女たちが、これまた目を背けることなく自分を変えていく姿にただ感動するだけではない。そんな彼女たちは世界中に無数といる。子供も大人も、どうにもならない貧困などで弱く痛めつけられ、我慢できずに弱い人間の姿をさらしてしまう。そんなこの世の不条理に目を向けさせることが、この映画の持つ意味深さなのだろう。

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