5月24日(金) 広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「広島交響楽団 第390回定期演奏会」を聴く。
広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「広島交響楽団 第390回定期演奏会」を聴く。
指揮:下野竜也
コンサートマスター:佐久間聡一、蔵川瑠美
ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調
聴き始めで理解できない作曲家は大勢いた。ベートーヴェンやモーツァルトは名前で聴けたが、ブラームス交響曲第1番は初めて聴いて良さがわからず(すぐに慣れたが)、プロコフィエフ、バルトーク、ショスタコーヴィチ、マーラー、ワーグナーと、多くの作曲家はわからなかった。そのなかでもブルックナーはわからないのではなく、島崎藤村の「夜明け前」を読んだ時のように、生理的に受けつけなかった。ラヴェルやチャイコフスキーなどのとっつきやすさはなく、硬質で、休止が多く、誰よりも退屈な作曲家で、好きになることはないだろうと思っていた。
ところがいつからか聴けるようになり、マーラーやショスタコーヴィチのような偏愛はなくとも、演奏会で聴けるならとても楽しみにしてしまう。下野さんのブルックナーを以前聴いて、良い印象が残っていた。
昨日、能楽のドキュメンタリー映像を観たせいか、形式と制約をブルックナーに見出してしまった。縛りがあるからこそ外に逃げずに蓄積されるエネルギーがあり、繰り返される動作の中で無駄はなくなって磨かれていく。独特の間をもつブルックナーの楽曲に、区画された音の範囲、その中での図太いまでの盛り上がり、きっちりしたメロディーの積み重ね、強烈な楽想を感じた。
第1楽章は自分の体調による眠気の被膜に覆われて音を感じられなかったが、第2楽章から聴けるようになった。甘美ではなく、素朴なメロディーによる精密で繊細な音に、交響曲第7番や第8番のスケルツォからその良さを見つけるようになったが、ブルックナーの別の良さはこのナイーブなアダージョにあることを知ってから、味わいの深みが増した。
第3楽章のスケルツォは壮大で、数学的な進行のリズムで核分裂するような持ち味は、やはり能に通じる機械的、もしくは昆虫的な推進力を感じる。
第4楽章の回想的な構成部分をどう思うかは自分の好みが分かれる。全体として、流暢で、器用で、巧みなオーケストレーションよりも、とあるスポーツ選手のストレッチのルーティンのごとく課せられた鎖のなかでの創造として、力を発揮できるところでは物凄い威力が発揮されていて、ショスタコーヴィチのピアノ曲で聴くフーガのような研ぎ澄まされたセンスによる構成ではなく、もっと生真面目な足取りがしっかりしていて、奇抜のないところが逆に奇抜に聴こえるほどで、それが進行していくと、ブルックナーの素晴らしい音の構造物を体感できる。この姿勢だ。とっつきにくい、捉えやすいようで、あまりに存在の大きな曲に圧倒されるブルックナーだ。単純なようで、本当に美しい曲を作っているのだ。
70分を超す演奏時間で、下野さんの指揮が全体に張り詰めていて、弦は研ぎ澄まされているが、冷たいわけではなく、艶があるのではなく、虫の音のような素朴さに透き通っていて、木管は静かな情感にあり、金管は物理的な力が発揮されていた。聴けていなかった第1楽章を除き、どの楽章も下野さんの命を削るような指揮に聴きごたえはあったが、特に第2楽章の響きが格別だった。
演奏後にブラボーの声は飛び交ったが、自分はそんな気分になれなかった。感動で大声を出すような状況にはなく、終わった、ほっと一息入れないといけないようで、声を出す意識などなかった。そこには、能楽鑑賞後のように、静まった舞台の気配を見つめる気持ちがあり、笑顔の拍手や歓声にそぐわない気がした。やたら真面目な顔で控えめに拍手を始めて、次第に大きく、顔をほころばせていった。
装飾好きな自分の性質とは異なり、ブルックナーは浮ついたところがない。それなのに、他にはない限られた範囲で泣きっ面に蜂のような相乗的な盛り上がりが繰り返されて、たくましく魅了する。あれほど苦手だったのに、歴史に名を残しているだけあって、特別な作曲家なのだ。
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