終わりの、はじまり
温かな感触が、ナナを包み込んでいた。朦朧とした意識が明確になっていく。誰かに抱きしめられている。そう自覚し、ナナは大きく眼を見開いていた。
「おはよう、ナナ……」
彫りの深い顔を綻ばせ、少年が顔を覗き込んでくる。ナナと同じ蒼い双眼は、優しく細められていた。
ママによく似た、彫りの深い顔。間違いない、彼は弟のレイだ。
ナナはじっとレイを見つめる。どうして、調停者であるはずのレイが目覚めているのだろう。セフィロトが死んでしまったせいなのだろうか。
「にゃう」
思わずナナは声をあげていた。その自分の声を聞いて、ぎょっと眼を見開く。とっさにナナは起き上がる。違和感を覚える。
どうして、四肢を切断された自分が起き上がることができるのだろうか。
「あぁ、驚かせちゃったね。ごめん」
苦笑しながら、レイが謝ってくる。ナナは、彼に抱きしめられているらしかった。驚いて、ナナはレイから離れようとする。レイはナナを抱き寄せ、それを制した。
「お願い、このままでいさせて……」
俯くレイの声は震えていた。ナナは抵抗をやめ、彼の顔を覗き込む。レイの蒼い眼には、涙が浮かんでいた。
「にゃう……」
「ナナっ?」
ナナはレイの目尻に浮かんだ涙を舐めていた。そう、レイは見ていることしかできなかったのだ。姉妹たちが死んでいく様子も、セフィロトが殺された時も。
ナナと同じ悔しい思いを抱えながら、レイは泣いているのだ。
ふっとナナは、レイに微笑みかけてみる。
「よかった、元気みたいだね。回復の呪文、母さんたちみたいに上手くいかなかったらどうしようって、すっごい心配だったんだ」
どうやら、レイは魔女たちの回復呪文をナナにかけたらしい。ナナが目覚めなくて、レイは心配してナナを抱きしめていたのだ。
「にゃあ」
ありがとうとナナは笑みを深めていた。レイは気まずそうにナナから視線を放していた。ふっとナナは眼を鋭く細め、周囲を見回す。
「ナナっ」
片手でレイがナナの眼を覆うとする。ナナはその手を払い除け、じっと眼を凝らして周囲を見回した。
アカギの甲板は焦土と化していた。朽ちた零戦を構成していた鉄骨が、黒く焼け爛れその面影を微かに留めている。甲板の中央に眼を走らせる。首のとれた3匹の翼猫たちの死体が視界に映り、その先に焼けただれた大樹があった。
女の形をした幹はすっかり黒く染まり、微風に吹かれて灰を辺りに撒き散らしている。幹の顔にあたる部分は、恐怖に歪んでいた。
ママが、死んでいる。
「にゃあ!!」
「ナナっ!!」
レイの腕から飛び抜け、ナナは翼を広げていた。全速力でママの元へと飛んで行く。ぎゅっと真黒に染まったママに飛びつくと、ほろほろと漆黒の灰がナナに降りそそいだ。口の中に苦い灰の味が広がり、ナナはママから手を放す。
ママをじっと見つめるが、苦痛にみちた表情が変わることはない。目頭が熱くなって、ナナは両手で顔を覆ったまま地面に落ちていった。
「あぁ!! ああぁあぁ!!」
大声で泣きながら、ナナは灰色に染まった地面を転がり続ける。
「ナナっ!!」
そんなナナに大声をかけ、抱きとめるものがいた。
「にゃぅ!!」
両手を退かし、ナナは顔をあげる。レイが悲しそうに顔を歪め、ナナを見つめている。
「ごめん……こうするしか、なかったんだ……」
ナナを起き上がらせ、レイはナナを力強く抱きしめた。彼は耳元でナナに囁く。
「ナナ、セフィロトを見て。世界の終わりが、始まるよ……」
喜悦の滲んだその言葉に違和感を覚える。ナナはそっと海上のセフィロトを見つめていた。
ナナは眼を剥いた。
