開国と黒船座礁事件
ジム・ツカゴシ
第1話
筆者の前には一八五四年六月十三日付けのニューヨーク・デイリータイムズの複写版がある。一八五一年に発刊され、一八五八年にニューヨーク・タイムズと名を変えたこの新聞はアメリカを代表するリベラルな新聞と考えられている。
このデイリータイムズ以来の主要な一面だけを一冊に編纂したものが刊行されている。百五十余ドルと安くはない買い物だが、過去の出来事をどのように新聞が報じていたのか、好奇心には勝てず思い切って購入してみた。
送られてきたものは、当時の紙面をそのまま縮尺版にコピーしていて、原紙の保存状態が良くないためか虫眼鏡でもないと判読出来ない箇所もあるものの、版の構成の具合や当時の広告もそのまま目にすることができ、市井のアマチュア歴史愛好者が楽しむには十分である。
一八五三年(嘉永六年)六月三日の夕刻、江戸湾に現れた四隻の黒船は徳川幕府の要人が夜も寝られない騒動を巻き起こし、十五年後に起きる幕府崩壊、そして明治新政府の誕生という幕末・維新の激動の幕開けとなった。
この年は幕府政府の苦心の時間稼ぎが功を奏し、ペリーは渋々艦隊を引き揚げた。そしてその時の約束に従って、再びペリーが艦隊を従えて浦賀沖に現れたのは翌年の二月十一日(日本歴では、嘉永七年一月十六日)だった。
旗艦ポーハタン号を先頭に、サスケハナ号、ミシシッピー号、サザンプトン号、ヴァンダリア号、マセドニアン号、そしてレキシントン号の七隻からなる米東インド洋艦隊の主力で、前年の幕府の狼狽ぶりを知るペリーにしてみれば、これから始まる条約交渉を自らに有利に運ぼうとする意図が明らかな示威行為だった。
西暦の三月三十一日に締結された日米和親条約は、その交渉の場の名に因んで神奈川条約とも呼ばれる。その地は今日の横浜で、当時は鄙びた寒村に過ぎなかった地に幕府が急ごしらえで用意した応接所で交渉が持たれた。北隣りに隣接する神奈川の方が当時は賑わいをみせていてその神奈川の名が条約名として残ることとなった。
この神奈川条約は十二条からなっている。第一条は両国は恒久の和親を相互に約束するとし、第二条で下田、函館の二港をアメリカ商船に開港し食糧や燃料の補給を認めること、第三条では、アメリカ船籍の船が日本近海で遭難した際には日本は救助に協力し、下田、又は函館に送り届けること。第四条で、その遭難者や渡来したアメリカ人民を拘束しない、第五条、同じく、長崎における中国人あるいはオランダ人と同じ待遇を与え不当に逮捕することがないとし、第六条では、補給品は話し合いで取り決め、第七条で二港での調達に当たっては硬貨または物物交換の決済とすること、第八条、物資の調達は日本側の役人を介して行なうとした。第九条は、幕府がその後に他国と結ぶ条約で神奈川条約に漏れるものは追加して認めること。第十条、アメリカ船は二港以外には寄港しないこと、第十一条、両国が必要と認める場合には下田にアメリカ政府の出先を設ける、第十二条、本条約を両国が批准、遵守すること、以上が条約の内容だった。
この神奈川条約が一方的な不平等条約であるとして幕府への反発を生み、攘夷の嵐を巻き起こしたことは歴史教科書が告げる通りである。
さて、冒頭に記した紙面は、ペリー艦隊の一隻だったサスケハナ号が四月二日に香港に帰還したことから始まり、その一面トップ記事として、日本の開国を伝え、条約の締結と相前後した両国の遣り取りを詳細に報じている。
条約文が双方の代表によって署名されたのは先に記したように三月三十一日だったが、主要な条件にお互いが合意したのは三月二十三日だった。ペリーは正式締結を待たず、本国への報告のために船足の速い最新鋭蒸気艦のサスケハナ号をただちに香港に送り返したのだ。
それでも、アメリカ市民がこの紙面によってペリーの偉業を知り得たのは、香港からの報告がニューヨークに到着した六月だった。当時は極東のアジアからアメリカ東海岸へはニュースの伝達に二ヶ月の時間を要したことを語っている。
