4月17日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでリティ・パン監督の「消えた画 クメール・ルージュの真実」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでリティ・パン監督の「消えた画 クメール・ルージュの真実」を観る。


2013年 カンボジア・フランス 95分 カラー Blu-ray 日本語字幕


監督:リティ・パン


何かを観たり、読んだり、聴いたり、食べたりして、大した感想の得られないことがある。生活の義務として自分に課し、そこから何かしらを探り、自分の言葉で述べることで、日々の生活で硬直して使わずにしまいそうな頭を、どうにか働かせている。肉体が欲するのではなく、頭がそう動かすので、学校を休むと決めた小学生の息子の手を思いきり引っ張って、引きずるように登校させたり、へそを曲げたロバを散々に叩いて働かせようとするように、並々ならぬ力でそっぽを向いたベクトルを従わせる。そんな時は、仕事でも趣味でも、生活でも、ひどくつまらない成果しかないと思わずにいられない。


とくにわからない対象に対しては、印象が得られない。わからないから、わからないというのが正直な感想で、「何か質問がある人はいますか」と尋ねられても、わからないから考えられず、疑問はわかない。つかめずにいるものを、どうつかんでいいかと、質問でもすればいいのだろうか。


何も起きないのとは反対に、次々と感想が湧き出すこともある。子供の頃に、蛇花火といっただろうか、黒いラムネのような固形に火をつけると、火を吹いてむくむくと膨らむ花火があり、あんなように四方八方に感想が手を広げて、どんどん質量が分散してスカスカになっていくみたいだ。


今日の映画も、頭の中に考えることは少なからずあった。若い頃のカンボジアに対しての個人的な旅行の記憶に、ポル・ポトのクメール・ルージュによる虐殺の印象、全体主義による矯正による共生、赤から広がりベトナム、中国、ソ連へと伝播する社会構造の連関、社会主義と資本主義の対立、帝国主義の覇権争い、投下された原爆の悲劇に、それをいかに伝承するかに対しての位置づけ……、ざっと浮かんだだけでも、大した感想が得られないのではなく、正しいのか間違っているのかも判断のつかない、考えぶった考えが四散する。


この映画は、白黒による過去の記録映像に、だれのナレーションだろうか、リティ・パン監督自身の肉声だろう、淡々と語り、輪郭はしっかりしているが細部が曖昧であるからこその土人形の配置された映像が交わり、監督自身の記憶を基にして、一貫した川の流れのように当時の状況が流れていく。


全編に湛えられているのは冷静に探られた詩情だ。それは過ぎて落ち着いたセンチメンタルのようでもあるが、時代に傷んだ個人が、その連関する個人を思い、偲び、それが家族となり、親類、友人知人、近所や村と広がり、国に起きた不可解な負の歴史の、取り返しのつかない、ポル・ポトという一個人の偏った実験による残虐行為の成果の大きさを浮かびあがらせる。


音声は、消えることなく、街の騒音や、星のような夜の虫の音や、たくさんの空々しい拍手や、重々しいチェロの擦りや、大衆的なクメール語らしきロックで、それほどはっきりした境なくいつの間に推移していたようだ。


土人形は、惜しむことなく、一瞬間だけ使われて、あとは見ない物が多かったに違いない。指紋のよく見える手が土人形を制作する映像があり、いったいどれだけの労力が注ぎこまれて、映画のワンカットと同じく、多大な苦労が、たやすく、残酷に、目的の為に削られる。それはポル・ポトがカンボジアの人々にしたことを想起させる。ペンではなく鋤を、紙ではなく田に書くことを強いた思想で、それを邪魔する頭を持った人間は削り、それ以外で、マルクスとルソーの組み合わさったらしい理想郷を築いていく。生きた人間も、雑草と同じ、必要なければ間引きする。整然とした、余計な物の余地を残さない畑の為の、強力な農薬である圧政をまいて。


監督のナレーションは、揺れ動いている。父を探して認め、兄を、姉を、母を失い、天涯孤独と語られる、その場面の土人形に何を込めたか。アニメーションにはならない土人形は、ただ移動するカメラだけが生気を与えるようだが、それはただ周りを動いて観ているだけであって、生気はそんなことをしなくてもあり、ただ伝わりやすくするだけなのだろう。親類、家族のいる自分に、その言葉が意味することは、ただ想像力のみが手を伸ばし、届いたふりをする。もちろん絶対に届きはしないが、感情は変わらずにはいられない。それは、悲劇、原爆の、第二次大戦のユダヤ人の、ヴェトナム戦争の、近い歴史の民族浄化、国家による代理戦争が糸を引く紛争、古代の戦争と虐殺から、旅行中にバスから見た火事による喪失、小さい頃の兄の同級生の交通事故死など、自分でない他人の話が、小さいか、大きいか、近いか、遠いか。想像力は無限のようでいて、都合よく、限定的で、曖昧模糊としている。