セフィロトには、女の顔が噛みついたままだった。セフィロトを喰いちぎったあと、顔はそのままセフィロトを貪るつもりだったのだろう。だが、今はその動きを止めている。そんな女の顔が、ごぼりと膨れ上がった。
始めは、額の辺りが膨れていった。次に、眼の周囲に醜い腫瘍のようなものが広がっていく。ミチミチという不気味な音をたてながら、顔の腫瘍は膨らんでいく。
腫瘍は風船が割れるように破裂した。オイルだろうか。大量のどす黒い液体を振りまきながら、女の顔は海へと崩れ落ちていく。海が大きくうねり、アカギの甲板が激しくゆれた。ナナはとっさにレイの首に腕を巻きつけ、ぎゅっと眼を瞑る。
ナナの猫耳に、凄まじい悲鳴が轟いた。眼を開けると、女が崩れる顔を苦悶に歪めていた。女の顔に咥えられていたセフィロトの幹が、大きく蠢いている。
顔が崩れていくその下で、折れたセフィロトの幹は膨れ上がり、内蔵ように表面を照りつかせながら脈動を始める。やがて、肥大したセフィロトの幹は破裂し、その中から巨大な人型が姿を現した。
「ナ……ナ」
たどたどしく、ナナは自分の名前を喋っていた。その人型は、紛れもないナナそのものだったのだ。
均整の整った細い体。漆黒の猫耳。白い顔を縁取る癖のある髪。アーモンド型の蒼い眼。背についた巨大な蝙蝠の翼をはためかせ、その巨人は空を仰ぐ。
薄い唇を開け、巨人は大きく叫ぶ。その叫びは、大気を激しく震わせた。
巨人が、翼を大きく羽ばたかせる。海に巨大な波紋が広がり、アカギが激しくゆれる。
「にゃう!!」
「大丈夫だよ、ナナっ」
ナナは、恐くなってレイにしがみつていた。そんなナナをレイが優しく抱きしめる。
そのとき、ゆれが不意に収まった。波の音がナナの猫耳に届かなくなる。
不思議に思って、ナナは顔をあげていた。
アカギが、浮いていた。
何百年も海に沈んでいた錆びた碇が、勢いよく巻き上げられて海からあがってくる。ナナは周囲の結界島を眺めた。結界島の中心にある空母たちが、深い夜闇の中に浮びあがっている。空母はゆっくりと螺旋を描きながら、ナナの姿をした巨人の周囲を巡り始めた。
巨人が、空を舞う。白い足が海面から引き抜かれると、周囲に硝子を割るような音が響き渡った。
結界島の空母が空に移動した影響で、アトランティスを覆っていた結界が壊れたのだ。
夜空一面に虹色の輝きが現れた。それは、カーテンのようにゆらめき。黒い海を淡い光で彩っていく。
オーロラだ。バミューダ海域では見ることのできない自然現象。それが、アトランティスの上空を覆っている。
その光のカーテンに向かい、巨人のナナは羽ばたいていく。螺旋を描きながら巨人に付き従う空母も、空中へと浮びあがっていった。
ナナたちの乗るアカギは、巨人たちとともに高度をあげていく。
驚くナナの猫耳に、美しいバイオリンの旋律が響き渡った。
パッフェルベルのカノン。その曲が、ナナたちを取り囲むオーロラから放たれている。
カノンに合わせ、アカギは高度をあげていく。漆黒の海面が遠くなり、岩礁のようなバミューダ諸島が見え、大西洋を取り囲むユーラシア大陸と北米大陸が一望できる頃、ナナたちは成層圏を超えようとしていた。
「にゃあ……」
ナナの眼下には、ラピス・ラズリのように輝く地球がある。唖然と、ナナは美しい母星を眺めることしかできない。
何が、起こっているのか分からなかった。折れたセフィロトが自分の形をとり、結界が破られ、ナナたちは宇宙まで来てしまった。
そして、レイが言っていた言葉を思い出す。
――ごめん……こうするしか、なかったんだ……。
焼き殺されたママを見つめながら、レイはそう言ったのだ。たった独り、生き残ったナナの兄弟。でも、ナナは疑ってしまっている。
まるで、レイが――
「ナナ、僕たちからの贈り物だよ」
