7月25日(土) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島市民劇場7月例会 こまつ座 第131回公演『きらめく星座』」を観る。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島市民劇場7月例会 こまつ座 第131回公演『きらめく星座』」を観る。


作:井上ひさし

演出:栗山民也

音楽:宇野誠一郎

美術:石井強司

照明:服部基

音響:山本浩一

衣装:中村洋一

振付:謝珠栄

アクション:渥美博

出演:松岡依都美、久保酎吉、高橋光臣、粟野史浩、瀬戸さおり、後藤浩明、高倉直人、村岡哲至、木村靖司、大鷹明良


ひさしぶりの観劇は演劇企画室ベクトルの公演でも観た井上ひさしさんの「きらめく星座」で、市民劇場の公演日程が決まってからこまつ座をずいぶんと楽しみにしていた。それはベクトルさんの劇によってこの戯曲が面白いものだと知ったから、それがこまつ座で上演されるとなると、どのように変化するのだろうかという素直な好奇心から生まれていた。


観劇の経験が増えるほど比較する視点は重なっていくのだろうが、率直に言えば劇らしい正統な劇、などと何も正しくないことを言ってしまいそうなほど変化は少なく、舞台装置が大きく様変わりしたり、登場人物が目立って変貌することもない。これは小さな箱庭で完璧に近い形で上演されたベクトルさんによる既知の情報を前提とすると、まるで親玉が正解の形で現れるようで、座敷と店の区分の違いくらいしか差異は認められず、電光もあったが、舞台装置のおおよその基本は同じだった。


しかしこんな比較はなるべく避けなければならない。まず初めに思ったのが声の聴こえにくさで、松岡さんと粟野さんはよく通り、それに高橋さんと木村さんも聴こえるが、あとの役者さんは声の存在がやや弱く、ところどころ聴こえづらかったものの、これはオーケストラも同様で、聴覚はある程度近づこうとするからイヤホンの小さい音に慣れるように舞台が進行していくと、作品世界に集中してそれほど気にならなくなった。


物語は知っているので、比較と再確認の作業からはどうしても離れられないなかで感じたのは、上演時間の長さが許すテンポと緩急だろう。その尺の長さのせいか2幕の中盤途中で、突発する発作のような気のゆるみを感じ、目からだらだら流れるあくびの涙に促されて、集中するよりも二分ほどの睡眠に意識を向かわせることになった。ただそのテンポがあるからこそ、各場にいくつかある隠し事をする場面で実に効果的な緊張感が生み出されており、乾杯の場面でも不可解な間の長さが使われたのだろう。


女性の強さと威張る男性の弱さが目立つ中で、松岡さんの演技は太く大らかにあり、粟野さんの演技は規律の中で野放図に突貫するようで、役者と演出の違いでこうも登場人物が生まれ変わるのだとその違いの面白さをつくづく感じた。特に後半にはおせっかい親父のような性格が前面に現れる幅の違いはさすがだと思わされるものの、ベクトルさんの公演での若く男前の役者による上品さもそれはそれで良い味だと思い返すことになった。それは瀬戸さんの役も同様で、やや声は小さいが、可憐で健気な女性像の体現を観ていると、姿勢の良さからもわかる心根の美しさは、たしかなキャスティンだったのだと団体の異なる両公演をそれぞれ納得するようだった。


全体を見通せば上演時間の長さに見合った大きな作品ではあるが、描かれているのは特別でない家族と知人のそれぞれの生い立ちと趣味に結ばれた関係であって、思想や立場の違いをつい越えてしまう人間同士の触れ合いの豊かさが歌と踊りで彩られていた。一歩ずれれば退屈に陥りかねない内容に味を持たせているのが音楽の重要な役割であり、一方的にならないバランスの良いセリフ運びに変に突飛にならない展開と、わざとらしい息子の登場と変遷などの細かい工夫が、自由な人間精神の諧謔や形骸化された思想の背後に潜む人間悪の露呈などをユーモアある風刺に仕立てている。


とはいえ、熟成された舞台らしいこまつ座の公演ではあるが、優劣つけられない駄々っ子の感想を言えば、もう少し近い距離で役者の表情の細かい変化を見たいものだ。プロの劇団とはいえ、距離のある場所で眺めるのは全体を把握するのに適しているとはいえ、役者のエネルギーを直には感じられない。ベクトルさんの公演は、観客も一体となっていた細胞らしい有機的な箱の中にいたので、歌と踊りが遠い世界ではなく、呼吸が聞こえて恥ずかしくなるほど近く、だからこそ一緒に体の揺れてしまう一体感があった。


世界が違うと言ってしまえばそれまでだが、観客の多くが中高年で成り立っている市民劇場と、多くが若年層で埋まるアマチュアの舞台の違いが、そのままくっきりと分かれているような気がした。どちらかが優れているということはなく、オーケストラと室内楽のような味わいの違いであって、高い水準で磨きあげられた舞台においては、ただ実感する点が異なってくるのだろう。とあるオペラ関係者は資金力が舞台の優劣を大きく左右するというが、制限の中でどのように作るかが腕前であって、ベクトルさんの公演にはその良点が柔軟性というかたちで見事にはまっており、資金集めも力量の一部という見方もできないことはないが、結局具現化された作品こそが雄弁な説得として発揮することは、すでに体験を持った自分の記憶の強さが物語っている。プロの舞台も良いが、手を伸ばせば届く距離で登場人物に触れられる機会はなかなかないだろう。身近に感じられることは観客にとって贅沢な鑑賞の一つであり、それはアマチュアだからこそ生み出せられる演出の一要素だろう。どちらの舞台でも全部を得ることはできず、少しの不満を持ちながらそれぞれの大きな満足を得るのが正解なのだろう。


結局、目的は比較だったのだ。あまり知らないが、知らないなりに感じるところから、広島市内の演劇の階層と区分を考えてしまう。一言で言えば、酸いも甘いも味わうように、レストランのフルコースとお好み焼きを隣りあって食べるように、各々の違いを分け隔てなく謙虚に口にする姿勢が望ましい。だからこそ、若い人は市民劇場にも目を向け、中高年は若い演劇舞台にも足を向けてもらえるといいだろうと、敵性音楽と軍国主義を比喩すれば間違ってしまうようなおこがましい結論におちてしまうのだ。

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