8月8日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒沢明監督の「八月の狂詩曲」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒沢明監督の「八月の狂詩曲」を観る。


1991年(平成3年) 黒澤プロダクション 98分 カラー 35mm


監督・脚本:黒澤明

原作:村田喜代子『鍋の中』

撮影:斎藤孝雄、上田正治

音楽:池辺晋一郎

出演:村瀬幸子、吉岡秀隆、大寶智子、鈴木美恵、伊崎充則、リチャード・ギア


最近は広島の原爆に関する作品に触れる機会があったので、長崎の原爆についての作品を前にして、いかに広島ばかりに目を向けていたと気づかされた。


ドキュメンタリーだっただろうか、一度だけ長崎にある教会に関した映像を観たことはあるが、それ以外に記憶はない。広島の原爆との違い、落とされた土地の地形、影響の範囲などは資料でおぼろげに知ったことはあるが、広島のような焼け野原や人々のイメージは頭にない。ほとんど知らないのだ。


子供たちだけで長崎の街を観ていくシーンは、原爆についての真面目な解説のようだ。小学校のグラウンドには錆びたジャングルジムらしきモニュメントが残り、一方的な風の流れを感じる潰れかたをしていて鮮明な記憶の造物となっている。


音の外れたオルガンが鳴り、都会の子供にしてみれば魔法のような田舎の風景は、自然に溢れている。年寄りらしい話し方が自然と怪談のような雰囲気を出しているおばあちゃんの昔話に、雷の落ちた二本の杉や、河童の出る滝などの鮮烈な映像があり、太い樹木の立つ森閑とした森に、水底が翡翠に煌めく滝壺などは、象徴とした幻想的な色があり、夏の子供の目に褪せない原画として永遠に残りそうだ。


子供たちは信実な心根を持って登場していて、おばあちゃんの家や料理に憚らずに直言して、苦笑いしてしまうシーンもあるが、長崎の原爆について知ってからの、ハワイに行こうとしないおばあちゃんの態度への理解は、とても素直に共感できる。


パイナップル農園に浮つく打算的な大人に、ハワイからやって来て配慮の足りなかったことを詫びる外国の親戚など、複雑さを取り除いたいくぶん単調に形骸化されたような人物像はすこし物足りなく思えるが、「生きものの記録」のような何をしでかすかわからない狂的な要素はこの作品にそれほど必要とせず、長崎の原爆について向き合うことが第一とされる。被爆者、その家族と子供達、その親戚のアメリカ人、時代と位置の異なる人と人の出会いによる理解や、もしくは和解が憚りなく描かれる。


モノクロ映画での黒澤明監督のイメージとしては、なんだか丸くなったような、少し優しい作品ではあるかもしれない。それでも、夜に子供が河童に変装して現れるシーンや、心の原風景へと懐郷させる夏の縁側や、田んぼのわきのおにぎりのような家屋で読経する老婆達など、目を奪うカットはいくらでも散見できる。


ただ、ラストシーンへ続く暴風の演出はどうだろうか。雲の発生の短いショットは「蜘蛛の巣城」の森の移動のような静かなざわめきと予感を暗示して、唐突で不自然極まる雨風の強さに、笑いさえこぼれるほどだった。土砂降りを走る中で、子供の声で「野ばら」が流れる違和感は、まるでメリーゴーラウンドに乗るように思えた。その中で、昨日に聴いた「黒い雨」の、“雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降って来るのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。”という文章が思い出された。



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