8月17日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでクリス・マルケル監督の「サン・ソレイユ」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでクリス・マルケル監督の「サン・ソレイユ」を観る。


1982年 フランス パンドラ 104分 カラー Blu-ray 日本語字幕


監督・撮影・編集:クリス・マルケル


上映開始後に入場すると、干からびてひび割れた大地に、水溜りがあったであろう窪みと、まるで細胞核のように中心に沈む化石化したような白い角のある動物の死骸が映った。ペドロ・コスタ監督の「ホース・マネー」でその存在を知ったカーボ・ヴェルデという国名が流れて、牛などの動物の顔をかぶった黒人が祭りで騒いでいると、阿波踊りになった。


ナレーションは男性の声ではなく、女性で、語られる“彼”や、“山猫”は誰だろうか。清少納言の引用から、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党まで、語られる内容に一致は見えないように思える。距離の長さ、文化の遠さ、語られる言葉の繁雑さに、映像にはエフェクトがかかって電子音が流れる。


日本の文化についての多面的な映像と言葉が多く、自分も経験した子供の頃の日本を、よくもこのように描き出したと感動を覚えた。日本人では決してやり遂げられない、外国人だからこそ探し得た随所は、空想と幻想だけがたどり着ける場所のようだ。


この作品に理解は要らない。言葉を一度に解するにはよほど高等な頭脳と、膨大な教養と知識に、剥き出しのセロハンテープのような何でも取り込んで離さない感受性が必要となる。最初に聴いただけで、マーラーの中期から後期にかけての交響曲をほとんど理解するには特別な才能がなければならないように、この作品は一見するとモザイクしかない。しかし、画面はわからないながら確かな効果を与えていて、映画らしく、言葉を除外した映像だけが一番頼りになる。


個人と、詩そのもののこの作品は、繰り返し観てこそ味わった気になれる乾物だ。今は亡き昔の日本に、日本人の一体どれくらいが存在を知っているかというカーボ・ヴェルデとギニアビサウが、どう繋がるのだろうか。阿波踊りの美しさに、子供心で感じた日本での戦争という事柄への衝撃や、知らないことだらけの昔に在った文化が映り、蘇る。この映画は渦なのだろう、観たことのないヒッチコック監督の「めまい」が言及されて、渦と渦を見つけていく。ムソルグスキーの歌曲がこの映画の名となるも、“”Без солнца”と、“Sans Soleil”では、あまりに言葉からの印象が異なり、邦題も入ると、この歌の存在を知らなかった自分には、どれもが違った存在となる。


エンドロールに冨田勲さんの名があった。ムソルグスキーの曲だろうか。クリス・マルケルの作品を幾つか観てきて、日本、テクノロジーの関心をうかがえる。何かの遊戯のように、穴に針を刺すあまりにも古い電子機器は、自分にとってポケベルと同じ興盛と、足早に去る時代の幕間を感じさせる。


イヴ・モンタンの映画は絵本だった。イスラエルの映画は歴史の教科書だった。上映後に、難しい、難しい、なんて言葉を数回、異なる人から漏れるのを聞いたが、悪くないことだ。


映像も素晴らしい。けれど自分にとっては、難解で、映像を狂わせるほどの効用を持つ言葉こそ、クリス・マルケルなのだと、理解など到底届かない浴びるだけのナレーションは、本当に素晴らしい。

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