1月18日(金) 広島市東区東蟹屋町にある広島市東区民文化センターホールで「烏丸ストロークロックと祭り 祝・祝日」を観る。

広島市東区東蟹屋町にある広島市東区民文化センターホールで「烏丸ストロークロックと祭り 祝・祝日」を観る。


作・演出:柳沼昭徳

音楽・チェロ演奏:中川裕貴

出演:坂本麻紀、澤雅展、小濱昭博、澤野正樹、坂田光平、宮地綾、柳沼昭徳


チラシの写真だけ見て、文章を読んでいなかったせいで、面食らってしまった。


「君よ泣くなよ死ぬな、君よ泣くなよ死ぬな」この文に、勝手なイメージを沸かして、頭の中に時代劇のような舞台を作り出していた。


ところが「わたしたちが、ここにいま在る居ることを祝う祭り」という文を抜かしていて、ここにこの舞台が表れていた。


劇かと思いきや、むしろ芸能の舞台であり、舞が主だった。


プログラムは


前座 朗読「祝日の手紙」・祝詞「六根清浄大祓」


一、翼覆嫗煦の舞

一、名残の舞

一、廣島示現舞

一、魂結びの舞


で構成されていた。


最初の朗読が思ったより長く、仕事後の心身には堪えた。劇を早く観たい気持ちがはやり、テキストをそれほど吟味できずにいた。手紙についての手紙だったか。シベリア抑留からの引用に確定申告、LINEなどの日常が混じっていた。


翼覆嫗煦の舞は、面食らったまま観ていて、自問自答の連続だった。ニュートラルな状態で前にするのではなく、偏見と誤解のなかで舞を観た。能楽や落語を頭に浮かべて比較していた。太鼓や笛の代わりとなる電気を通したチェロの演奏に見とれるというより、分析することに意識は注がれていた。効果的な音の表現だと思ったが、拍子について疑問が浮かんだ。


名残の舞で、やっと舞台に集中できるようになった。力、そんな漢字が勇ましく舞台に音を鳴らし、滑らかなエネルギーの推移で身体が絡み合うのではなく、むしろぶつかり合う二人の男たちに感心した。昨日観た映画の、江田島海軍兵学校の、三島由紀夫が好みそうな男の湯気の立つ肉体が浮かんた。渾身の舞だと思ってしまった。


廣島示現舞は、懐かしさがあった。半年近く広島神楽を観ていないので、手打ち鉦の音や、広島神楽らしい口上の抑揚、土蜘蛛の動き、回転、人倫の手つきなど、広島神楽の要素がうまく使われ、物語性の高いこの舞では、西日本豪雨と原爆の災いが扱われ、主な舞を踊る少女にうまい配役を合わせたと思った。4人が舞台で舞う後半は広島神楽にはない動きだった。東北の神楽を融合させたと説明があるので、きっとそれだろう。面白い試みで、うまくできていたと思う。


魂結びの舞は、ブルックナーの曲のように、盛り上がりと休止が繰り返される。舞手はまるで赤い靴を履いたように、一人舞台で、激しい舞をして、とまり、再び舞い始める。徐々に舞台は様相を変えて、多彩な音とリズムのチェロに操られて、舞の激しさはより増進していく。


途中の口上で教えてもらったとおり、プログラムに書かれているとおり、東北の神楽の舞が引用されている。合石神楽「鳥舞」(岩手)、福田十二神楽「四方舞」(福島)、早池峰岳神楽「三番叟」「諷誦の舞」(岩手)、牛袋法印神楽「三剣舞」(宮城)などで、広島からは、吉田神楽「土蜘蛛」、神楽「塵倫」と馴染みのある演目だ。


広島の神楽を観にいかなくなった理由は、エンターテイメント性が高く、熱狂的な舞があるも、そこに削ぎ落とされた芸能の色合いが少ないと思ってしまったからだ。神楽団体が多く、有名な団体なら一定したパフォーマンスで魅了するだろうが、そうでないと、雑なところが目立つときがある。あくまで県民文化センターで毎週水曜日に行われている神楽での話だが。


汗をかき、場の盛り上がりにつられた芸も悪くないが、それで動きが雑になったり、枠を外れてしまうのは、一見ならば良いが、繰り返して観るには至らない。


この舞台もやはり近いものを覚える。一見なら良いが、舞ならば、やはり日頃から練習している団体に比べると動きの鋭さと、奥行きが違う。表情にしても、動きにしても、研ぎ澄まそうとする気配と年季が異なり、今まで観たことのある伝統芸能の文楽や能楽に比べてしまうと、やはり違う。


とはいえ、新しい表現の面白みがある。チェロと、サンプラーかシーケンサーなどの電子楽器を一人で操り、驚くほど無駄なく、効果的に舞台を盛り立てる中川裕貴さんの存在感は際立ち、多くが打楽器のようにチェロは扱われ、楽器の既成概念を広げる面白い技法は見ものがある。


また、東北の神楽の引用は、それを知らないものににきっかけを与える。もし東北の神楽を知っていたなら、広島の神楽の要素の組み合わせを観た自分のように、どのような引用がなされたか見る面白さがあっただろう。


劇を観に来たつもりが、舞を観た。それは広島神楽から離れている自分に、改めて伝統芸能の神楽のありかたについて考えるきっかけとなり、広島以外の土地へ旅行したら、その土地の神楽を観たいと思わせた。


伝統芸能へのアプローチだけでなく、取り扱う主題も真摯なものだろう。在る居ることを祝う祭り、それが今日の舞台なのだ。


日常に鬱屈して、夜の問いかけに発奮して、平時に冷然と焦燥を混ぜこぜにして、まともでいながら、すべてが空っぽに、熱をつくるようでいて、なにも温まらずにいるなかで、この舞台が扱う主題は、一つの解決になるかもしれない。


しかし、慣れたものには、驕ったものには、在る居ることを祝い祭る率直さが得られない。食べる為に生きるのではなく、何の為に生きるのだろうか。今一度、その生命に向き合う姿勢が保てやしない。


むしろ、魂結びの舞に引き込まれて、踊り、見境を失い、そのまま消滅したいなどと、理由なき反抗のような気分で消滅したい気になる。それは、遅い時間に就寝する、やけに目の開いた夜がそう運ばせる。


なんて思った今日の舞台だ。色々と考え、楽しんだ時間になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る