7月16日(月) 広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでリューベン・オストルンド監督の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観る。

第70回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品、監督・脚本リューベン・オストルンドの「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観た。


この映画には、ずれが全編を貫いていて、冒頭のインタビューのずれから始まり、朝の出勤時のずれが小さな動機として、細かいヒビが少しずつ生活を侵食して手を広げていき、部下の軽はずみな正義感による信頼のずれや、スリに対しての対抗措置に関する倫理観のずれへとつながり、それは大多数の人間に対して与える無分別な細かいずれであって、そのずれ自体の効果が期待通りの成果をもたらした時は、すでに背後で幾つものずれがもだえて膨らみ始め、その一つから元気よく具現化した小さな存在の過剰なしつこい吠えは、小さい犬に道端で吠えられ、この小さな存在のうるささをどのように止めさせようかと考えるも、なかなか止めさせることができず、後ろを向いて逃げようなどすると、その存在はこちらの望むべきこととは真逆の反応を示し、いよいよエスカレートして止まらず、卑怯ともいえる暴力や圧力でなんとか押さえつけようとしてしまうのは、子供や赤ちゃんの駄々っ子をヒステリーで反応する親のようなもので、モンキーヒューマンのシーンはまさにその弱者と強者の関係性が表れていて、見世物としての弱者と認識されていた存在が予期せぬ厄介な存在になるのは、歩が金に成り代わるような素早い変化で、それに対応できず四苦八苦もせずにじっと静かに息を潜めて見過ごしているも、あまりの緊張と圧力に耐えかねなくなり、しまいに群れによる疾風の力の流れ込みでその存在を排除しようと大きく出るのは、小さな子どもからの譴責に対応する地位ある大人が無理強いでその場面と問題を終わらせようとする野蛮な方法と同じであり、平等や思いやりなどを謳う正方形の枠の展示など、企画する者も、それに携わる者達にも、その意味などまったくもって本人達に意図する影響を与えておらず、商業的な名目として作品の価値を見定められるくらいで、空虚な空間として映画全編を通して登場する大人達に対して無気力な傍観を維持していて、こんな四角形は、チアの大会の線引にさえ存在しており、明確な形で子供達に平等や思いやりを心身に強く影響を与えているのだ。


子供たちはすでに知っている。大人はもう知らない。ほんのささいな人間同士のずれは、相手への信頼、配慮、想像力によって修正されるものだ。大きなずれは誰もがその効果や影響力に気づけるものだからなんとかして避けようとするが、小さなずれは取るに足らないものだからこそ、その鬱陶しさを甘くみて、悩まされ、足元をすくわれて、自分自身を窮地に立たせる。どんな出来事も急な大きさで登場するのではなく、その前に、しとやかに、目立たぬように、恐ろしい毒と棘を持った小事が散らばっていて、いつでも連鎖することを窺っている。それらを泡立たせないようにするのは、簡単なやりかただけで十分で、簡単だからこそ、多くの人は真面目に取り組もうとしない。それを本気になってするのはあまりにも滑稽で、スマートでないからだ。


最終的にずれは大きな崩壊をもたらす。それが本人に反省を促すも、最後の最後までずれは止まらない。


何事もうまく運ぶと思いがちな人間が多いと言われるような柔軟性の欠ける日本人にとっては、この映画は大きなストレスでしかないかもしれない。この映画を観て愉快に笑える人は懐が大きいのか、それとも何もわからずに笑っているのだろうか。自分は笑えない、笑うときがあっても、ほぼそれは苦笑でしかない。問題があまりにも小さくて、今日の午後まで心にひびを入れるほどに切実だからだ。まったく笑えない。現代の社会から顕在化した人間意識の問題というより、人間の原初からの性質が現代社会を通して変化して表れただけで、こんな人間関係のずれなど太古の昔からあり、嫌になるほど日常生活に平凡と存在していて、思考の大半を栄養にして頭に巣食って止まないことだろうか。

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