11月20日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで成瀬巳喜男監督の「女が階段を上る時」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで成瀬巳喜男監督の「女が階段を上る時」を観る。


1960年(昭和35年) 東宝 111分 白黒 35mm


監督:成瀬巳喜男

製作・脚本:菊島隆三

撮影:玉井正夫

音楽:黛敏郎

美術:中古智

出演:高峰秀子、森雅之、加東大介、中村鴈治郎、仲代達矢、小沢栄太郎、団令子、淡路恵子、細川ちか子、賀原夏子、織田政雄


言葉は悪いが、この作品は高峰さんを食い物にする映画だろう。劇中でも金を無心する意気地のない兄に向かって、高峰さんは感情的にこの言葉を発するが、観る者はそんな姿をおいしく味わってしまう。実にいやらしい言い方になるが。


酒と一夜により神妙になって体と関係の手切れ金のような株券を置いていく森雅之さん、最近の映画では飄々とした役が多かったので珍しく誠実だと思ったがそうでもなかった加東大介さん、強欲で頑固な金満らしい中村鴈治郎さん、最悪ともいえるタイミングで求婚する仲代達矢さんなど、成瀬監督作品らしく男性は一面的な性格で描かれるも、高峰さんの役と演技は豊穣に尽きる。肥沃な土ならばどんな植物の種を植えても良く育つように、どんな役を与えても高峰さんはその役柄の特性そのものを自然に発露させる。余計な肥料や世話など必要とせずに、すくすくと種の持っている性質が伸びて健全と顕になるように。


「晩菊」や「流れる」などのように女性心理の妙を突いた会話劇は多くなくとも、病後の母とのやりとりでは違和感なく口論に発展して、感情の昂ぶる運びは成瀬監督らしい手腕が発揮されている。森さん演じる藤崎との朝を迎えて別れ、そこに仲代さん演じる小松が闖入して本音をさらす場面までの一連の高峰さんは、女の悲しみが見たまんま伝わってくるが、その心理はたやすく汲み取ることのできない繊細な情動が分散していて、相手の心を取り違えてしまう他はない悲しい嗚咽になっていた。


「流れる」で高峰さんが杉村さんに、女は男がいなくても生きていける、そんなような強気の発言をして、大きく笑われていたが、成瀬監督の作品はこの言葉の反対を常に描き続けている。偉そうにしてはいるが、漫然として芯からの張り合いのない男性ばかり描かれるも、豊かな女性たちはそんな男達を常に傍に求めている。


百花繚乱ともいえる高峰さんの演技が女性の魅力を存分にみせていて、その変化に恐ろしさを感じるくらいだ。強がる姿、酔っ払う姿、汚らわしさを厭う姿、一人にしてと泣く姿、体の関係を持った男性の妻に挨拶する姿など、夜の女性に限らず、女は常に演技をしていると誤解による結論をつけてしまいそうになる。男もしているに違いないが、色男でなければ下手な者が多いような気になってしまう。


はたから見れば気品があって美しい女性は他を食い物にしているように見えるかもしれないが、実際は食い物にされているのかもしれない。そして平凡な人間は、食い物にならなければ、食べることさえできないなどと、わけのわからない考えが浮いてくる。


とにかく、高峰さんの演技力が尋常ではなく、どの女性もあれほどの姿は見せないと思い違いそうになる。本物はもっと想像の枠を外れて出現するだろうに。

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