4月7日(日) 広島市南区比治山公園にある広島市現代美術館で「美術館の七燈」を観る。

広島市南区比治山公園にある広島市現代美術館で「美術館の七燈」を観る。


前回来た時に、集中力の切れたところから観る。


第3章「ここ」

広島、ヒロシマ


この展示室では、広島市、財団法人広島市文化財団が主催するヒロシマ賞の、過去の受賞者の略歴と作品が展示されている。


第1回受賞者の三宅一生は、ポリエステルとリネンを使った「リズム・プリーツ」という作品が展示されていて、薄い生地に刻まれた細かいプリーツには、つい手に触れたくなるような質感があり、皺ではなく、きめ細かい女性の肌のような誘惑がある。蛇腹、風呂蓋のようでもあるが、黄色、紫、灰、黒、などの色が、持っている記憶から知っている人物に固定された衣装を浮かびあがらせる。


第2回受賞者のロバート・ラウシェンバーグは、鯉幟を開き、ヒラメやカレイように貼り付けたコラージュ作品が一目で記憶に残り、常設展で観た記憶がよみがえる。最近はあまり見かけることはないが、小さいころから馴染みのある形態が、カラーの魚拓のようになっている様は、違和感を強く覚える。


第3回受賞者のレオン・ゴラブとナンシー・スペロ夫妻は、夫のレオン・ゴラブは亜麻布とアクリルを用いた作品で、ベトナム戦争の一風景を描き出している。一つは焼かれた女で、もう一つは兵士と死体があり、大きい画面の亜麻布の荒っぽさがやけに強い印象と記憶を封じ込めており、その質感にアクリルが鋭く、太く引っかくように運ばれて、決してこころよい情感を与えない。ナンシー・スペロのほうが展示数は多く、いくつかの同じ図柄が色を変えてコラージュされていて、「天空の女神、エジプトの曲芸師」という作品名から古代の壁画のような印象を持つが、描かれているのは王にまつわる場面などではなく、首を吊った、股を広げる、もしくは様々な動的な形の女であり、コピーされていくつも貼られた形の繰り返しが、古代から変わらぬ女性の悲劇の歴史が描かれているようだ。グワッシュ、インク、紙で描かれている爆弾にまつわる作品も、鋭利で辛辣にあり、ぞっとさせる力がある。


第4回受賞者のクシュシトフ・ウディチコの「ディス=アーマー」という作品は、一見するとアニメなどのロボットのように、白い人形の背中から顔にかけて機械が装着されていて、実寸大プラモデルでも見るようだが、作品についての解説を読むと、文章の長さに頭がくらむ。それは一言で、外と向き合うための装置らしく、背中についたモニターには自身の目が映し出されるという面白いアイデアだ。こういう作品には古来の芸術に有する美を感じられないが、その発想の豊かさに、このあいだテレビで放映されていた自動車産業の会社が、商業的な商品開発とは関係のない、無駄な開発を競い合う大会のあったことを思い出された。有益な商品にシフトして何かしらを作るのではなく、無駄に向けられるのもまた、出来上がった作品からは何かしら有益とも思える心的作用があるみたいだ。


第5回受賞者のダニエル・リベスキンドは、ベルリン・ユダヤ博物館の建築家であり、展示されている作品は1点のみで、横長の紙に貼り付けられた新聞紙に、パステルによる神経質な素早い筆触でひっかかれている。新聞は、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシア、トルコ、アラビア語、北欧諸国らしき言語、日本語、中国語、英語などで発刊されていて、内容にはブッシュ大統領によるイラク戦争に関する記事が必ず載っている。


第6回受賞者のシリン・ネシャットは、作品が展示されていない。


第7回受賞者の蔡國強は、遠景で見渡せる写真の中に一人の男が前景に立ち、手に何かを持って発煙された瞬間が捉えられている。青空で天気は良く、空気は澄んでいるのだが、マンハッタンや、ネヴァダ核実験場らで写されたその場には、穏やかでない、透徹された皮肉と不気味さが潜んでいる。遠近を惑わせる煙が、決定的な比喩の具象として、ただそれだけで世界は、行くところまで来てしまったことを示している。


第8回受賞者のオノ・ヨーコは、紙に墨で書かれた「夢」と、ガラスの箱の上に置かれた黒い箱が赤い汁を滲みだし、壁にはテキストが書かれている。ジョン・レノン以外に浮かばないこの人物の作品には、「夢」とかかれた文字よりも、左下に書かれたかわいらしい字のほうが、本人を強く感じる気がした。筆跡は、やたら本人の肉厚が強く出てしまうようだ。


第9回受賞者のドリス・サルセドは、作品が展示されていない。


第10回受賞者のモナ・ハトゥムは、2年前に特別展が行われ、その時に観た作品が2つ展示されていた。1つはパフォーマンス映像で、もう一つはとってのついたティーカップのような器が2つ繋がっている作品だ。前回もそうだったが、そのままの形を飲み込んでから、すぐにおかしい形にあることに気づいた。滑らかな線で分離していく瞬間のようで、細胞分裂、家族の離散、国の分かれなどが想起される。不思議なことに、この作家の生い立ちがそうさせるのか、結合へと向かう動きには見えない。


ヒロシマ賞受賞者の特別展はモナ・ハトゥムしか観たことがなく、その時の印象から比べると、モナ・ハトゥムという芸術家の個性がこの特別展ではあまりにも小さく、間違った思わせるほど断定的な印象を持ってしまうほどだ。各受賞者の作品を観ながら、当時の特別展の様子をわからないながら想像していた。美よりも、“美術の分野で人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰し、核兵器廃絶と世界恒久平和を願う「ヒロシマの心」を現代美術を通して広く世界へとアピールすることを目的として”創設された賞のもつ性格ゆえに、現代社会の問題を提起して訴えかける作品が多く、複雑な量を持ちながら早い変化で推移していった20世紀の単純でない芸術の在り方の一面を感じることができた。


展示の残りは、2020年に特別展が行われる予定の第11回受賞者のアルフレッド・ジャーの作品や、広島にゆかりのある芸術家の作品が展示されていた。


その中でも目を惹いたのは、都築響一のレーザープリント作品「広島太郎」だ。広島に住んでいる人にとって有名な人物らしいこの男性は、自分も何度か見かけたことがあり、それが本当にこの人物なのか、それとも似た生活形態の別の誰なのか判別しないのは、見ているようで見ていないからだろう。鼻の下に青っぱなのようなものがこびりつき、垢に焼けた顔の男は、驚くべき人情の染みた笑みを、目を瞑ったまま漏らしている。この写真が選ばれる前後に、どれだけのシャッターが押され、取捨選択されたか知らないが、説明にも書かれているとおり、昔から存在するこの人物が人々にとって、見ているようで、見られていない存在なのだが、たった写真一枚でこの稀有な人物を完全に聖人と同一化してしまうほどだ。聖ヒエロニムスか、詳しく知らず、絵画の題材として知るこの聖人の名が浮かんできた。世捨て人が時間を積み重ねると、どうしてこうも凄い者になるのだろうか。その実例が、この広島に存在することは、まるで神話が近所に転がっている吸い殻のような気分になる。


結局、この日も企画展をすべて観ることができず、第2会場にたどりつけなかった。今までにこんなことはなかった。ヨーロッパの巨魁の美術館郡ではなく、日本の美術館で、それもそう作品数が多いわけではないのに、一品一品についつい時間をかけてしまう。それは、生まれてから30年が経つこの美術館の歴史に食いついてしまい、あとあとのことを考えずに瞬間を味わってしまうからだろうか。


まだ残っているから、来れるようなら、また来よう。

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