12月26日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「羅生門」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「羅生門」を観る。


1950年(昭和25年) 大映(京都) 88分 白黒 35mm


監督・脚本:黒澤明

原作:芥川龍之介

脚本:橋本忍

撮影:宮川一夫

美術:松山崇

照明:岡本健一

録音:大谷巌

音楽:早坂文雄

編集:西田重勇

出演:三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実、上田吉二郎、加東大介、本間文子


名前からして響きも衝撃もあるこの作品は、昔小さなパソコン画面で観た時は退屈でたまらなく、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことがわからなかった。芥川龍之介の作品が前提にあったせいだろう、「藪の中」を混ぜての脚色そのものを理解できずに疑いを持ち、忠実な再現にならないことに異同の不満を持っていて、演技や編集を観る目がないせいで暗くつまらない映画と決めてしまった。


再び有名なこの作品を前にして、いかに観賞する目が自分になかったことが知れた。土砂降りの門での雨宿りのシーンからして、時代観がみなぎるほど渡っており、それから各人物の再現から、どれも否定ばかりしていた人物に最後の真実が語られるまでの運びは、緊迫とは異なる不可解な疑惑の息詰まりが連続している。


どうしてこの作品を面白くないなどと言えたのだろうか。連日観てきたダンディな三船さんはまるっきり殻を脱いでいて、初めてその姿を観た「七人の侍」の常軌を逸する人物にようやく近づいた盗賊は、同じ俳優とは思えないほど表現の幅が桁違いに広く、豊かで、独特な人物造形となっていた。黒澤明監督の持つある種しつこいカット繋ぎによる長いシークエンスもあり、森を歩くだけのシーンにどうしてこれほど画面を費やすのか考えるが、これもまた以前の自分には解せなかった導入部の表現だった。


映画は経験した分だけまた楽しめることを実証するのは、俳優に対しての気づきにもあるらしく、おなじみの志村さんでも異なった演技に始まり、唯一三船さんの凶暴な演技に対して真っ向から対峙できる狂気を持った京マチ子さん、蔑んだ目が「バガボンド」に登場する又八に似た森雅之さんと、他の作品で知った俳優陣の異なった演技による絡み合いが、虚実の混濁した森の中で幾重にも物語られ、各話のなかで目立ちながらも細かい役の変化が引き立っている。


前半から早坂文雄さんの音楽が画面に張り付いて一緒に惑わすように存在しており、時にはラヴェルの「ボレロ」のように繰り返される楽節が終わりのない再現話をいつまでもループさせるが、ある時から音楽は消え、蝉の声が位置を占めるようになる。その流れにも語りの真実味が投影されているようで、次へ次へと塗り固められていく人間のエゴイズムと偽りの底知れない闇を表している。


侍が登場するから外国に受けた作品と思っていた。もちろんその点はまるでないとは言えないが、映画作品としての構造の堅牢さに、各俳優の優れた技量が躍動してつかみ合い、多種多様の見方をする人間心理の主題をまざまざと描いた手腕は受賞に値する。男同士の無様な戦いにもただ綺麗に立ち回るのとは異なる殺陣があり、みっともない泥臭さが連続して走り転んで本音も上辺も乱れた魂が何度も慌てて逃げる。


感銘した点はいくつもあるが、今の自分にはこの映画の主題が最も優れた魅力として映る。それは芥川龍之介が死に走った底深い厭世観の一つであり、誰もが自分の目で都合良くしか見れない世の中の真実を突いているが、ここに黒澤明監督が手を加えると、そんな世界であっても望みがあると映画の最後に画面は訴えかける。ただ嘆くのではなく、弱き人を助ける力強い足取りがこの作品にもあり、散々もがき、泥と埃にまみれたとしても、だからこそ人間として、正しい人間性もあると信じて生きるぶれない姿勢に貫かれている。

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