2月28日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで今井正監督の「武士道残酷物語」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで今井正監督の「武士道残酷物語」を観る。
1963年(昭和38年) 東映(京都) 122分 白黒 35mm
監督:今井正
原作:南条範夫
脚色:鈴木尚之、依田義賢
撮影:坪井誠
音楽:黛敏郎
美術:川島泰三
出演:中村錦之助、東野英治郎、渡辺美佐子、荒木道子、森雅之、東恵美子、有馬稲子
この映画はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したことが信じにくい結末となっていた。終わりの印象によってその作品の質が決定されるものだと、上映後すぐはそのように囚われてしまった。途中の印象など過ぎたもので、あとあとに振り返れば全体像として巨視的に思い出せるが、それまで綿々と続いていた深刻な物語の熱量が徐々に衰退して、物語の帰結としてようやく個人の自由が二人の手に結ばれたとしても、幸福よりも不幸を好む他人が多いように、悪い終わり方ではなくとも物足りなさを感じてしまう。それは残酷な時代にいつまでも引きずられていて、現代でも色濃く血を吹き出させることを予感していたからだろう。
会社に忠誠を誓うような物語は、数ヶ月前の大映映画だっただろうか、車の設計図と価格を奪い合う産業スパイを思い出させる。出世や役職というものが、車や飛行機のように興味を持てない人間としてはサラリーマン社会の上下関係というものがおよそ理解できない。それに比べると遠い時代の封建制度の侍と殿様の関係は、社会の教科書に知るのみで、それが今とは全く異なる世界であったからこそとても理解し難く、むしろ理解しようとする働きが自分に生まれる。それに比べるとサラリーマン社会の小賢しさというのは、いくら家庭があるにしても、会社で表面的にぺこぺこしてから夜の酒場で愚痴を散々にばらまくという典型的な循環にあるようで、侍とは異なって忍び方が酒とおしゃべりに費やされ、口をつぐんでぐっと我慢するような強靱な意志と忍耐が存在しないだろう。
その違いがこの映画の各話の好みを分けた節もあるが、序盤から明治時代に入るまでの終盤に差し掛かる演出の凄みの差が大きいだろう。アングルやカットは神経質なほど美的な構図ではなく、カメラワークも奇抜さは少なくて物語を飲み込みやすい編集となっているが、江戸時代における殿様と侍家族の陰惨極まる因果関係など、単純ながら巧みな演出によって背筋が凍結するほどの情感を突きつけてくる。思い出すのが、小山ゆうさんの「あずみ」のように命があっけなく消えて、南條範夫と山口貴由さんの「シグルイ」のように血と性が淫猥な美を作り出す時代であることだ。
命が恐ろしく簡単に奪われるからこそ生命力の滾る各時代に比べると、明治も昭和も、力を使い尽くした残滓のような印象は拭えない。作品の持つエネルギーが途中半ばで切れてしまい、歩くまではいかないが、ペースと躍動力も落ちて何とか完走するために必死になっているマラソンランナーのような衰えで、打ち切りの決まった漫画の無理な終結のようにも思える。
有名な映画祭で賞をとったからといって、鵜呑みにはできない。
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