5月26日(日) 広島市南区比治山公園にある広島市現代美術館で「美術館の七燈」を観る。
広島市南区比治山公園にある広島市現代美術館で「美術館の七燈」を観る。
前回、前々回の続きがずっと頭に残っていた。今日が最終日で、行かなければ終わってしまう。葛藤か、体は家での休息を求め、頭は義務により美術館へ向かっている。頭が勝ち、気温30度を超すという天気予報があまり信じられない雲の多い空の下を自転車でこいで山へ向かう。
かゆみが再発している。自転車と山登りで汗が出て、美術館に入ってベンチに座ると汗疹らしい皮膚の反応がある。やる気がない。
魂がないのではない、心が家に留まっている。前回の続きである第二会場に入って作品を前にするも、ほとんど興味が沸かない。好奇心につられて力の湧く気配がなく、義務に反抗する体と本音が、感覚を遮断している。
それでも、少しは観る。
第4章「残すこと」
作品の修復、コンサベーションの現在
油絵や彫刻と異なるインスタレーション作品の保存について問われている。ブラウン管テレビを使用したナムジュン・パイク、古タイヤなどを使用した殿敷侃、日常品を使ったビデオ作品の田中功起、インスタラクション/指示書=楽譜、それがあれば音楽のように作品を再生できるのか、テレビを薄型テレビにするべきか、もはや残っていない作品を記した写真などの資料も作品か、丸木位里・俊の「原爆ーひろしまの図」の修復はどのようになされているのか。
こんな日は、ややこしいことは考えられず、文章もよくわからない。ただ、日常品である物の性質、動作の組み合わされた田中功起さんのビデオ映像を観ていて、概念よりも、ただただ美を観たい気分だった。難しいことじゃない。単純でもない。複雑でもかまわないから、美を感じさせる作品がいい。間や、空虚さや、背景に潜む何があってもいいから。
珍しく、数年ぶりにショパンのピアノ協奏曲を聴きながら比治山へ来た。ラジオで流れていて、とても聴きたくなった。おかしな日だが、自分が欲しているものがはっきり証明されている。
第5章「積み重ね」
資料と関連作品による活動の記録
広島市現代美術館の歴史を知る。入江早耶さんの「美術館の亡霊」が気になる。コルディリネかドラセナか、消された写真の上に消しゴムの削りカスとは思えない小さなそれがある。作品は見ごたえがあるのに、コンセプトが頭につく。縛り、力、一昨日のブルックナーと、「ハンターハンター」のクラピカを思い出す。
もはや資料を読む力はなく、靉光の作品もわからない。概念はもういい。羨ましいのは、「シュプレンゲル美術館品展」や「立体表現にみるヒューマン・リアリズム展」のポスターだ。家にカタログがある。昔はこんなに作品が来ていたのだ。ファッツィーニやアバカノヴィッチ、昔は勢いがあったのだろう。特別展の連なったポスターは偉大なる歴史群だ。素晴らしいが、時代変遷の悲しさもある。
あともなにかあったが、もう、よくわからない。16:30から、野外で展示されている自転車カゴに飾られた花がもらえるらしい。パンジーやビオラはグッピーやエンゼルフィッシュだ。切り花が出来ない。考えるよりも、ただ水を与えていたいが、一年、二年ではない、長い期間が良い。タドニオイデスの冷血なまでの機能性と愛らしいフォルムと色彩が、メダカや金魚を一瞬で吸い込む。モンステラなどの観葉植物だったらよいのに、けれど、場所がないから困ることだろう。
野外の、ボテロが良い。向こうのアバカノヴィッチも良い。
体温調整同様に、心理の調整も難しい季節なのだろう。
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