12月21日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで野村芳太郎監督の「砂の器」を観た。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで野村芳太郎監督の「砂の器」を観た。


1974年 松竹、橋本プロダクション 143分 カラー 35mm


監督:野村芳太郎

脚本:橋本忍、山田洋次

出演:丹波哲郎、加藤剛、森田健作、島田陽子


これは強烈に観客を魅了する作品だ。バランスの取れた良作で、とにかく質が良い。


前半は刑事ドラマのような展開だが、逮捕状の請求の場面で抒情性はむき出しになる。それは厚かましく、観ている者が恥ずかしくなるくらいに扇情的なのだが、その効果があまりに圧倒的で、前半に散りばめられた要素が解決をなし、音楽に衣を借りた美しい映像の連続により、過度な感情移入を余儀なくされる。


安っぽい音楽なら興ざめするのに、西洋音楽の要素をうまく取り入れた菅野光亮作曲の音楽が、ラフマニノフのような表層に触れやすい抒情性を含み、らい病の父とその子供の旅の追憶映像と、音楽家のコンサート映像と、刑事の説明映像が素晴らしい構成で組み立てられていて、音楽自体の質の良さが長ったらしい展開をだらけさせず、漸進させて力を溜めていき、その時間の素晴らしさに、この映画は特別だ、特別な映画なのだと何度も自分で自分にコメントを述べさせた。


これはずるいことだ。エイゼンシュタイン、コッポラ、ヴィスコンティ、キューブリック。ショスタコーヴィチ、ワーグナー、マーラー、ヨハン・シュトラウス。良い映画に、良い音楽に、良い使われ方。良い舞台に、良い装置、良い衣装。一概に否定できない。なかなか複雑だ。


それでも、音楽は映像とたやすく結びつき、その効果による破壊力は著しいからこそ、避けるべきという考えが頭をよぎる。それは文章の中の修辞技法で、比喩を多用するようなやり方かもしれない。しかし自分は比喩が最も好きで、仮に自分が映画監督ならば、音楽は極力用いないようにする。映像と編集の力で勝負すべきだと考えるだろうからだ。ならば文章でも、比喩を用いず、装飾は少なく、簡潔な文体で勝負すべきだろうか。そうは思わない。関連性があるようで、まったく関係がない。


とにかく、この映画は音楽の効果を巧みに組み合わせ、映像は極めて美しく、編集はリズム良く並べられて、一級の作品と呼ぶにふさわしい大作となっている。


昔の映画はどうしてこうも素晴らしいのだろうという感想が浮かぶだろう。役者という言葉は、昔の役者に当てはまると、今の役者を知らずに思ってしまうほどに、昔の役者は、役者なのだ。


役者だけではない、映像一つ一つに、安っぽい言葉を使えば魂が宿っているのが、古い映画の生命力なのだ。生きている、これは存在を味わうに最も必要となる要素だ。


35mmフィルムで観るということの良さが、いまさらにわかりはじめた。

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