10月14日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで大島渚監督の「日本の夜と霧」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで大島渚監督の「日本の夜と霧」を観る。


1960年(昭和35年) 松竹(大船) 107分 カラー 35mm


監督:大島渚

脚本:大島渚、石堂淑朗

撮影:川又昴

音楽:真鍋理一郎

美術:宇野耕司

録音:栗田周十郎

編集:浦岡敬一

照明:佐藤勇

出演:渡辺文雄、桑野みゆき、津川雅彦、味岡享、左近允宏、速水一郎、戸浦六宏、佐藤慶、芥川比呂志、氏家慎子、吉沢京夫、小山明子


政治演説には浄瑠璃や歌舞伎のような様式があることを知らされる映画だった。「ピタゴラスイッチ」のように連関される会話劇は、「3年B組金八先生」の教室での発言のように順番が決まっていて、一人一人が姿勢正しく他人の発言を聞き、待ち、被ることなく次の出番を間違えずに構えている。ただし、長回しの撮影には言葉が切れたり、一瞬台詞を忘れたり、息継ぎに失敗したりするなど、あくまで演劇としての過誤を残したまま物語は進行していく。


結婚式で突如として闘争について弁論が始まり、闖入してくる人物も二人いるなど、現実ではおよそあり得ない展開となっているからこそ構成に無駄は少ない。破防法反対闘争で団結した世代の一人が新郎となり、安保闘争で戦う若い女性が新婦となり、挙式の場でパンショットに繰り返されるカメラはそれぞれ闘争に身を捧げるグループを対立するような構図で映していく。


思想があまりにも膨らんで若者を侵しており、形骸化した高等な単語の繋がる弁舌は今の政治家にも引き継がれる美辞麗句があり、漢文調と西洋哲学の翻訳調が組み合わされた口弁は唱えている本人さえよくわかっていないのではないかと思われるほど、デカダンス、近代思想など、本で見つける言葉が物事を硬く限定している。映画で散見する戦時中の規律の良さが進め前倣えのように一貫してあり、抑揚の柔らかさなどなく、当然諧謔などは見当たらないが、あまりに顕微鏡のような真面目な視点だからこそカリカチュアらしい造形にさえ思えてしまう。


世代の異なる闘争の中で、それぞれの思想と個人的な思惑に反省が加わり、晴れの式で責任転嫁と言い逃れのぶつかり合いに様々な回想は繰り広げられて、恐ろしく不孝な人間達に映ってしまう。それは政治思想や闘争におよそ興味の沸かない自分のような人間の感想であって、過去現在の衝突を抜きにして単にその場の結婚を祝えばよいのにと思ってしまうような単純な頭の持ち主では、ややこしい弁舌に悩む知識人達のしつこい石頭の闘争劇には参加できないだろう。ただ、描かれるのは良い悪いではなく、各人が悩み、疑問を持ち、拭いきれない自己呵責を抱えて、厚顔に演説を続けたり、他人を責めたり、亡くなった友人を想ったり、逮捕されて追いかけたり、解決ではない集団の中の模様と様相であって、スパイ疑惑に対して監禁する行為や、その人物を逃したからこそスパイ扱いするのは、軍隊や宗教団体と同じ構造が垣間見え、中国を占領してい日本軍や、地下鉄に毒ガスを撒いた集団、さらには中東地域でネットを活用して猛威を奮っていた国にもあるであろう固定的な思想群団の中で、ねじけた個人から芽の出た悪意の頑迷や、権力を持った虐めの応用にも思えてくる。


今観れば過去の出来事で、違和感を覚えるほどの内容とさえ思えてしまうが、当時の潮流の中で上映されたことが肝心だろう。日頃の生活でも音楽より演劇鑑賞に政治思想と残滓を感じることがあり、人間が題材にされるからこそだろうか。文化と言ってしまえば安易な片付けになるからこそ、歴史として当時の雰囲気を知れる重要な時代の作品だろう。

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