8月14日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでルン・コセ監督の「廣島廿八」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでルン・コセ監督の「廣島廿八」を観る。


1974年(昭和49年) 香港映画 98分 カラー 35mm


監督:ルン・コセ

出演:ジョセフィン・シャオ、チャールズ・チン、クァン・シャン、マギー・リー


「セブン・イヤーズ・イン・チベット」でダライ・ラマが英語を話すことに似た違和感をこの映画に感じるだろう。しかし作品の質がすべてであって、それを納得させるものがあればなんら問題はない。この作品も、日本人役が中国語を話していようと、どういう背景があってこれが生まれたか知らないが、原爆についての解説と平和を訴えかける内容があるのだから、言葉はなんら問題にならない。


ただ、映画作品として観るならば、起伏はあるのだが平板に思えてしまう物語運びや、悲惨極まる原爆投下直後の再現シーンに迫力があるにしても同じシークエンスをリピートするなど、退屈に感じる点はところどころある。人物造形でも、血はつながらないにしても同じ家庭で姉妹として育ったはずなのに、どうしてこれほど人情なく疎ましく思うことができるのかと首をひねるが、この家族観こそ同じモンゴロイドの似た顔立ちであっても、国と文化の違いをはっきり思い知らされる価値観の差だろう。直情的な妹の好ましい性格は被爆二世と知らされてから性質の強さを保ったまま自暴自棄になるが、そこに一切の救いや理解などを与えず、そのまま闘争へと向かわせるところに、青竜刀をイメージする大陸の冷徹な人間観があるように思われる。今まで観てきた日本の映画ならば、やはりそのあたりを和らげたくなってしまう。


全編にうるさいくらい音楽が流れていて、日本の映画だから雅楽を尊重しての楽曲かと思った瞬間に、そもそもルーツは中国にあるのだと思い知った。茶の作法やラストに向かう過激なまでの切腹シーンなどに外国人だからこその解釈があるとおもしろさを感じながら、介錯をして血しぶきをあげるシークエンスの派手な音楽と演出には、中国らしい任侠の熱気が宿っているようで、これはこれで見るべき点があると互いの文化の違いを感じさせられた。


描かれるのは被爆二世に重くのしかかる現実で、連日の広島についての映画作品でも大きく扱われる題材だが、そこにしつこい苦悶を注ぎ込んで結果として救いにならない生のもがきを描くのは、他国の監督が生み出したにしても、相手の立場をおもんばかる関係が伺いしれる。そして、中国人の虐殺も関連させているところが、日本人監督とは異なる見逃せない点だろう。


母親のちょっとした箸の持ち方に納得しつつも、赤みがかった画面の中で広島を説明して平和を伝えようとする姿勢は一貫としてあり、映画作品の優劣を抜きにして、このような考え方をもって作品を生み出す監督が他国にいる事実こそ、なによりも大切な現象なのだろう。

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