3月4日(水) 広島市西区東観音町にあるラーメン店「一心亭」で博多ちゃんぽんを食べる。

広島市西区東観音町にあるラーメン店「一心亭」で博多ちゃんぽんを食べる。


どうでもいい時がある。吹っ切れるとは異なり、一つの事に集中したおかげで、余計な事がすべてどうでもよくなる。安易な比喩で言うならば、まるでスーパーマリオでスターを手に入れて無敵に輝くように、超越した自分を冷静に操っているようだ。もちろん敵がいないなどではなく、穴に落ちれば光は失って元に戻るだろう。残りがあるならば。


要するに自分の意味がわかっている時だろう。これは周囲にとって意味のわからない人間のようなもので、欲するものが明確に定まり、それを少しだけ手にいれて粛然と自暴自棄になっているようで、簡単に言えば義務をわずかに消化した喜びが自己の存在を大きく見せているのだろう。このような勘違いは時にそれらしい様相を帯びるので、迂闊なことをしでかさなければそんなに悪いことではないだろう。


そんな感じでラーメンを食べに行った。目当てにしていた店と間違えて博多ちゃんぽん屋に入る。小鳥の名前のラーメン屋を過ぎ、味噌ラーメンの手前の位置だ。この通りはラーメンが多い。


窓ガラスは加湿器と熱気の朝方のように露に濡れているので、入店間もない自分の眼鏡はしつこく曇っていた。壁に貼られたメニュー表が見えないので眼鏡をとると、これまたぼやけて見えないから、どっちにしろわからなかった。ただ、背後のテレビではコロナウィルスのニュースが深刻に流れていて、中国地方で初めての感染者が出たと伝えている。


どうでもいい時がある。とあるところでテレビの影響力が話されていて、多くの人がそれに惑わされて紙を買い求めたと聞いた。かみにすがるだ。正直、草むらでダンゴムシが発見されて、それを見つけに川原に集まっているのを聞くような心持ちだ。


ちゃんぽんという麺を食べるのは何年振りだろうか。二郎はこのラーメンを源にしているのかと思えるキャベツとモヤシがあるものの、油で炒められているので香ばしい。ついでに豚肉と烏賊もあるので、そのうまみがスープによく出ている。


おいしい麺だ。豚骨魚介のつけ麺に比べれば細いが、縮れのない太めの麺は舌触りが良く、うまみとあまみもあり、噛みごたえもある。博多ラーメンらしく紅ショウガと辛子高菜が置いてあり、牛丼屋よりも薄い色のそれは辛みが早く、突き抜ける痺れも強い。高菜はやはりねっとりと辛い。


麺を食べ終わる頃にはとんこつのスープもよくわかるようになっている。野菜のうまみが上層にあり、すっきりと言うとなんだかおかしいが、それほどくどい豚骨スープではないから、どんどん飲めてしまう。


麺をほじくるとスープの中から蒸気があがり、眼鏡は耳鼻科の鼻に突き刺す噴霧器にあたるように曇り続けていた。帰る時もテレビはコロナウィルスのニュースを報道し続けていた。


ふと思うのは、なんという時代と世界にいるのかと思うことだ。中止、閉鎖、隔離と、非日常の連続が続いている。


今はやはりすごい世界だと、曇った眼鏡でラーメンを食べる自分を対面の鏡に見る。

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