レイに声をかけられ、ナナは我に返る。自分を抱きしめる彼を見上げると、彼は優しい微笑を浮かべていた。レイは、そ眼下にある地球を見つめている。ナナは、地球へと視線を戻していた。
蒼い地球から、ナナたちのいる成層圏へと無数に飛んでくる者があった。
おびただしい数の翼猫だ。その翼猫たちは、それぞれ2組みになに、何かを運んでいる。猫たちに腕を掴まれ、運ばれているのはニンゲンだった。
たくさんの翼猫たちがニンゲンを捉え、宇宙まで運んできているのだ。
ナナが驚愕に眼を見開く。無数の悲鳴とともにニンゲンを捉えた翼猫たちは、この成層圏へとやってくる。
捉えられたニンゲンたちは、眼と口を大きく開け、そこから血を垂れ流していた。
「人間なんて、死んじゃえばいいって、ずっとナナ思ってたもんね。だから、その願いを叶えてあげる」
弾んだレイの声が、猫耳に突き刺さる。ナナの見ている目の前で、翼猫たちは捉えているニンゲンの腕をいっせいに離した。
ラピス・ラズリのように輝く地球に向かって、無数のニンゲンが落ちていく。その体は摩擦熱によって赤く輝き、白い尾を伴いながら燃えていく。
暗黒の宇宙に美しい輝きが灯っていく。ニンゲンたちは、美しい流れ星となって故郷である地球へと次々と落ちていった。その光景を、オーロラが放つカノンのバックベルが彩っていく。
「綺麗だね、ナナ。本当に、綺麗だ」
レイの声が震えている。感激のあまり、彼は泣いているようだった。レイの泣き声に、ナナは戦慄していた。
ニンゲンは憎い。ナナたちの仲間を、家族を奪い、大切なセフィロトすら奴らにめちゃくちゃにされた。
だが、落ちていく人間の中には、ナナより幼い子供がいた。産まれたばかりの赤ん坊がいた。ぎゅっと我が子を抱きしめたまま、落ちていった母親の姿もあった。
ナナたちを殺すことすら出来ない幼い命たちが、同胞の手によって次々と殺されていく。ニンゲンたちが魔女やナナたち翼猫を殺していたように、同胞の翼猫が、まったく同じことをニンゲンたちにしている。
嘔吐感が込み上げてくる。ナナは口を両手で覆い、せり上げってくる嫌悪感に必死になって耐えた。
「どうしたの、ナナ?」
不思議そうにレイが顔を覗き込んでくる。彼は、この光景を見て感動すらしていた。その異常さに、ナナは得体の知れない恐怖を覚えていた。
レイを力いっぱい突き飛ばし、ナナは駆ける。翼を広げ眼下の地球を眺める。
逃げよう、ここにいてはいけない。何かが、何かがおかしい。
レイは、おかしい。
アカギから飛び立とうとした瞬間、ナナはその手を掴まれ強引に引き寄せられた。
背中に激痛が走り、ナナは甲板へと落ちる。そんなナナの視界にレイの顔が映り込む。
「どこに行くの? ナナ」
彼の声は硬かった。蒼い眼でナナを見据え、レイはナナの体に馬乗りになってくる。抵抗しようとするナナの両手を片手で一纏めにして、地面に押しつける。
「喜んでくれると思ったのにな……。ナナも結局、母さんやセフィロトと一緒なんだね。人間たちはさんざん、僕たちをいたぶってきたのにさ……」
静かな彼の声には、かすかな怒りに震えていた。彼は眼を醜く歪め、ナナに哂ってみせる。
「僕たち調停者はずっとセフィロトとこの地球を見守ってきた。でも、人間たちはどんどん悪くなる一方だ。だから、セフィロトに僕らは言った。人間を滅ぼすべきだって。でも、セフィロトは僕たちの提案を拒絶した。だから、僕たちはセフィロトの精神を乗っ取ったんだ。セフィロトを犯して、意思を奪って、僕たちの精神と一体化させた。だから、調停者なんてもういらない。今は、僕たち調停者が、セフィロトなんだから……」