ところで、紙面を追うと、突然のようにKamakuraの地名が現れる。それは、条約交渉の地として当初、幕府は鎌倉もその候補に挙げていたからとされる。しかもこの記事にもあるがその発端は、ぺりー艦隊の一隻が鎌倉沖で座礁したことにあった。
葉山に十余年住んだ筆者は鎌倉近辺の知識を持ち合わせているが、黒船が鎌倉沖に現れ、しかも座礁したために乗組員が上陸した可能性があることを聞いた覚えがない。
事情を知るために、ペリーが書き残した航海日誌を溯ってみた。この三巻からなる分厚い航海日誌は首都の合衆国国立公文書図書館に保管されているが、幸い先年、その日本に関する部分の抄訳が刊行された(「ペリー提督日本遠征日記」小学館)。アメリカ側から見た外交交渉の経緯がわかる貴重な記録のひとつだ。
座礁事件の状況を推測すると次のようになりそうだ。
江戸湾を目指す七隻は一団になって航行していたのではなく、いくつかのグループに分かれていた。それは七隻の内、蒸気船は四隻で、残りは風頼みの帆船だったからだ。座礁したのは、この帆船の一隻だったマセドニアン号で、一八三二年建造の老朽艦ながら一三四一トンで二十門の大砲を装備した大型艦だった。
この軍艦は前年の艦隊には含まれていなかった。どうも江戸湾と相模湾を見間違ったらしい。それにつけても不完全とはいえ一行は海図と前年の記録を携行していた。石廊崎の絶壁に加えて標高の高い伊豆高原を頂いた伊豆半島と、観音崎からは平坦な丘陵地帯が続く三浦半島を見間違えるとは思われないのだが、どうしてこの軍艦は相模湾の奥深く進んだのだろうか。
相模湾は水深が深い湾で、沿岸は岩礁地帯が多くその隙間を埋めるように小さな砂浜が点在する。例外は新田義貞の逸話で知られた稲村ガ崎から七里ガ浜の砂浜、そしてその西には茅ヶ崎から大磯に至る砂浜が伸びている。
鎌倉であれば江ノ島に近い水域だが、左側の茅ヶ崎沖には烏帽子の形をした岩礁が海面に突き出ていて、その特徴ある景観から大型の帆船が近寄ることはなかったと考えたい。
やはり材木座から逗子海岸の西側にある小坪までの間で座礁したのであろうか。マセドニアン号と共に帆走していたもう一隻の帆船と、救援のために駆けつけた三隻の蒸気艦が海岸線から近い現場に集まったのだから、住民にとっては天地をひっくり返す大騒動だったに違いない。
更に付録として当時の美談も記録されている。
離礁のためにマセドニアン号は積み荷を投棄したが、その中には瀝青炭の大樽も含まれていた。この大樽を回収した海岸近くの住民が、三浦半島を横断してわざわざ三十キロも離れた浦賀沖に停泊中のペリーに届けたのだそうだ。外交交渉では強硬な姿勢を崩さなかったペリーも、この親切には感動したらしく、日誌にこのことを書き残している。
攘夷の嵐が吹き荒れていた一方で起きた、歴史の教科書が書き留めるべき、日本人の高潔さを伝える良い話だ。
さて、肝心の座礁現場だが、以上の話を、日頃から筆者がアメリカ史の逸話を配信している先の知人や友人に問い合わせたところ、日本の奇特な方が国会図書館の資料や鎌倉市史に当たってくれた。
それによると、ペリーの航海日誌や冒頭の新聞記事が報じる鎌倉からは少し離れた、三浦半島西部で突端からさほど離れていない、現在の荒崎沖がその座礁現場だったことがわかった。
マセドニアン号艦長のアボット大佐は、シーボルト作成の海図のコピーと前年の記録を頼りに三浦半島に近付いた。しかし、荒崎沖を江戸湾の入り口と見誤り、その確認のために海岸に進み過ぎ、海面すれすれにひそむ岩礁に乗り上げてしまったのだ。
鎌倉市史によれば、ペリーの交渉相手だった時の老中、安部伊勢守正弘が座礁事件の報告を受け、そのことを善立院坊主に話しているのを、越前藩主松平慶永が又聞きして、海防・外交についての情報を集めた「合同舶入相秘記」に書き残した。こうして、この座礁事件は幕府も知る史実となった。
