血まみれの花嫁

「あなたの入国を認めることはできません」

 年老いた入国審査官が告げた。向かいに座る少女は僅かに首を傾げ、これまでにも同様の経験があったのか、落ち着き払った口調で訊ねる。

「それは、どうしてでしょうか」

 透けるような白髪と、紅玉色の瞳が印象的な少女だった。手入れする余裕がないのか、伸ばしっ放しで、目を隠すほどの前髪を大きなピンで留め、残りは後ろで一本に結わいていた。精悍な顔付きがどうにか取り繕っているものの、少女にはどこか幸薄な雰囲気が纏わり付いていた。白皙を極めた素肌は青褪めているようにも映り、病弱な令嬢という印象を与える。

 存在が儚げなのだ。まるで、少女が存在していることが大きな間違いであるように。

「誤解しないで頂きたいのは、これはあなたの安全を慮ってのためです」

「ですから、どうしてでしょうか」

 審査官の男は表情に懊悩を滲ませ、少女の全身を眇めた。

「あなたは若すぎるのです」


「門前払いですか、困りましたね」

 目の前にそびえる国境――国壁――を見上げ、少女は呟いた。どうにも自分は年齢制限に引っかかったらしい、と頭の片隅で思う。年齢、そう、少女は自分が何歳いくつなのか知らない。外見から判断すればそこまで幼いこともなさそうだけれど、未成熟な体の分を差し引いて、それでも十五歳かそこら。どちらにせよ『大人』とは言えない。

(それにしても……)

 少女は蒼穹を仰いだ。入国が許されないとしても、物資の調達くらいは融通が利くものと思っていた。ところが審査官は頑として譲らず「あなたが入国しようとしたこと、いいえ、この国に訪れたことが知れるだけで大事なのです」と繰り返すだけだった。押し問答の末に少女が折れて、半ば追い出されるような形で審査室を後にした。

 背中の荷物を下ろして中身を検める。食糧の残りは心許なく、次の国まで持つかどうか。

(いざとなれば、そこらの草木でも私は生きているけれど……)

 それは『人間』としてどうなのだろう。

 深い嘆息とともに、少女はこれから進むことになる森を睥睨した。

「いっそのこと、不法入国……」

 振り返った壁は、少女にとって越えることは容易かった。

「それにしても年齢制限があるなんて、そんな情報はなかったのに……」

 ふと、諦めきれない少女の背中に「旅人さん」と呼びかける声があった。目を巡らす。二十メートルほど先、国壁に沿うように繁茂した低木から、にょっきりと人の手が飛び出していた。続いて現れたのは白髪交じりの女性だった。ひどく警戒しているのか周囲の様子を執拗に確かめ、女性は意を決して駆け出した。

「あぁ、これも神様の思し召しです。旅人さん、そんなにお若いのに危険な旅をしているなんて、さぞかし腕が立つのでしょう。どうかこの国を助けてください」などと懇願する。息を継ぐ間にも、女性の両目は、少女の腰にこれ見よがしに提げられた銃器に注がれていた。

「私は旅人です。国の事情に深入りすることはできません」

「そんな薄情なことを仰らないでください。それに、助けてくださるのであれば何でも差し上げますわ。ええ、そうよ、長い旅をしているのですもの。食糧だって武器だって、この国で調達できなければ困りますよね」

 痛いところを突かれ、女性の目を見つめ返したことが仇となった。

 旅人の少女は髪をわしゃわしゃと掻き上げると、不承不承とだが首肯した。

「まずは話を聞いて、助けるかどうかはそれから決めます。それでもいいですか」

「それだけでも充分です。感謝します、旅人さん」

「だから、まだ助けると決めたわけではありません。過度な期待はやめてください」

 それは、とても重苦しいことだから。

「あぁ、そうです。旅人さんのお名前は?」

 少女は目を伏せて、僅かに間を置いてから答えた。

「名前はありません」


 その外見では目立つからと渡された外套を羽織り、先導する女性に続き、少女は地下水路を歩いていた。国内の生活排水を外に流すための水路には、無論、防衛のために鉄格子が設けられていたが、一部が水の腐食によって崩壊していた。下水処理技術が発達していないためか、水路には脳を腐らせるほどの悪臭が充満しており、女性はハンカチを鼻に当てながら話す。

「私はツァーリといいます。旅人さん……名前がないと言われましたが、きっと事情があるのでしょうね。ともかく旅人さんに、入国拒否を告げた審査官の妻です。これでどうして私があなたのことを知ったのかは分かると思います。まずは夫の非礼をお詫びしなければなりません。けれど、どうか夫をあまり責めないでやってください」

