1月11日(月) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「どん底」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「どん底」を観る。


1957年(昭和32年) 東宝 125分 白黒 35mm


監督:黒澤明

脚本:小国英雄、黒澤明

原作:マクシム・ゴーリキー

撮影:山崎市雄

美術:村木与四郎

録音:矢野口文雄

照明:森茂

音楽:佐藤勝

出演:三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、中村鴈治郎、千秋実、藤原釜足、根岸明美、清川虹子、三井弘次、東野英治郎、田中春男、三好栄子、左卜全、渡辺篤、上田吉二郎、藤木悠、藤田山


ゴーリキーの戯曲を元にしてあるだけあって、この作品は劇映画として固定されている。限られたセットの中での人間模様にエネルギーが注ぎ込まれていて、演劇特有の眠気を誘う展開も含まれてはいるものの、休みなく登場人物が存在をアピールしてけたたましく絡み合う。


どん底へ落とされるまでに各役者はよほど叩き込まれたのではないかと思われるほど役作りは化け物じみた様相を生み出しており、作品名通り人が生きるのに最低限の環境と思われる荒れた生活状態となっている。


この映画のすばらしいのは主役として突出する人物が見あたらないほど全員が魁偉な役割をむき出しにしており、この中の一人でも他の映画に出演すれば作品の印象に大きな染みを残すであろう煮汁が漏れだしている。


ロシアの原作の持つ作品の本質が壊されずに移植されており、どこの国でもこれら底辺と言われる場所にいる人々の姿は似通っていると思わされるほど、ぼろを着た日本人は泣くにも悲しむにも、ぼけるにしても全精力を向けている。


脚本の良さが第一に光っていて、説法臭い話でも茶化す言葉でも、どれも切り返しの巧みな庶民の知恵が鋭くあり、同情しても素直になれず小馬鹿にしてしまい、この環境にいることの意味と定めを報せるように、たやすく場所を離れる道を選ぶことはできずにいる。


過剰なまでの演出は全編をわめき通し、しめやかな雰囲気をわずかでも流れさせまいとする小煩い人物が餓鬼のように動き回り、悲惨だからこそ笑ってごまかすのではなく、惨めなままにあるからこそおもわず笑ってしまうのは、ぼけた老人が相手の言うことをまるで聞かずに戯言を言う面白さがある。


こういう人達を観ると、山谷の六人部屋に泊まっていた時に、日雇いのおじさん同士が嘆かわしい喧嘩をしていたことを思い出す。その時の口調はこの映画に流れる色調と同じで、今日の上映後に便所に入ってみれば、大きな痰を便器に吐き出したじいさんが扉から現れ、「映画はどう、終わったの」というよくわからない言葉を見知らぬ人にかけていた。そのおじさんの背後にぴったりいた自分は、「じいさんみたいなのがたくさんいた映画だよっ」という文句が浮かんだ。


そこでセリフを声に吐き出したら、まさに自分も似た役割を演じるであろう心を打つ作品だった。

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