第30話:意志の疎通

 前も後ろも、右も左も。それを東西南北と呼んだところで、上や下を加えたところで、どこを向けばいいのか分からない。

 実際の顔の向きでなく、意識を向けるべき方向がだ。

 元の世界であれば、もしも世界中のどこかへ放り出されたとして、自分の家に帰ろうと思うだろう。結果が違ったとしても、まず目指す方向が存在する。

 だが今は、それがない。

 親はもちろん、知人さえ居ない。この世界の、どこを探しても。

 そう自覚すると、たまたま向いている今この方向へ、足を踏み出すことさえ怖かった。その一歩が、奈落に通じてなどいない。たかが一歩の労力が、あとに祟るなどもあり得ない。もちろん道に迷うことも。

 それでも本当にそうしていいのか、一投足にさえ、決断が必要だった。


「ふうぅ」


 意識して、声を出す。ため息ではあったが、その程度でもなにかをしなければ、自分が消えてしまいそうな気がした。

 落ち着け、なにかあるだろう。俺に出来ること、俺に分かること。俺はなにをすればいいのか。考えれば、なにかあるだろう。

 そう思えたのは、ひとつの収穫、あるいは進歩であっただろう。不安の渦から抜け出しはしなくとも、渦の外を見るくらいはしたはずだ。


「よし――」


 覚悟を決めたとか、なにかあったわけではない。自分への、景気付けのようなものだった。

 まずは、周りを見る。ここがどんなところか、もう一度確認しようと思った。

 やはりカズヤの思う、町という場所とはイメージが違う。せめてもう少し、建物と建物が密集しているべきだと思う。

 それはいいとして、日本以外の古い家屋というと、西部劇で映るような物しか知らない。そのイメージにしたところで、さほど多く見たわけではないが。それくらいの感覚で言えば、もっとしっかりした造りに見える。

 だがどの建物がなんなのか、表札や看板の類が見えない。住民は全て把握しているという話だろうか。

 ――いや、看板はあった。

 扉の近くや軒先に、コピー用紙くらいの、それほど大きくない物だ。見える限り、どれにも文字はない。あったところで読めないが、絵だけで商売を示しているらしい。

 その中に、蝋燭の絵があった。この町に蝋燭を売る店は、一つだろうか。分からないが、近付かないほうが面倒にならないと思う。

 ほら、もう一つ方針が立った。ネガティブな内容だが、なにも知らない状態ではなくなった。

 ああ、そうか。ロールプレイングの基本じゃないか。知るためには、住民から話を聞くんだ。

 ゲームの中で、住民たちはどうしていつも、街中をうろついているのだろうかと思った。

 実際に目にしている光景は、それに近い。もちろん無意味にうろついてはいないが、たらいで洗濯をしたり、数人で集まって語らったり、なにをするのも屋外でやっている。


「あ、ええと……ちょっと」


 誰に話しかけるべきか、いくらか迷った。最初は、談笑していた三人連れの男たちにしようとした。だが野太い笑い声と、どうやって鍛えたものか、太い腕に気後れする。

 だから相手を替えて、井戸の傍で野菜を洗う女性にした。近くで子どもを遊ばせていて、優しそうに見えたからだ。


「んー?」

「俺は――」

「ちょっとあんた、伯爵さまが捕まえてた男だろう? この子になんの用だい⁉」


 話した相手とは別の女性が、つかつかと近寄ってくる。手にはこん棒のような道具が握られていて、体格もがっちりしている。

 その声を聞いて、野菜を洗っていた女性も不安げな表情を見せる。子どもたちを呼び寄せ、カズヤから庇うように抱きしめた。

 寒い風が吹いたように思う。悪意はないと、弁明する気持ちも起きない。

 それで突っ立っているうちに、いつの間にか女性が集団になっていた。誰もが厳しい目をカズヤに向けて、もうなにか悪事を働いたかのようだ。


「いや……」


 なにもしていないのに。声をかけただけで、どうしてこんな扱いをされるんだ。

 苛々とした気持ちはある。しかしそれ以上に、自分の居場所がないのだと、見せつけられた気分だった。

 力なく声を発して、ゆっくりと回れ右をした。それがこの町からどこへ行く方向なのか、それさえ分からない門に向かう。

 門に着くまでも、何人かに声をかけようと、気持ちを立て直した。

 しかしそのつもりで一歩を寄せただけで、ある者は家人と共に睨み、ある者は家の中へ逃げ込んだ。

 門までを半分も進まないうちに、話す気力は失われた。

 門の脇には、男が二人、椅子に座っていた。服装は他と変わらないが、門番ということだろうか。


「おい、出ていくのか?」


 カズヤよりは歳上に見える。男の一人が声をかけてきた。

 見れば分かるだろ。そんなに俺を、バカにしたいのか。

 怒りだか悲しみだか、自分でも感情が分からなくなってきた。どれであっても、弱々しいものだ。

 せめてもそれを込めて、男に視線を返す。

 男はそれに、なにを感じているのか。眉間に皺を寄せて、まっすぐに見つめられた。

 それに耐えられず、カズヤは目を逸らす。そこに見える先は、木々と山々。そこへ、踏み固められただけの、人工物とも呼べない道が細く伸びる。


「気を付けてな」


 門を出て、数歩を歩いた背中に声がかかった。さっきの男だろう。振り返ったが、その男はもうカズヤを見てはいない。

 連れの男となにやら、楽しげに話している。カズヤは足元に唾を吐いて、静かに町を離れていった。

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