「私の身を案じてのこととか」

「まさしくそうなのです。この国で起こっていることを考えれば、夫がそのように告げるしかなかった気持ちがよく分かります」

「私が若いからとも」

「まさにその通りです。夫の言葉を補足すれば、旅人さんが『若い女性』だからです。もしもあなたが男性だったなら、年齢など関係なく、国の恥を晒すことを承知の上で夫も入国を認めたでしょう。若い女性、それこそがこの国を襲った厄災の全てです」

「つまり?」

「ご覧になった方が早いと思います。気持ちのいい光景ではありませんから、先に謝っておきますね。それにしても、あぁ、今日はいったい誰が――」

 ツァーリの瞳は落涙を必死に留め、その貌を喰い破ろうとする悲嘆に満たされていた。

 梯子を登り、地下水路から出る。裏通りは閑散としていて他人の目はなかった。

「こちらです。念のため、顔を隠してください」

 外套のフードを深く被り、目元まで顔を隠し、裏通りから徐々に道幅の広くなる方へ進む。大通りを跨いでさらに先へ。左右の赤煉瓦の建物が途絶え、視界が開けると大きな広場になり、そこでは、無辜の群衆から発される涙と怨嗟、慟哭が渦巻き、地獄の釜が開かれていた。

「ああ! グレイスが!」

 ツァーリは悲痛な叫び声を上げ、その場に頽れた。少女もまた、その光景から目を逸らせずにいた。少なくとも彼女にとっては珍しい光景ではなかったが、目を逸らすことは躊躇われた。

 ヒトが――吊るされていた。若い乙女が吊るされていた。乙女の爪先は床についていない。風に煽られるたびに乙女は振り子時計のようにゆったりと左右に揺れる。けれど、果たして、首吊り死体の存在はそこまで悲惨的ではない。それよりも鮮烈に乙女を異様へと飾り立て、広場に集まった群衆の心を引き裂き、慟哭の坩堝へと突き落とすものがあった。

〈血まみれの花嫁〉

 乙女は純白の婚約衣装を着せられ、それは彼女自身の血で真っ赤に染まっていた。死体の鮮度を示すように、花嫁の華奢な足を血が伝う。花嫁の表情のなんと憐れなことか。断末魔の恐怖と絶望、此の世に顕現した〈悪魔〉と邂逅したことへの悍ましさが綯い交ぜとなり、そこに微かな希望の残滓が見て取れる。希望を抱かされながら殺されたのか、それとも死を希望と取り違えてしまうほどの苦悩を負わされたのか。乙女の最期の感情を読み解くことは難しい。訊ねてみようにも乙女が応えることはない。

 血まみれの花嫁は風に煽られ、ただ、物と化していた。


 ツァーリの肩を抱いて、旅人の少女はその場から離れた。背後では人々が花嫁を降ろそうとしていたが、機巧兵がそれを阻んでいた。残虐に殺され、亡骸を冒涜されてなお、花嫁の魂が安息を許されることはない。狂っていると、少女は舌の上で嫌悪を転がした。

 自分の家に着くと、憔悴しきったツァーリはソファーにもたれかけた。少女は小棚を漁り、琥珀色の酒をソーダ水に混ぜて差し出した。

「どうぞ、気付けに」

 ソーダ水を煽ったツァーリはようやく平静を取り戻したが、ほのかな赤ら顔の奥からは、隠し切れない悲嘆が滲み出ていた。

「ごめんなさい、旅人さん」

「お構いなく。それより、あれは何ですか」

「えぇ、全てお話しします。そのために声をかけたのですから。端的に申しまして、あれは全て王の仕業です。王は史上稀に見る邪知暴虐の悪魔です。二週間前のことでした。王は花嫁選定と称して国中の娘を城に集めました。貴族も平民も分け隔てなく。愛娘が王妃になれるかもしれないと知った親達は、娘を飾り立て、喜んで城に送り出しました。斯くいう私達もそうでした。あれはもう、大変なお祭り騒ぎでした。みんなが熱に浮かされていたのです。……騙されたと知ったのは、三日後のことでした。旅人さんも見たでしょう? 最初の花嫁が吊るされたのです。私達はようやく、悪魔に大事な娘を渡してしまったことを知りました」