レイが何を言っているのか、分からない。混乱するナナの猫耳にレイは言葉を吹き込んでいく。
「でも、魔女たちは、母さんたちはそんな僕たちを理解してくれなかった。だから、人間たちに手を貸して、母さんたちを殺してもらったんだ。大変だったな。セフィロトを犯してる最中だったから。結界の抜け道を人間たちに教えて、ネフィリムの作り方までアドバイスしてやってさ……。今回の掃討作戦で初陣飾ったグリゴルの作り方もアドバイスした。
母さんたちには、悪いことしちゃったと思ってるよ。でも、分かってくれない、あの人たちが悪いんだ……」
ナナは、歪んだ笑みを浮かべるレイを見つめる。
ナナは、ずっとニンゲンが憎かった。空からネフィリムたちが攻めて来るまで、ナナたちはアトランティスで平和に暮らしていた。それを、ニンゲンたちが奪い去っていった。ナナの仲間を、姉妹を殺し、ナナたちの日常は、戦いと殺戮に彩られた。
その原因を作り上げたのは、目の前にいるレイなのだ。
同胞であり、血を分けた弟が、ナナの大切なものを奪い、ナナを戦いへと駆り立てていた。
「うわぁあぁぁあぁぁぁあ!!」
ナナは叫び、必死になってもがく。だが、拘束された手はビクともしない。
「興奮しないでよ、ナナ……。君には、生き残ってもらわないと困るんだ。君を生かすために、どれだけの子が犠牲になったと思ってるの? 君が死にかけるたびに、僕たちは、彼女たちに呼びかけて君を助けてもらった。本当に、彼女たちの犠牲には感謝しているよ……」
穏やかな微笑みを浮かべ、レイは優しくナナに語りかける。
レイの言葉に、ナナは戦慄した。
ナナを庇って海底に沈んでいった、三毛猫の少女を思い出す。ナナを庇ってバラバラにされた、姉のヤエの姿が脳裏を反芻する。
ナナは牙を剥き、レイに唸っていた。レイは笑みを引き、そんなナナをじっと見つめる。
顔をナナに近づけ、彼はナナの唇を奪ったのだ。
唇が柔らかな感触で包まれ、ナナは大きく眼を見開いていた。レイは眼を笑の形に歪め、舌をナナの唇にすべり込ませる。ナナの口腔に侵入した舌は、ナナの舌を絡めとっていく。
「っ――」
口腔を激しく犯され、ナナは体を震わせていた。卑しい水音が響き渡り、ナナの体を駆け巡っていく。体の力が抜けて、得体の知れない感覚がナナを包み込んでいく。
レイが唇を放す。ぐったりとナナは力を失い、甘い息を吐いていた。そんなナナの猫耳に微かな音が響き渡る。
それは、羽音だった。暗い宇宙を捉えるナナの視界に、こちらに飛んでくるものが映り込む。結界島で眠りについているはずの翼猫たちの雄が、このアカギ目指して飛んできていた。
どうしてと、ナナは思う。
どうして、レイはナナを生かしたのだろうか。どうして他の調停者たちが、ここにやってくるのだろう。
「君には、僕たちの子供を産んで欲しいんだ……」
疑問に応えるように、レイが猫耳に囁く。
「セフィロトと一体化した僕たちにかかれば、君に翼猫を産ませることぐらい簡単にできるよ。それ以前に、君には魔女の血が流れている。みんなで、ずっとそうしたいって思ってたんだ。人間に汚された地球を捨てて、新しい星で僕たちの子孫をたくさん作ろうって。僕たちの子供は、姉さんたちの中でも、特に強くて優しい君に産んでもらおうって」
ぞわりと、ナナはレイの言葉に戦慄を覚えていた。悲鳴をあげようとするナナの唇をレイが塞ぐ。他の調停者たちがアカギに降り立ち、ナナのもとへとやって来る。
彼らの手が、嫌だと鳴くナナの体に伸ばされていく。
パッフェルベルのカノンが、ナナの悲鳴を優しくかき消していった。
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