8月17日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでパラジャーノフ監督の「石の上の花」を観た。

映像文化ライブラリーでパラジャーノフ監督の「石の上の花」を観た。


「アンドリエーシ」からの心配をこの上なく裏切ってくれた。労働者が汗水流して快活に鉱山で働くソ連らしい全体主義が反映されている。


出だしは頭に包帯を巻いた男が起き上がり夢遊病者のように歩き出して何かの工事現場を通ってとある家の扉に着きノックして出てきた男を殴る。病院で医者と話をして回想が始まる。ツルハシで地面を掘る労働者達が陽気に働いてクレーンが動きまわり多くの帽子が振られる。ギザのピラミッドのような三角形のモニュメントが映し出される。エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」と同じリズムを感じる。セクトと呼ばれる宗教団体が教義をかさに女性を虜にしようとする。共産党団体であるコムソモールの女性代表やら炭鉱の関係者はセクトを胡散臭いものとみる。職業上の立場の異なる若い男女がそれぞれの恋慕に素直になれずに絡ませていく。


などなど映画の内容から受けた印象は、今では理想主義でしかない失敗した社会体制とみられている共産主義も、当時は労働者の希望として生き方の支えを与えていたのだろうと感じた。そう観衆に思わせるのがこの映画の狙いなのかもしれないが。ソ連の体制がどれほどパラジャーノフ監督に圧力を与えていたのかわからないが、ショスタコーヴィチの証言を読んでいる今では、いかにスターリンの時代を生きることが困難で恐怖に満ちたものかを軟弱ながら土台として考えることができる。


結果論としての社会主義で判断するのではなく、当時の状況を伺い知ることが必要なのかも知れない。個人的には理想主義で片付けられる社会主義を嫌悪することはない。皆で力を合わせて働き、平等に富を分配して、パンをおいしくいただく。それだけで考えれば良いことではないか。


社会主義について詳しいことは知らない。自分の職業も、映画で体中を黒くして働く人々に近い労働者だから、人々が、生活がより豊かになる働き方があると知って、無知蒙昧ながらそれにすがり、一生懸命に働いていたなら、一体何が悪いのだろうか。気持ちはわかる。ただただ、ソ連という体制の中で、人々はそれぞれの役割を得て必死に生きていたのだと、宣伝の強い映画の裏に認めようとしてしまう。


映画の終わりに牛乳が出てくる。女性は搾りたてのそれが入った瓶を包帯を巻いた男に渡してくれと、炭鉱関係者に託す。まだ温かいそれを飲み、映画はエンドロールに向かう。


牛乳はロシア語でマラコーだ。旅行中に、何度かマラコーという言葉を使い、レ、ミルヒなど、牛乳を表すそれぞれの言語のある中で、もっとも牛乳というものを愛らしく、大地に根ざした響きを持たせるのが、ロシア語のマラコーだと自分は感じる。それはじゃがいもを、カルトーシュカと言うのと同じ情感を抱かせる。


マラコーが男女の仲立ちをするなんて、プロパガンダ映画だとしても、なんか良いじゃないか。

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