そんな頼りないが、何よりも強い原動力となる想像力に対して、この映画は働きかけるように作られている。実際にあった時間と空間を証明する映像と、監督個人の記憶の探求に、作り物の人形や、色鮮やかなミニチュアの植物たち、遠くぼやけるカンボジアの木々、沼を泳ぐグッピー達、作られた小さな世界は、カンボジアの悠久と思わせる自然の景色が変わることなく存在している。人間はなんて小さく、人間社会の中で、煩悶して、植物は考えることなく、見ることもなく、ただ関係をしながら連綿としていくのだろう。


自分の好きなマルセル・プルーストを、この映画にみる。もはや呪縛からは逃れられない。良かろうが、悪かろうが、時間の推移に記憶は呆けて、常々、探さずにはいられない。詩情の欠片らしいものを持っている人間ならば。


上映後、リティ・パン監督が舞台にあがり、話を聴くことができた。凄惨な経験を持った人間は、それを語ろうとしない。その一つの理由が、それを語る言葉が見つからないということらしい。あまりにも大きな体験に対して、どのような表現方法を持って、それを伝達できるのだろう。監督自身、この映画を作るのに、構想は前々から持っていたが、形式が見つからずにいたらしい。俳優に演技してもらうにしても、体験者が、一体どんな演出を俳優に要求できるというのかと。


1975年から約5年間に、200万人ものカンボジア人が亡くなり、ポル・ポト率いるクメール・ルージュによる集団犯罪は、家族、通信、学校などの文化の基本を分離、崩壊させ、人間個人のアイデンティティを根底から失わせた。監督が述べるのは、殺された人間の膨大な数が、それぞれが違う顔、名前、体を持っていて、この映画を作ることを通して、犠牲になった人々の尊厳を取り戻す意味もあったらしい。映画を観て、一人一人が何かを大きく変えることはできないが、作品を通し体験を少しでも共有して、はじめはおぼろげでわからなくとも、まず知ることできっかけを持ち、次第に関心が大きくなれば、それによって情報も自然と集まり、より細かいことも見えるようになってくるだろうとのこと。


最後に質疑応答があり、自分は、制作された人形の数と、その現在を尋ねさせてもらった。


答えは、何百という土人形を一人の人物が手作りし、川の土で形成された人形は、焼成されずに生のままで、一体一体が、監督の記憶と意識によって魂が吹き込まれたそうだ。魂を持った人形の役目は、映画で生きることにあるので、映画製作の後に美術館などからオファーもあったそうだが、それには監督が条件をつけて、焼いて耐久性を強めるが、それには、必ずいつか崩れる形で焼ければとのことらしい。人形は、ずっと形を留めることを許されて生み出されていない。人間同様、土くれは大地に戻らなければならない。


ただ凄惨な過去の歴史を知るだけではない。そこには一人一人の生活があった。危機的な環境にありながら、偶然に生き延びたリティ・パン監督の記憶はとても自分なんかでは窺い知れない。それでも、監督がこの映画を作った意図を知り、何に焦点を当てたかを知れることで、何かしらの意味が、自分にも、映画にもあるのだろう。


魂は人の記憶に宿る。監督はマルセル・プルーストのように、失われた過去を求めて、この映画を再構成した。それに影響を受けて思い出すのは、20代前半、無知な自分がたいして歴史も知らずになんとなく足を運んだプノンペンのトゥールスレン虐殺博物館で目にした、殺される前に撮られた、理解を遥かに超えた、膨大な人々の顔写真だ。


そしてたった一枚のポスターの、数人に囲まれた老婆の目もはっきり記憶に残った。still livingだったか、そんな言葉が書かれていて、目が、寒気のするほど生きていた。


たった一つの映画作品と、その証言が、観衆に火をつける。自分はやはり蛇花火のように想念を広げて、結局、スカスカの、なんの意味もない、冷たい、軽い残骸のような気分になる。

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