12月5日(土) 広島市西区横川新町にあるコジマホールディングス西区民文化センター2Fスタジオで「シネマアンソロジーひろしまVol.7」を観る。

広島市西区横川新町にあるコジマホールディングス西区民文化センター2Fスタジオで「シネマアンソロジーひろしまVol.7」を観る。


「誰もそなたもご苦労様よ」


2015年 54分

監督:青原さとし

企画・制作:安の花田植実行委員会


「風さそふ」


2019年 84分

監督・撮影・編集・題字:吉松幸四郎

音楽:小方佑馬、小林義男

スチル:石井清一郎

出演:日高徹郎、黒木詔子、高口奈月、中村輝竜、黒長未知子、黒長深優、黒長千笑、黒長雄大、福原和夫、小山さき、吉岡優月、田中美由紀、澤城由香、伊藤敦、塩田靖、播野剛、GAQ、中元義詮、藤岡真由子、宮谷明来、Akemi、桐生凛子、中間谷誠人、深海哲哉、山田明奈、井原武文


西区民文化センターで広島に関わる自主映画を2本観た。


「誰もそなたもご苦労様よ」は、壬生の花田植を聞いたことはあるが、広島市安佐南区安地域での花田植に狙い定めたドキュメンタリー作品で、完成度の高い内容となっていた。


新しい切り口で描くドキュメンタリー表現と異なり、職人らしい形式で詳しく伝える構成となっており、この地域で途絶えた民族芸能の再現と復活を説明してから、2015年で10回目となる本番に向けての準備が細かく切り取られている。テレビ番組で観るような無駄を省きながら多くの情報を含ませたワンショットの編集となっており、その連続の合間に昔の写真から現代の風景の比較を置いたり、当時を知る人の証言だけでなく、古い村長の祝賀となった記念の花田植の資料からその土地の社会構成や隣村と安地域の習俗なども解説されて、社会科の授業で使われてもまったく不思議でない文献としてまとまっている。


それは基本としての取材力の高さから端を発していて、手抜きよりも興味が進んで資料が集まり、そこに物怖じしない土地の人への接近の結果から花田植にやってくる牛の出所や、鞍を作る職人への接近となり、単に安地域だけでなく中国地方の花田植の文化の俯瞰図として視点は広く大きくなる。


それを巧みに構築しているのが経験が物を言う映画人としての力量で、民族芸能の本番に至るまでの様々なカメラの視点は、斜め、遠距離、固定、接近に移動、時間経過に被せなど、小道具や関わる人々の表情を逃さず捉え、そこに田植え歌を混ぜながら映像のリズムを合わせ、情報不足にも過多にもならない的確な伝達にまとめあげている。


個人的には安東駅すぐそばにある「あさ菜ゆう菜」へ行った時に、集合時間前に安川を歩き、安田女子大学の近くを通ったので、そのあたりの風景に早乙女の行列が歩き、少し離れたショットで車通りとアストラムラインの車両運行を含めた音頭取りを目にすると、今にあるべき昔ながらの文化との関係の正解図をみるようだった。もはや以前とは生活形態が異なるとおり、伝統芸能との組み合わせも違った形になるのが当然であって、高層マンションの並ぶ通りで御輿を担ぐのも、風情に欠けるからこそ今の景色として納得するように思えた。


そんな映画を撮った青原さとし監督のアフタートークは非常に興味深く、フィールドワークを基本とする文化人類学の教授のようで、細かな点への疑問から発見につながり、そこから派生して次々と過去を掘り起こすような探求にとりつかれた学者らしい語り口は、使う単語への定義が厳密にあり、曖昧なままにはしない言葉の明確な信頼性を備え、とにかくタフで多くの知識を持った文化人という印象を受けた。広島市内のデルタ地形に地固めの連関など、本人の中で飛躍の後から結実したこともおそらくあるだろうが、生活史から様々な芸能や文化が生まれるという話には、地方に多く見受けられる派手な見栄も多分に存在しているにしても、実利と合理性のなかで人々の生活に沿う労働歌の節がつけられたりと、過酷な作業だからこそ楽しく踊って笑い、陽気に苦労を共にするやり方が生まれるなど、決してどれも無意味には存在しない自然の摂理と実体化を口でわかりやすく証明していた。


そんな青原監督に比べると「風さそふ」の吉松幸四郎監督は対照のように思えた。広島市矢野地区や小屋浦地区を舞台にしたこの作品は、以前に観た「かわひらこ」と同じ色合いを持った内容となっており、その時の第一印象を持っているからこそ、吉松監督の作品として接することができた。


脚本力や演技力に焦点を当てればはぐらかされてしまうので、あくまで画面と音楽の色が生み出す雰囲気だけを感じることにした。するとやや眠くなることはあるが、何かを探して見つからずに苛立ったり、固定観念から外れたところで無意味に粗を拾ったりすることなく、ふわふわと海月のように映画の波に浮かぶことができる。


もちろん広島豪雨災害という出来事から目を背けることはできないが、気張って感傷的になることもなく、その自然が起こした悲劇がいかに家族に影響を与えたかを感じることはできる。劇的な場面はなく、あまりに淡い人間関係に自身の感受性が消化されるほど浮き世離れしているようにも思えて、鼻白む場面もないことはないが、吉松監督のスケッチとしてその瞬間の発生が張り付けられている。それはアフタートークで聞いたロケ現場の話の後付けにもなるが、作品を観ていれば背骨を持たないような運びに少なくともそれらしい印象は覚えるもので、ドビュッシーのピアノ曲のように象徴的ともとれるが、劇中に登場する松毬の話を聞けば、観賞者は神経を無理に張りつめる必要もないと肩の力が抜ける。


とはいえ画面の色合いは繊細で、絞りとぼかしの効果的な組み合わせや、石井さんの劇中で最も説得力とドキュメンタリー性を持った写真の挿入や、多様な音楽とその調和などは表現としての意思を強く持ち、シナリオを欠いたロケ現場であろうと、集められたショットからの編集は映画監督として構成力が問われるところだろう。そしてなにより、女の子の表情を生み出すのがやけに優れている。


およそ正反対に見えるほど対蹠的な監督の作品はアフタートークでも面白く、ゲストの両端の二人の話談もにやつくところだった。終わりで記録媒体についての話になり、電力の消えた世界になってしまっては何かを残そうとする人間の自然の意志の多くは消失してしまい、映画も音楽も、はたしてどのように記録していけばいいだろうか、なんてそれぞれ話すのを聞いていると、ついつい自分の意見が頭に浮かび、電気自動車なんてワードが出れば、ならば牛車に戻り、かごを花で飾り、歌いながらのんきに騒いでいれば人伝に記録され、気が乗ればそこらの石壁に落書きでもすればいいと思ってしまう。それが歴史のようになり、すこしまえに知った氷河時代の壁画のようにぽっと出るかもしれない。


映画という虚像の世界で、ドキュメンタリーだろうがそうでなかろうが、記憶という要素を共に扱っていた「シネマアンソロジーひろしまVol.7」だった。

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