阿部正弘は当時の幕府老中首座で、今日の総理大臣に相当する。幕外や下級武士に優秀な者がいた幕末・維新前後に、阿部は幕府内では例外的な聡明な人物だったようだ。アメリカに漂着しその後に帰国した土佐の漁師、中浜万次郎を幕府役人に登用したのは阿部だった。
それまで長く関係を持っていたオランダがもはや世界のリーダーではなく、英国やフランス、ロシア、そして新興国のアメリカが覇権を争う新時代に突入していることを鋭く悟った。そしてオランダ語ではなく英語が必須の外国語であることも認識していた。福沢諭吉が同じことを知り英語の速習を始めるのはこの後のことだ。
阿部はペリーとの交渉でもそれまでの一時凌ぎの対応を避け、正面から取組んだ。日本開国の貢献者として忘れることの出来ない人物といえよう。
幕府が鎌倉を交渉の場に推奨したこともこれらの一連の資料で明らかだ。
幕府にしてみれば、神社仏閣が林立した伝統を誇る鎌倉を交渉の場にすることによって、日本も馬鹿にしたものではない、との印象を与えたかったのであろう。
しかし、一方のペリーは、座礁事件でケチが着いた地を避ける気持ちと、少しでも江戸に近い地を望んでいて、結局横浜村に落着いたのだった。
筆者は社会人になって間もなくの数年はヨットを趣味にしていた。葉山に住んでいたこともあって、荒崎沖の近海も頻繁に航行したものだ。あの付近には確かに暗礁が存在する。満潮時には海中に没してしまうのでヨット乗りには神経を使う海域だ。
今回の資料で、ペリーの日誌を読んだ時に抱いたいくつかの疑問も解消した。
ペリーは、座礁したらしいマセドニアン号と同時に帆走していたヴァンダリア号の二隻を、三浦半島の先端に近い海域にいた蒸気艦が目撃したと記している。
無線の存在しない当時のことだ。目視か信号のための発煙筒で蒸気艦が座礁事件を知ったのだろうが、それにしても相模湾の奥深く、鎌倉沖の二隻を良く発見したものと感心していた。
三浦半島の突端に近い海域にヨットで出かけると、晴れた日には遠くに江ノ島と海岸線を望むことは可能だ。しかし、大型の帆船とはいえ目視では船影を目にしても、座礁の有無までをあの地点から知ることは不可能だ。
荒崎沖ならば距離はその数分の一だから事件を知ることはさほど困難ではなかったはずである。
荒崎沖の暗礁はごつごつとした岩礁だ。それに乗り上げたマセドニアン号は船底を破損した。乗組員にも負傷した者が出たようで日本側が救援の手を差し伸べている。
その詳細はこれらの資料でも明らかにされていないが、軍艦と岸の住民の間でどのような遣り取りがあったのか、そしてどのようにして船底の修理をしたのか。興味は尽きない。この暗礁は、付近の住民には「唐人瀬」の名で知られているそうだ。
この黒船騒動によって日本は長い眠りから目覚めた。海外に対する関心も突如として高騰し、佐久間象山などの当時の知識人も実物を見ようと江戸湾沿いの品川や神奈川に殺到した。中には黒船でアメリカに渡り自らの目で世界を確かめようとする者まで現れた。
そのひとりが吉田松陰だった。黒船に接舷し押し問答をすることまでは成功したが、ペリーの歓心を買うまでには至らず、禁令を犯した罪で処刑されたのは周知の通りだ。
歴史に「もしも」は禁物だが、松陰が乗船に成功しアメリカに渡ることが出来ていれば、幕末の日本史も違う経過を辿っていたことであろう。松陰らしい正面から取組んだ結果だったが、事を急がず、座礁現場に駆けつけて別の便法を編出すことも可能だったかもしれないのだ。
開国と黒船座礁事件 ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi
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