「取り戻そうとはしなかったのですか」

「しました! しましたとも! 国中の人間が王を非難し、城へ殺到しました。けれど、これは旅人さんが知らないのも当然ですが、この国では数年前まで内戦が起こっていました。国の内部で殺し合っていたのです。それを収めたのが今の王でした。内戦が終わると、王は国内の武器を集め、城内の武器庫に保管しました。二度と内戦が起こらないようにと謳い、貴族の私兵までも解体させ、代わりに防衛に資するため機巧兵を他国から買い入れました。もうお判りでしょう? 武器を持たない私達が、機巧兵相手に戦うことなどできなかったのです。今ではもう、毎日のように吊るされる花嫁を見上げては、それが自分の娘ではないことを祈るばかりです。けれど、そこに旅人さんが現れたのです」

 ツァーリは立ち上がり、少女の手を取ると額を擦り付けた。

「お願いです。この国を、いいえ、娘を助けてください。お願いですから……」

 心を打ち砕いてツァーリは懇願する。だが、旅人は冷ややかに目を眇め、

「普通に考えて、機巧兵の軍勢に、たった一人の人間が敵うと思いますか」

 現実を突き付けるだけだった。ツァーリは冷水を浴びせられたように表情を凍らせ、よろめき、頽れると少女から手を離した。

「そう、ですよね。たった一人で、敵うはずがありませんものね……」

 それは分かり切った答えだった。自分達が、国中の何万という人間が束になって押し寄せても崩すことのできなかった壁を、たった一人の人間が覆せるはずがない。たとえその腰に、自分達が持っていない武器を携えていたとしても。それは自明の理。天秤にかけて推し量るまでもなく明白だった。無茶、無謀、望みを託そうとすることさえ愚かな類の。

 それでも頼らずにはいられないほど、縋り付かずにはおれぬほど、ツァーリは追い詰められていた。無力感という檻の中で息を詰まらせながら、ただ最愛の娘の無事を願うあまり、彼女の思考は理性から逸脱していた。論理性を欠いていた。

 諦めることが怖かった。娘を取り戻すことはできないと、認めることが怖かった。

 自分が諦めてしまったら、そこで全てが停滞してしまうのだから。

 せめて娘が吊るされるその日まで、希望を失くしていないふりをしていたかった。

 誰かがきっと助けてくれると、荒唐無稽なユメを視ていたかった。

 だが、彼女は突き付けられた。彼女が縋ったその人に、現実を知らしめられた。

 放心するツァーリの目には、旅人の姿などとうに視えていなかった。

 一方で、少女は瞑目する。その唇は引き締められていたが、それはツァーリに無情な現実を突き付けたことを悔いているためではなかった。白皙の少女は、ただ静かに、ツァーリに告げた『嘘』を噛み締めていた。

 一人で敵うはずがない? そんなのは真っ赤な嘘だ。大嘘だ。機巧兵の軍勢如き、少女は誰かの手を借りるまでもなく易々と打破できる。それしきのことができないはずもない。摂理だとか因果だとか、無謀だとか無茶だとか、そういうものを捻じ伏せるために造られた人間紛いの存在、それが彼女なのだ。彼女が背負わされた大望は、これしきのことで挫けたりしない。

 だが、彼女を躊躇させる理由があった。そもそも自分はお尋ね者だ。国と国を自由に渡り歩いていると言えば聞こえはいいが、所詮、旅人なんてものは日陰者なのだ。自分の生まれた国で真っ当に生きていくことができない落伍者であったり、罪を犯して逃げ回っているだけだったり、或いは追放されたり、そういう世の中の秩序から外れた逸脱者こそが旅人の本質だ。何に恥じることもなく胸を張って生きていられる人間は、酷悪な旅になど出ない。

 日陰者は日陰者らしく、ひっそりと息を潜めていなければならない。間違っても一人で機巧兵の軍勢を壊滅させるような派手な真似は、できるとしてもやってはいけない。

 だが、少女の脳裏に疑問が混ざる。それなら、本当のことを隠したままで立ち去ればいいのかと考えると苦しくなる。お前は囚われた乙女を見殺しにするのか、自分は助けられるというのに、相応の力を与えられているというのに目を背けるのかと、脅迫する声が聞こえる。

「それは、少し違う」

 ポツリと、少女は否定した。

 少女は人間になりたい。この旅は人間になるためのものなのだ。そして、ここで見捨てるという選択は、彼女を少なからず人間から遠ざけるものだった。理想的な人間像から、引き離すものだった。たとえ、これから為すことがあまりに人間の定義から乖離しているとしても。

「城の場所を教えてください」

「……旅人さん?」

「勘違いしないでください。情けで助けるわけではありません。依頼を受けるだけです。娘さんの無事と引き換えに、相応の報酬は支払っていただきます」

 だから、感謝などと清廉な感情は寄せないで欲しい、と旅人は唾棄した。

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