12月5日(木) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島交響楽団 ディスカバリー・シリーズ Hosokawa×BeethovenⅢ」を聴く。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島交響楽団 ディスカバリー・シリーズ Hosokawa×BeethovenⅢ」を聴く。


音楽総監督:下野竜也

管弦楽:広島交響楽団

トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

コンサートマスター:佐久間聡一


ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番

細川俊夫:トランペット協奏曲「霧のなかで」

ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調「英雄」

アンコール

ベートーヴェン:月光 1.mov(野本洋介編曲)


この一週間は忙しく劇や映画を観たわけではなく、仕事後に自宅でのんびりする時間が多いのに、日頃ないほどに神経が苛立っていて、急ぎ、焦り、横柄な態度による反省などまるで存在しない言動がこのコンサートの前後で表れていた。以前は常にこのような状態にあり、最近は少し大人になったと思いきや、ただ隠れていただけで、多分、師走の忙しさが単純に肉体労働に置き換えられて、それに強い冷え込みと、ちょっとした動作でも脂の少なさによる掴み損ないも加えられて、ひどく苛立っているのだろう。


そのような状態でコンサートに向かえば、演奏を楽しもうとする率直な気持ちよりも、猜疑心の勝った窺うような偏屈さが全面に出てしまい、信頼を持った土台となる見識も審美眼もないくせに、衒学趣味の背伸びした観察的な意識の持ち方のまま、程度の低い粗探しに終始してしまい、勇気を持って悪し様な感想を述べることができず、愚痴愚痴を補うべく卑屈に自己の状態を弁護するような悪辣な結果となっていた。


というのは大袈裟だが、少し馴染んできた細川さんの音楽と、ベートーヴェンの交響曲の中で最も思い出深く冷たい青春の一風景が焼き付いた第3番に、下野さんの指揮を分析する姿勢は持っていた。はたしてそれが確かなのかは自信を持てないが、良い曲が悪く聴こえる時もあるし、自分の書いた文章が酷く思えても次の日にはわりとスムーズに連関しているように読めることもあるので、結局個人の恣意的な感受性と発露が全てなのだろう。どんなに美味な食べ物も満腹では美味しく味到できず、こころよい音楽も疲れていては眠りを誘う子守唄に聴こえてしまう。


今日の細川さんの曲はプログラムノートに書かれた柿木さんの解説と、舞台上での作曲家自身の説明がわかりやすく、音楽が表現する内容も明晰な印象を持っていた。といっても自分の感覚をフィルターとして再生された気分の様相としての映像で、自然と人間の音の対比が色分けされている分だけ、外界と心象の違いをまざまざと感じることができた。細川さん特有の卓越したセンスによるオーケストレーションの精緻な進展はこの曲でも味うことができて、この違いこそが有名と無名を明確に区分するどうにもならない才能のような気がしてならない。


目を閉じて意識の狭間で流転するいつもの時間を越えてから、ベートーヴェンの第3番は過去と対峙させた。クラシック音楽を聴き始めてまだ年数が短く、人生の岐路を選択して、決心と迷いの中でクレジットカードのキャッシングによる自転車運転の支払いで毎月を凌ぐシェアハウスの一室の、膨れ上がる借り入れと不安と、エスカレーターよりも優しく間違えずに届けてくれそうな破滅に震えながら、寒い晩秋の京都の和室でポケットスコアに目を通してイッセルシュテットを耳に流し、読めない音符を合致させるべく辿りながら、同時期に読んでいたドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフや「地下室の手記」の小官吏と、自分の自意識過剰な英雄と契合していた。そんな現実を見ない心境が、早朝に自転車を飛ばし、桂川の上野橋を渡るところで第4楽章のフーガの疾走感が極度の恍惚感をもたらし、車輪の速度と、嵐山に低く棚引く白雲の美しさといったら、若さだけの一瞬の味わいで、もう二度と得られない鮮烈な情動だろう。


その時の思い出は演奏会で蘇るわけではなく、むしろ下野さんがどのように表現しているか聴いていた。運動的な印象で、弦も管も目立って歌うことなく、規律を少しはみ出した健康的な第1楽章の構造の素晴らしさに感動し、暗さよりも優しさが前に出た第2楽章、音の強弱がエネルギッシュな第3楽章、そして厚いフレージングも増して、開放的で自由に走り出す第4楽章になると、やはり涙ぐましい情感が蘇ってきてしまう。


良い演奏会なのに大きな拍手を連続できない自分がいたのはなぜだろう。仕事のせいで右の手の平が痛く、叩くと響くからだろうか。それもあるだろうが、何かしらの喪失感から体が動く気がしないのもあり、単なる疲れから肉体が億劫だと、数え切れない細胞の集合体でしかない自分という一個人であると錯覚してしまう無数の靄の一塊である意識が分散していたのだろうか。


孤独がこの演奏会で取り上げられていた。誰もが感じるように、常に孤独を感じて生きてきたような気がするが、ただの迷いのような気もする。最も孤独を感じるのが飲み会で酔っ払った時に席を外す立ち小便の瞬間で、あれほど孤独なものはないだろう。最低限の照明で照らす明かりが霧のように霞むのは酔いだけではないだろう。


日頃一人で行動する以外はほとんどないなかで、このシリーズはいつも身近な人と聴きに行く。それが昔の旅行を思い出させる横暴な態度を生んでいるのかも知れない、理由は知らないが。いつも一人だと孤独か、孤独じゃないかなど考えないもので、身近な存在となると他人ではなく肉体の一部のようだから、一緒にいても一人でいるのと実際は変わらないのだろう。


人は人で、その人を自分は全く持たず、その感覚を理解できないということが人の数だけ存在している。恐ろしく孤独に弱い人がいるようで、それは孤独に弱いのかよくわからないが、それが却って羨ましく思うときもある、それがあるから他人との結びつきを生んでいるような気がして。自己完結ほど悲惨なものはない気がするも、そこには究極的な安らかさもあるのだろうか。


血液が凝固して、関節と筋肉にやすりをかけるように滑らかにいかないのが気持ちに表れているなら、おそらく、ベートーヴェンの第3番を好んで聴いていた紅葉の季節と、細川さんの音楽による人間が複合して揺さぶっているのだろう。個人、孤独、自分、どれもまやかしのような気がする錯綜とした演奏会だった。

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