音楽、映画、美術、舞台、食事、文学、観光についての体験感想文集
9月16日(月) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ中ホールで「20th anniversary フラメンコ Academia de Flamenco 発表会」を観る。
9月16日(月) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ中ホールで「20th anniversary フラメンコ Academia de Flamenco 発表会」を観る。
広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ中ホールで「20th anniversary フラメンコ Academia de Flamenco 発表会」を観る。
カンテ・パーカッション:JESUS HEREDIA
ギター:鈴木一義
バイレ:LA EMI
第1部
オープニング
ヘレスのブレリア
バンベーラ
パタ デ コーラ
ソレア
ガロティン
タンゴ
第1部フィナーレ
第2部
カーニャ バタ デ コーラ
エクストレマドゥーラ地方のハレオ
歌
シギリージャ
ソレア ポル ブレリア
広島の文化情報誌「to you」を読んでいて、フラメンコの発表会があるのを見つけたので、足を運んでみた。小池バレエスタジオの「コッペリア」の観劇経験により、発表会は楽しめるということを見込んでだ。
そもそもフラメンコは歌で聞いたことは何度かあるも、実際にその踊りを観たことがあるのは一度だけで、ユーチューブではなく、セビージャでの公演専用の小屋だったか。
あまり物覚えの良いほうではなく、旅行中のコンサート内容や出会った人を忘れてしまうことが多く、訪れた町さえ消えてしまうこともあるが、セビージャは割に覚えていて、マラガからの夜行バスで朝に到着し、一日中街を観光してから、夜に夜行バスに乗ってリスボンへ向かったので、滞在時間は長くはないのだが、記憶には残っている。フラミンゴという鳥のイメージから勝手に優雅な踊りだと思いこんでいたフラメンコは、せっかくアンダルシアにいるから見てみたいと、特に興味があるわけでもないのに、ケチが染み込んだ旅行中であっても、一日の予算を超えるごちそうとして観たのだ。
その内容の細かい映像は頭に残っていないが、おぼろげな印象は残っていた。明るい曲と、暗い曲の2種類があると英語の説明から大雑把な知識を得て、イメージしていた華やかな踊りでないシャーマスティックな激しさはあるも、むしろ考えていたよりも地味な衝撃を受けた。
その印象は今年の1月に観た烏丸ストロークロックの「祝・祝日」で呼び起こされ、魂結びの舞を観ていて、テンポの激しい上昇曲線のあとの休止、激しい上昇曲線と休止、この繰り返しによる踊り手を痛ぶってトランス状態へ運ぶようなリズムの緊迫感が、フラメンコを思い出させた。ただ、一度しか見ていない踊りが、はたして正しいのか疑問にも思ったが。
それを確かめる意味もあって足を運んだら、期待通りにフラメンコを観ることができた。“神楽”と一言で片づけられないように、“フラメンコ”も様々にあるだろうから、そのわずかでも観ることができただろう。
あらためて感じるのは、手の動き、顔の位置、腰つき、ステップなど、細かな部位に表現が息づいていて、これほど見応えがあるのかとフラメンコという様式の独自性に魅了された。ほとんど見所を知らないのに、カンテのヘススさんの歌声や、ブルックナーの休止をつい持ち出してしまうほどの鋭く、むしろ残酷なほどの時間の停止を迎えるまでの漸層法は、息を飲む暇を忘れるほどの魅惑がある。アンデルセンの童話「赤い靴」の話を思い出し、セビージャで観た女性の鮮烈な靴に、やや太めの足を思い出した。その足が、強烈な叫び声のように、筋肉をずたずたに痛めるほどの早さでステップを踏み、それが繰り返された。あの休止のあとの間合いが、烏丸ストロークロックで観た神楽と似ているのだ。まだまだ、足りない、どんどん踊れと、サディスティックな恍惚を覚えさせるのだ。
ただしこれは入り口を見ての印象であって、もっとフラメンコを知れば、感じ方は変わってくるだろう。素敵な衣装に、綺麗に結った髪の毛を見るだけでも来たかいがある。セクハラとしての発言にはなるが、腰が細く線が綺麗に流れて尻の大きさに合わせて裾の広がるのは、やはり美しい。踊り手の身体の特徴をあげるのは無粋かもしれないが、タンゴもフラメンコも、尻が大きいと本当に素敵なのだ。
それぞれの踊りに見とれてフラメンコの記憶を概ね確かめることはできたが、やはり最後の、プログラムには書かれていないのだろうか、それとも自分が数え間違えたのだろうか、とにかく最後の踊りがセビージャのフラメンコの印象に最も近かった。イタコと言ったらおかしくなるだろうか。しかし、踊りであっても、伝承劇や、もしくは呪術的なエッセンスを感じてしまう。
カンテの歌声の音程にも、コラーンの朗唱を想起させる節があるから、レコンキスタ前のスペインのイスラムも潜んでいるのだろうか。本当かどうか知らないが、インドからのジプシーを考え、乾いたイスラム文化に、西洋文化の再来が混ざり、最も西洋人らしくない形式的なスペイン人の気質を思い返す。
おそらく出鱈目の記憶に継ぎ接ぎの経験が重なってしまったのだろう。それでも、セビージャの夜の憑依的なパッションは確かめられ、フラメンコの魅力は明瞭に見ることができた。
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