8月14日(金) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「堀辰雄の『ふるさとびと─或素描─』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「堀辰雄の『ふるさとびと─或素描─』」を読む。


「風立ちぬ」の印象は宮崎駿監督によって肉化されたようで、この小説も西洋の息吹を感じさせるハイカラな印象はところどころに塗られている。しかし書き出しから終わりまで続く印象は島崎藤村の眼鏡顔が連想されるように、宿場の本陣の衰退を一人の女性に仮託して、そこに軽井沢の成り立ちを知るような説明があり、独逸人の資本を受けて成長するホテル経営が新旧の入れ替わりとして表れ、そこへ嫁いで一年で出戻りする結婚の失敗に時代の変化を受け入れられないメタファーがあるだろう。


約十ページの短い小説の中に大河の流れがあり、登場人物の詳しい説明をするよりも事件を端的に描いて変遷を示す運びとなり、叙事詩などにはならず、フランドルあたりの谷や森の大きく描かれた絵画による小さな人間の点景された紙芝居らしく、個人の詩情に満ちた美文はなく、これといってとりあげたくなる一文もなく、あくまで淡々と流れる時代が写し出されている。この本にも掲載されていた芥川龍之介の「一塊の土」を連想させる登場人物の女性だが、あれほど無言に働き続けるのではなく、いらないと思われる独白文がいくつか挿入されており、描かないことで想起させる心理への焦点ではなく、やはり流れるままに消えていくであろう人間の一部分を置くことで全体を補完している。


淡泊な時間の流れが嫌いというわけではないが、短編としての分量では歴史書を少しさわるくらいの感じとなり、分厚いページと毎日向き合って読後に味わう満足の奔流にいたるまでの退屈な過程の一ページ程度のようで、すらすら流れる自然描写に美しさはないわけではないが、実際の景色を見るような味わい深さは文章から感じられず、やや退屈に思える。ただそこにこの作品の特徴があり、小粒な人間が信州の山で人知れず消えていく叙情こそがこの作品の魅力なのだろう。


“ おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と別居し、幼児をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。

 浅間根腰の宿場の一つとしての、瓦解前の繁栄にひきかへ、いまは吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大きな二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。しかもそのなかには半ば廃屋になりながら、まだ人の棲んでゐるのがあつたり、さすがにもう人が棲まずになり、やぶれた床の下を水だけがもとの儘せせらぎの音を立てて流れてゐるやうなのも雑じつてゐた。

 村の西のはづれには、大名も下乗したといはれる、桝形の石積がいまもわづかに残つてゐる。

 その少し先きのところで、街道が二つに分かれ、一つは北国街道となりそのまま林のなかへ、もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾までひろがつてゐる佐久の平を見下ろしながら中山道となつて低くなつてゆく。そこのあたりが、この村を印象ぶかいものにさせてゐる、分去れである。

 その分去れのあたり、いまだに昔の松並木らしいものが残つてゐたり、供養塔などがいくつも立つたりしてゐる。秋晴れの日などに、かすかに煙を立ててゐる火の山をぼんやり眺めながら、貧しい旅びとらしいものがそこに休んでゐる姿を今でもときどき見かけることもあるのだつた。

 おえふの生れた家、牡丹屋は、もとはこの宿の本陣だつた。何もかも昔のつくりで、二階はいかめしい出格子になり、軒さきに突きでた彫りものの龍にはまだ古い彩色があるかないかに消え残つてゐた。……”


こんな書き出しで始まる素描といえば素描だが、別段好みではない堀辰雄のその個性を知ることのできる作品だった。

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