5月16日(土) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「蓬莱竜太『まほろば』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「蓬莱竜太『まほろば』」を読む。


連休からここまで4作品を読み、朗読しながら目頭に感動がのぼるのではなく、まさに声がつまってしまう作品だった。産めや、栄えや、昔からある書物にそんな内容が記されているように、すべての生物にとっての存在の根元としての責任が、今現在も続く女性達の業として絡み合って描かれていた。


話し言葉として経験したことがあるからこそ、九州北部らしき方言は血肉を持って聞こえてきて、種の存続の使命を背負わされた女性達のやりとりは、自分自身の体験のなかで、新参者として正月に集った場での闘争をまさに劇的空間として味わったからこそ、現実の問題として強く響いてくるものがあった。


その二つがあるからこそ、この物語の迫真と力強さに同感して、姉妹を描いた古典作品のいくつかが思い出された。その二つがなかったら、この物語がどれほどの威力で自分を揺さぶるかはわからないが、良い意味でわざとらしいところが組み合わさるぎすぎすした凹凸や継ぎ接ぎのないなめらかな展開は、全4場という形式も合わせて交響曲らしい完成度の中で純然としている。


疑問を持つことなく、ほころびが見えない流れは第一場から読み手を引き込み、種の中の血の系譜という責任の権化が厚かましく物語を展開させていく。二人姉妹というのがよかったのだろう、もう一人増えれば根本に近いところから話が枝分かれしてしまうので、娘という先々の枝だからこそ、血の繰り返しがより強く各要素と関連して意味をもってくる。


描かれる短い時間の中で、ぎょっとするほどの転換や、苦笑いでしか応対できないような場面もあるが、家庭にある本を小道具に使うこのうえない展開などは、見事という他ない調和を物語にみせている。


主題は生命の意志そのものであり、進化によってぼやけて遊んでしまう人間の放縦さが現れているものの、根源的な記憶によって産むことへの本能が呼び覚まされたり、この物語の中で現象はいくらでもあるが、結局すべての行為は種の繁栄に支配されているようでいて、実際はそこから逸脱する人間独自の生き方も対決しているようだ。それはまるで、神への反逆のようにさえ思える。


などと細かく述べれば述べるほど、間違いを犯していくように思えるのは、この作品に傷がないように見えるからだ。近所のおばちゃんを材料に神々を描くようで、そのあたりに転がる石ころで類稀な戦いが打ち鳴らされ、綺麗に生命を賛歌している。熱いまでの言い争いを重苦しくなく、そして軽々しくさせず、品格を失わないどぎつい冗談でせめぎ合う、この生命の豊かさこそ、男の出る幕のない母なるおおらかさと恐ろしさだろう。芸術としての品格だけでなく、演劇は人間を描くことのすばらしい表現だと再認識させる作品だ。

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