12月22日(日) 広島市中区本通にあるカフェ「イエスタディ」でカントリードッグと紅茶をいただく。

広島市中区本通にあるカフェ「イエスタディ」でカントリードッグと紅茶をいただく。


人それぞれに場所があり、自分にもそのような所がある。夏ならば平和記念公園やパセーラの上階などになるが、寒い季節は屋内になる。短くない時間滞在できて、人通りを眺められる、そんな場所に限られてくる。


本通りの「ロッテリア」と同じく、「イエスタデイ」に行く。フランチャイズのカフェに比べれば空いていることが多く、雰囲気に重みがある。特段ビートルズが好きというわけではないが、決して嫌いではなく、クリスマスに近づいてポール・マッカートニーが歌っているのをどこかで聴いて、ジョン・レノンよりもこの人のほうが良いと思う。


店名の曲の素晴らしさは誰もが知る通りで、これが歌われたタイミングに想いを馳せて、離れた場所の他人事にしみじみする虚ろな浮遊感も思い出される。


お客が入っている時はあまり長居はしない。そう気にしつつも、気に入りの窓向きの席に座り、食べ、紅茶を飲むのは、間違いなくイギリスを意識してのことだろう。


昨日が何で、明日が何か、職場のカウンターに置かれてあった空鞘稲生神社の広報を手に取り、そこに書かれている毎日の新鮮さを文字で読むも、今という瞬間のありがたみは実感できない。その日、そのただなかはかけがえのない時だとしても、そこまで意識を純化させるほどの極端な働きかけが、常にできるものだろうか。できないからこそこのような語りかけがあり、まるで全身にギブスをするような現在進行に対する実存的な生のあり方を文章で開示されて、捨鉢な気分になる。


最近読んだ「赤毛のアン」で最も気に入ったのが、“あの子は多くの愛情を持った子”、そのような文章だった。愛がすべてを包み込む、ありきたりの文句を文字で喚起された人物にありありと感じて、雨の降る暇な師走の時間に感涙した。かけがえのないものというのは、今読んでいるフランクルの「夜と霧」にも出ていた。実感としての愛の想像は、それが実在するのでなく自らの頭によるものであっても、太陽よりも確かな力を与えるらしい。


それなら少しは知っているかも知れない。細いロウソクや、ささやかな明かりによる小さなにぎわいなど、それが真に迫るからこそ、切なく悲しくなり、忌み嫌うと。それでもたまには、自分を馬鹿にして祝ってみれば、ぜんぜん悪くないと、笑ってしまう。


住めば都の一生で、どこも都で、どこも都でないと感じ続けるほどの機微な心持ちはないから楽だ。ビートルズが流れ、少しは顔を覚えられているかもしれないが、特に会話をするわけではない。こちらが一方的に知っているだけで、それ以上は必要なく、望みもしない。互いに口にならない関係の中の常連であるならば、それはうるさく喋らない木々や光のように、自分だけで相手を知った気になり、思いを募らせるものだろう。


昨日、今日、明日、こんな二文字を並べれば、CMにあったきょうのどこかの音楽で旅にでも流れそうだ。広報に連なった文章だけで今この瞬間に感謝する気にはならない。赤毛の女の子のように愛情を持った存在なんか遠くてかなわない。なんだかどれもやってられない。


気分だけがやかましく、ただ口に入れるケチャップとマスタードのソーセージが、やたら柔らかく、ずっと考えなしに食べ続けられたなら、うるささは消えるか。今の生に対しの忘恩を糧にして、思いきり食らいつく。その実感こそ、文字通りの全てだろうに。

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